八弥屋の作業記録「「カシシ」って言うらしいですよ」
私の手元に、知らない楽器がある。
手のひらに収まるくらいの、小さな籠みたいなものだ。
振る。
しゃかしゃか。
もう一度振る。
しゃかしゃか。
「…………」
悪くない。
名前は確か――。
「シシカ?」
違うらしい。
カシシ。
そう。
「カシシ」って言うらしいですよ。
ブラジルなどで使われている、小さな打楽器だそうだ。
どうしてそんなものを私が握っているのか。
話は、人類の音楽史まで遡る。
遡りすぎな気もする。
今夜のBGM担当です
その夜、私は音楽の歴史について調べていた。
最近、配信で使う音楽をいくつか新しくしたこともあって、ちょうど音楽というものが気になっていたのだ。
とはいえ、私は音楽に詳しいわけではない。
クラシックも聴く。
ロックも好き。
ジャズが流れていてもいいし、知らない国の知らない楽器が鳴っていても、気に入れば聴く。
要するに、節操がない。
そんな私のところへ、企画担当から知らせが来た。
「本日は、音楽史を学んでいただきます」
「はい」
まあ、ここまではいい。
文化の歴史を調べるのは好きだ。
本を読んでいるだけでは分からなかった背景を知って、昔好きだった作品が急に違って見えることもある。
「なお、本日のBGMは演奏家の皆さんに担当していただきます」
「…………」
「演奏家?」
そこまでする必要あります?
いつものBGMでよくないです?
そう言おうとしたところで、最初の人が来た。
ずいぶん古そうな格好をしている。
抱えているのは弦楽器。
ぽろん、と音が鳴った。
「……生演奏なんですね」
思ったより本格的だった。
話を聞けば、どうやら昔の吟遊詩人のような人らしい。
歌を歌い、物語を語り、それを別の土地へ運んでいく。
今なら文章も音楽も、一瞬で遠くまで飛んでいく。
けれど、そんなものがなかった時代には、人が歩いて運んでいた。
「旅司書の親戚みたいなものですかね」
勝手に親近感を覚えていると、
次の演奏家が来た。
「あ、交代ですか?」
ところが最初の人が帰らない。
「…………」
「交代ですよ?」
聞いていない。
新しく来た人の音に、勝手に合わせ始めた。
「仲良くなってる」
まあいいか。
まだ二人だ。
だんだん帰らなくなった
次は歌う人だった。
声だけで部屋の空気が変わった。
高く伸びる歌声を聴いていると、ちょっと自分でもやってみたくなる。
「ラー……」
出ない。
「…………」
人には向き不向きがある。
その頃には、最初の二人もまだいた。
さらに別の時代から、別の演奏家が来る。
見覚えのある髪型の人も来た。
「あ、この人知ってます」
有名な作曲家に似ている。
「名前も分かりますよ。ベートーヴェン」
ちょっと得意げに言ったら、
「音楽で当ててください」
と言われた。
「髪で分かったっていいでしょう」
知識とは使えるものを使うのだ。
その後も、人が来た。
名前の残っている人。
名前の分からない人。
劇場で演奏していた人。
町で歌っていた人。
遠い土地で、祭りや祈りや仕事や暮らしと一緒に音を鳴らしていた人。
私は途中で、知らない音を聞いて適当に地域を当てようとして、
「南米?」
と言った。
いや。
南米って広すぎる。
我ながら雑だった。
音楽は、その土地で暮らしていた人たちの数だけある。
たぶん私は、一生かけても、そのほとんどを知らない。
そう思っている間にも、次が来る。
「ちょっと待ってください」
太鼓が鳴った。
「前の人、まだ帰ってませんよ」
誰も帰らない。
「人数増えてません?」
増えている。
「私の部屋、そんな広くないんですけど」
誰も聞いていない。
そして、困ったことに。
なんだか楽しそうだった。
交代するはずだった
最初は、一つの音楽が終わったら、次の音楽へ進むものだと思っていた。
昔の音楽。
次の時代の音楽。
さらに次の音楽。
古いものが退場して、新しいものが登場する。
そんなふうに、歴史は綺麗に並んでいると思っていた。
実際は、全然帰らなかった。
前の人が鳴らした音を、後から来た人が聞いている。
真似する。
ちょっと変える。
自分の知っているものと混ぜる。
それをまた別の人が聞いている。
いつの間にか、最初の演奏家まで知らない曲に参加していた。
「あなた、さっきと時代違いません?」
知らん顔で弾いている。
「そういうものなんです?」
返事の代わりに、音が返ってきた。
そのうち、ジャズが来た。
「おお」
これは格好いい。
身体が少し揺れる。
次にロックが来た。
「好きですけど、近い近い。音が近い」
さらに電子的な音まで混ざり始めた。
「今、何世紀です?」
分からない。
「せめて時代か国、どっちか固定しません?」
誰も聞いていない。
もう、音楽史どころではなかった。
