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消えてなお、光り続ける。【エッセイ】

私のおばあちゃんもおじいちゃんも、ちょっぴり変わった人たちだったなぁ。

お盆になると、帰省される方も多いからでしょうか。
なんだか、祖父母や親戚のことを思い出す時期ですよね。

ということで、今日はのぞみんさんのすてきな企画「教えて!あなたの、おじいちゃん、おばあちゃん」に参加しますね。


冒頭で「ちょっぴり変わった人」なんて書きましたが、祖父はともかく、祖母のことはほとんど覚えていないんです。

私が2、3歳くらいの頃に、咽頭がんで亡くなりました。まだ60代半ばだったと思います。

私がうっすら覚えている祖母というのは、なんだかうす暗い病棟で、人工呼吸器につながれていて、意識もない姿です。

なんか、湿っぽい話でごめんなさい。

でもね、実は、祖母は亡くなっていて、思い出に残っていなくても、私を助けてくれていたんです。

その話をする前に……祖母がどんな人だったか、少しだけ。

母から聞いた限り、祖母は優しい人だったみたいです。
私が生まれたことを大層喜んで、可愛がってくれていたと。

母は私が幼い頃に父と離婚してしまったのですが、もし祖母が生きていたら、母が実家に戻った後、祖母は幼い私のお世話をしてくれていたはずです。

そうすれば、母は一人で私を育てる必要が無く、実家を頼って、今の人生よりずっと楽に生きられた可能性が高い。

けれどそうじゃなかった。

祖父は悪い人ではないのですが、どちらかというと「わが道を行く」タイプなので、孫を甲斐甲斐しく世話をしたり、娘であっても他人のために自分の自由や生活を捨てるつもりはない人でした。

だから、祖父は母や私が実家にいても、「実家を売却し、マンションを買って独り暮らしする」という決断をしました。母と私には出てけってことですね。

私や母との同居は、一人を好む祖父にとってかなりストレスだったのでしょう。

その上、祖父が購入したマンションというのは、どう考えても助けが必要な母や私の側ではなく、円満な叔母夫婦の住む町にありました。

祖父は、母や私よりも、叔母や従姉の側にいたかったんですね。

私が祖父でも同じ選択をした気がします。
だから理解はできますが、母にとっては優しくなかった。

行き場がなくなった母は実家があった場所の近くにマンションを借りて、まだ小さい私を育てながら仕事を探さなければならなかったんです。

私も近所のお友達とはお別れしなければならなかった。

それからも何度も引っ越しして点々としたために、「幼馴染」のような存在ってほとんど残らなかったんですね。

祖母が生きていたら、実家を売るなんて許可しなかったんじゃないでしょうか。

母と私の人生は、かなり違っていた可能性が高いです。

実際、母はほとんど全員のことを悪く言いますが、祖母の悪口だけは聞いたことがありません。
きっと母は、祖母のことが大好きだったんですね。
「まだあんなに若かったのに」
「本当に優しかった」
なんてしきりに話していました。

働きに出る母のために、ハイヒールからの履き替え用の靴を持って、毎日駅まで迎えに行ってあげていたとも聞きました。
愛情深い人だったのですね。

でも変人エピソードも垣間見えます。

「甘い煮物しか作らなかった」
「いや、むしろ甘いものしか食べなかった」
「何度も魚の骨を喉に刺して救急搬送されていた」

なんだそれ。

そう思いますよね。私も「なにそれ?」と聞いたのですが、どうもかなりの偏食で、料理は全てが甘い味付けで、それ以外作らなかったと。さらに肉を食べず魚だけ。しかも喉に骨が刺さるということは、骨ごと豪快に貪り食っていたのでしょうか。

よくわかりません。

むろん、家族は同じものを食べていたはずですが、祖母以外が救急搬送されたとは聞いていませんから、祖母の食べ方にも問題があったのでしょう。

その上、「何度も」救急搬送されたとのことですから、一度の救急搬送で「魚を食べるのをやめよう」とはならなかったのですね。理解できませんが、相当魚を骨ごと食らうのが好きな祖母だったのでしょう。

魚料理以外のレパートリーは一切ないのか、母は子供の頃お弁当箱に「くさや」を入れられて、学校で大層恥ずかしい思いをしたとも聞きました。

お弁当に「くさや」って。

聞いたことない。

嫌がらせかと思いますが、悪気はなかったんでしょうね。

偏食に関して人のことは言えませんが、ちょっと変な人ですね。

私の家系は女腹で、祖母の姉妹は7人ほどいますが、そのほとんどが、どこぞの社長やら会長やら役員やらと結婚し、非常に裕福です。一般人(祖父)と結婚したのは祖母だけ。単にご縁の問題かもしれませんが、その辺りから、もう変わっていたのかもしれません。


そんな祖母。
私は、墓石となってからの姿の方を、ずっとよく覚えています。

片田舎のお寺にある、祖母の墓石。

毎年従姉や叔父、叔母と集まって、お墓参りに行っていました。

以前別の記事で書いた通り、私は従姉が大好きです。

母にとって祖母がそうであったように、私がこの世で掛け値なく人生を通してずっと大好きだと言えるのは、彼女だけです。

私の人生には暗いことも多かったのですが、従姉たちと過ごすひとときは、私にとって唯一胸が高鳴る大切な瞬間でした。それは幼い頃からずっと変わりません。

本当はもっと会いたかった。ずっと一緒に居たかった。

でもなんだか、私は大好きでも相手には嫌われているような気がして、気が引けるなぁって。大人になるにつれて、あんまり会う機会もなくなっていきました。

でも祖母のお墓参りや法事になると、それを口実に、ひと時だけ会えるから。

私には祖母の思い出がほとんどないけれど、大好きな従姉は祖母が叔母を生んでくれなければこの世にいなかった。

そして、祖母は真っ黒な墓石になっていても、ずっと、私が従姉という大好きな存在に会うためのよすがになってくれていました。

それを祖母のおかげ、なんて思ったことは、今の今までなかったのですけれど、この記事を書くにあたって、「あ、そうだったなぁ」って。

真夏の太陽の下、みんなで集まった。「おばあちゃんはお風呂が大好きだったのよ」という優しいつぶやき。祖母の墓石に優しくお水をかけてあげる時の水音。雑巾で拭う、墓石の熱さ。火をつけたお線香の匂い。今も蘇ります。

一人ひとり、順番に手を合わせて祈りました。

おばあちゃん、天国で元気ですか。
私は元気です。お母さんも元気です。
天国で見守っていてくださいね。

そんなことを祖母に語り掛けました。毎年、毎年。

けれど祖母が毎年親族が集まってくれるぐらい愛されていなければ、もっと従姉とは縁遠かったんだろうし、大切なつながりも失って、私の人生はさらに暗いものになっていた可能性が高いです。

なんだかそう考えると、祖母は亡くなってからもずっと、私に温かい気持ちや、愛情をくれていたなって。

死は、人間の終わりではないんですね。

どんな人生も、例え小さくても誰かに影響を与えながら進む。

本人がもうこの世界から消えてしまっても、意外な形で残り、誰かの人生に明るい光を投げかけてくれることがある。

きれいごとではなくて、実際に、そうして巡っていくものですね。


のぞみんさん、企画を通して大切なことを教えてくださって、ありがとうございました。

のぞみんさんのすてきな企画は、2026.8.22(土)まで。
書いてみることで、あなたも何かご自分の家族や人生について、新しい発見があるかもしれませんよ。


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