『手を離すということ』 ――完璧を待たない小さな勇気
何か新しいことを始めようとするとき、躊躇する人がいる。
始めることだけは決めたのに。
もう少し準備してから。
もう少し上手になってから。
もう少し自信がついてから。
そう考えているうちに、時間だけが過ぎていく。
もちろん、準備することは大切だ。
「仕事の8割は準備だ」という人もいる。
考えることも、細部を詰めることも、失敗を避けようとすることも悪いことではない。
むしろ、何かを真剣にやろうとすればするほど、簡単には手を離せなくなる。
けれど、どこかで気づく。
完璧な状態や完璧なタイミング…
そのようなものは、待っていてもおそらく永遠にやってこない。
完璧という言葉は、ときに聞こえのいい「言い訳」にもなる。
9割まで来れば、残りの1割が気になる。
その1割を直せば、それまで見えなかった小さな欠点が見えてくる。
見れば見るほど、直したいところが増えていく。
突き詰めれば突き詰めるほど、完成が遠のいていく。
完璧へのこだわりが完成を邪魔し始める。何とも皮肉な話である。
だから、あるところから先に必要なのは完成度をさらに高める能力ではなく
「ここで一度、手を離してみよう」
と思える、小さな勇気なのかもしれない。
やってみて、失敗する。
直して、またやってみる。
その方が、結局は前へ進めることを、自分でもたぶんわかっている。
どこかで決めなければいけない。それもわかっている。
だけども、最初の一歩がなかなか踏み出せない。
やっぱり失敗したくないからなのか…
人からどう見られるかが気になるからなのか…
自分自身に失望したくないからなのか…
覚悟が決まっていないからなのか…
おそらく、そのすべてだろう。
けれど最近、もう一つあることに気づいた。
「始めないことにも、失うものがある」ということに。
失敗は目に見える。
だから怖い。
けれど、やらなかったことで失われた経験や出会い、そこから先にあったかもしれない可能性は目には見えない。そして知ることもない。
いわゆる機会損失である。
この言葉は知っていた。
けれど、自分のこととして実感したことはなかった。
それはそうだろう。
動いた後にしか、その機会はやってこないのだから。
失敗には形があるが、機会損失には形がない。
だから私たちは、失敗することの痛みには敏感なのに、
何もしなかったことで失っているものには気づきにくいのかもしれない。
そんなことを考えながら、私は今、ある小さなことを始めようとしている。
始めるだけなら、そのカーソルの先にある一点をクリックすればいいだけ。
それなのに、マウスに添えた人差し指がなかなか動かない。
何でだ?
文章を読み返す。
一文字直す。
また読み返す。
今度は句読点が気になる…
完璧なものなど存在しないと、頭ではわかっているのに…
もうこれで終わりにするって、さっき決めたはずのに…
イライラを感じ始めた。
じんわりとした怒りも湧いてきた。
決めきれないでいる自分に対して、だ。
時間はいつも通り淡々と過ぎていく。
さっき時計を見た時から、もう8分経過していた。
今戦っている相手は他人ではない。誰でもない自分だ。
決めたい自分と、決めきれない自分。
天使と悪魔のけんかとも違う。
もうわかっている。
腹立たしいのは「決めたい自分」がいるから。
だからこそ「決めきれない自分」にイラついている。
焦りなんかではない。
小さな怒りだ。
ところが、そんな葛藤も十分にくり返し、さらに一歩進んだころ。
今度こそ、いよいよ始めようというところまで来たら、妙なことに気づいた。
この躊躇している時間を、自分は少しだけ楽しんでいるのではないだろうか。
始めてしまえば、もう「始める前」には戻れない。
「初めて」は一回しかなく、二回目からは、もう「初めて」ではなく「二回目」でしかない。
初めて何かを始めようとしているときの、この期待と不安が入り混じった何とも言えない感覚は、おそらくこの一度しか味わえない。
早く始めたい。
でも、もう少しこの場所にもいてみたい気もする。
でも、やろうと思ったらいつでも始められる。
もうその気にはなっている。
ただクリックするだけだ。
でも、失敗はしたくない。
でも、失敗から学びたい。
完璧などないことも知っている。
それでも、もう少しだけ良いものにしたい。
行ったり来たりを何度もする。
でも、さっきまでの「行ったり来たり」とは少し違う。
人間の心は、どうやらそんなに合理的にはできていないらしい。
矛盾をなくしてから前へ進もうとすれば、いつまで経っても動けないのかもしれない。
勇気とは、おそらく不安が完全になくなることではないのだろう。
迷いがなくなることでもない。
少しの不安と迷いを抱えたまま、決断までの時間を少し短くすることなのかもしれない。
怖さも、未練も、矛盾も残ったまま、
それでも「まあ、なんとかなるだろう」と、そっとその手を離すことなのかもしれない。
そして、手を離してみて初めてわかることがある。
その瞬間、「何か」が変わったのを感じる。
確かに「何か」が動きはじめた。
どれだけ丁寧に考えても、手にあるうちはわからなかったものが、動き始めた途端、見えてくることがある。
手放すことができた解放感からか、景色が少し違って見える気がする。
だから人生のどこかでは、完成させる力と同じくらい、未完成のまま動き出す力が必要な時があるのだと思う。
打席に立たない限り、ヒットもホームランも打てないのだから。
今日、そのことを頭ではなく、体で少しだけ理解した。
そして思った。
「一体何だったんだろう? 終わってみれば、全然大したことなかったな」と。