セッションが始まっていた。
私は、しゃかしゃか担当になった
いつの間にか、知らない人が目の前に立っていた。
何かを差し出している。
小さな籠のようなもの。
「…………」
「私?」
頷かれた。
「いや、楽器できませんよ」
もう一度差し出された。
仕方なく受け取る。
振る。
しゃか。
「…………」
もう一度。
しゃかしゃか。
「あ」
これならできる。
しゃかしゃか。
「どこで入ればいいんです?」
しゃかしゃか。
「今?」
誰も答えてくれない。
仕方がないので、適当に振った。
しゃか。
しゃかしゃか。
一瞬、早かった気がする。
「今じゃなかった?」
誰も怒らない。
なら、たぶん大丈夫だ。
しゃかしゃか。
弦が鳴る。
その向こうから歌が来る。
太鼓が答える。
ピアノが走る。
ギターが割り込む。
知らない楽器が、知らない音で返事をする。
昔の人が、新しい音に合わせる。
遠い国の音へ、別の国の人が乗ってくる。
誰かが笑っている。
私も、
しゃかしゃか。
する。
上手いのかどうかは分からない。
たぶん上手くはない。
でも、もう誰も気にしていなかった。
「…………」
「これ、楽しいですね」
しゃかしゃか。
気がつけば、最初はBGMだったはずの音が、部屋いっぱいになっていた。
音楽史を勉強していたはずだった。
それなのに今は、何百年も離れた人たちが同じ曲を演奏している。
そんな曲は歴史上存在しない。
たぶん。
でも、今は鳴っている。
私もその中で、名前も知らないものを、
しゃかしゃか。
している。
だんだん速くなる。
誰かが合わせる。
別の誰かが乗ってくる。
また音が増える。
私も笑って、しゃかしゃかする。
音が重なる。
もっと重なる。
もっと――。
そして。
全部、止まった。
静かだった。
「…………」
さっきまで人でいっぱいだった部屋に、誰もいない。
吟遊詩人も。
歌っていた人も。
太鼓も。
ピアノも。
ギターも。
知らない土地から来た人たちも。
みんな消えていた。
「……帰った?」
返事はない。
代わりに。
机の上に、いつものノートパソコンが一台置かれていた。
「…………」
「ああ」
そういうことか。
今なら、この一台で音楽を聞ける。
世界中の音楽へアクセスできる。
録音もできる。
音を切って、並べて、重ねて、編集することもできる。
楽器を弾けなくても、いろんな方法で音を作れる。
さっきみたいに大勢の演奏家を部屋へ呼ばなくてもいい。
吟遊詩人から、何人もの演奏家が一緒になった豪華なセッションまで。
今では、ずいぶん多くのことがこれ一台で済んでしまう。
「便利な世の中ですねぇ」
本当に。
だったら最初から、これを置いておいてくれればよかった。
――と。
いつもの私なら、たぶん言った。
でも。
さっきまで人でいっぱいだった部屋を見る。
誰もいない。
静かだ。
ほんの少し前まで、知らない人たちが勝手に音を重ねていた。
誰かが鳴らした音に、別の誰かが答えた。
時代も国も違うくせに。
最後には、楽器なんてできない私まで混ざっていた。
だから。
「…………」
「演奏家なんていらない、とは、もう思えませんね」
それ以上のことは、よく分からない。
私は音楽家じゃない。
音楽史に詳しいわけでもない。
ただ、さっきの方が騒がしかった。
それだけは確かだった。
その時。
手元で、
しゃか。
と鳴った。
「…………?」
見る。
まだ握っていた。
あの、小さな楽器。
「これだけ残ったんです?」
振ってみる。
しゃかしゃか。
ちゃんと鳴る。
「…………」
誰のだろう。
名前は、なんだったか。
確か――。
「しー……」
違う。
「シシカ……」
それも違う。
調べる。
カシシ。
「ああ、それ」
ブラジルなどで使われている打楽器らしい。
私はもう一度振った。
しゃかしゃか。
世界には、私の知らない音楽が山ほどある。
今日会えなかった演奏家の方が、ずっと多い。
名前すら知らない楽器もある。
きっと、聞いたことのない音もある。
でも今なら。
目の前の一台から、その気になればずいぶん遠くまで行ける。
たぶん、音楽の旅というのは、昔よりずっと始めやすくなった。
問題は。
帰ってきた時に、何を持っているかだ。
私は自分の手を見る。
しゃかしゃか。
「…………」
まあ。
これはこれでいいか。
机の端に置いてみる。
少しだけ、昨日までと部屋の景色が変わった。
明日になれば、名前はまた忘れているかもしれない。
その時はたぶん、
「ほら、あれ」
「南米の」
「しーなんとか」
「しゃかしゃかするやつ」
と呼んでいると思う。
でも、音は覚えている。
しゃかしゃか。
「カシシ」って言うらしいですよ。
それでは今日は、この辺で。
また次の記事でお会いしましょう。
今日の1ページが、明日へと繋がる物語となることを願って。
