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相模国風土記を訪ねる、境川右岸横山党の鎌倉道

マイナー鎌倉街道シリーズ、noteでは初ですね。noteの前に使っていたbloggerでは、何度か記事を発行しています。例えばこれ。

鎌倉街道は、上道、中道、下道を本道とし、その他、その地区でしか知られていないような、マイナーな鎌倉街道が幾つもあります。

このシリーズではそれらを取り上げています。

今回は、境川右岸の鎌倉街道です。

境川と言えば、左岸に本道鎌倉街道上道がありますが、だったら、右岸に鎌倉街道があってもおかしくない、ということで、事前机上exploreしてみたら、予想通り、ありました。

大和市深見の天竺坂の説明文です。

"天竺坂、深見城築城の際に作られた空堀にあたる道。この坂と交差する南北方向の道は鎌倉古道と呼ばれ、市域では公所から境川右岸川沿いに南下し、藤澤宿(藤沢市)に至り東海道に合流していた古道です。"

鎌倉街道と言えば、尾根を真っ直ぐ行く道筋ですが、鎌倉街道上道も、尾根ではなく、境川に沿った低地を行く道筋です。

しかしその直ぐ東に、境川と和泉川の間の台地尾根を行く、たつ道と呼ばれる道、現代の環状4号、産業道路がありまして、1333年の新田義貞鎌倉攻めでは、たつ道が使われたと言われています。

ですから軍用で急ぎの場合はたつ道を、普段は鎌倉街道上道で人が住む集落を繋ぎながら、鎌倉に向かっていたのだと思われます。

◇■□◆

藤沢本町駅まで輪行、まずは白旗神社です。

白旗神社、元は相模国一宮寒川神社の御分霊を祀る寒川神社でした。義経の伝承を耳にした頼朝が、白旗神社と改名したのです。

義経は奥州平泉で討ち取られましたが、首実検の為、その首は鎌倉に持ち込まれました。鎌倉の境界、腰越で、和田義盛と梶原景時が首実検し、その後は、片瀬浜に捨てられたと言われます。なんと酷い、、、。伝承では、義経の首は、片瀬浜から境川を遡り、里人が拾い上げ、この神社付近の井戸で洗い清められたと言われます。

まだ藤沢ですから当たり前と言えば当たり前ですが、早速、鎌倉期の香りがする伝承です。

r1を潜り白旗歩道橋で道は二手に分かれます。

左・西は、八王子道、あるいは滝山街道で、後北条氏の滝山城と玉縄城を結ぶ道と言われますが、こちらも鎌倉街道でしょう。境川右岸鎌倉道の直ぐ西を走り、巧みに谷戸を避け尾根を真っ直ぐ行く道だからです。軍勢が急ぎ通る時はこちらを使ったものと思われます。

右・東が、境川右岸を行く、境川右岸鎌倉道です。

境川左岸の鎌倉街道上道とたつ道との関係性が、境川右岸にも同じようにあったわけです。

今回は境川右岸鎌倉道を行きます。

境川右岸、台地の縁を行きます。暫くすると、神明社があります。

神明社、男達が普請していまして、これ以上、近付くのを遠慮しました。

神奈川県神社庁によれば、

"往古権五郎景政伊勢神宮の御柱の材を持来りて造立後、三浦介義澄の崇敬するところとなり堂宇を修整せりと伝う。"

ということです。

この辺りは大庭御厨で、鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進していましたから、こういった伝承となっていると思われます。

またしても鎌倉期の香りがする伝承です。

この直ぐ先に、御嶽大神があります。

御嶽大神

風土記によれば、

"村の鎮守なり、神体長さ一尺一寸。本地大日、不動もありしと言えど今は失えり、側に堅牢地神を安す。例祭六月十五日なり。社伝に建久六年十一月の勧請といえど、吾妻鏡を推考するに、当村に大日堂あり、建久六年十一月田畑を寄進せらる、これ、俣野五郎景久、帰敬の梵閣にして、本仏は、権五郎景政、伊勢神宮御柱の材を取って造立し、権大僧都頼親が室にて開眼供養を遂げて安置す。その後、景久没後、堂宇傾危に及びして、景久が室、この事を愁いしに三浦介義澄助力して修整せしことを載す。"

神明社と合わせて整理すると、鎌倉権五郎景久、この人は 延久元年1069に生まれ、死没年月は不明ですが、長承4年1134に、子の景継が、大庭御厨下司として記録に見えますので、その前後に死去したものと思われます。

鎌倉権五郎景政が生前、長治年間1104 - 1106に、大庭御厨を開発し、永久4年1116頃、伊勢神宮に寄進しています。

ですから恐らく1116 - 1134の間に、鎌倉権五郎景正が、伊勢神宮の御柱の材を使って、大日如来と神明社の社を作ったのだと思われます。

その大日如来は、代々、鎌倉家・大庭家で大切に守り続けられてきて、俣野五郎景久も、帰敬の梵閣として守ってきたわけですが、治承4年1180の石橋山の戦いで平家方につき、その後、平家方は敗れ、俣野五郎景久は逃れたものの寿永2年1183、加賀国篠原の戦いで、木曽義仲に討たれました。以降は帰敬の梵閣も荒廃に任せていたのでしょう。建久六年1195に改めて大日堂が開かれ、先祖伝来の大日如来を祀ったのだと思われます。

俣野五郎景久 ← 大庭景義 ← 大庭景宗 ← 鎌倉景明 ← 鎌倉景村 ← 鎌倉章名

鎌倉権五郎景正 ← 鎌倉景成 ← 鎌倉章名

ですから俣野五郎景久は、鎌倉権五郎景政と同じ一族です。

尚、三浦義澄ですが、三浦氏の租、三浦為通は、鎌倉章名の兄弟ですから、やはり同族ということになります。

三浦義澄は、大治2年1127 - 正治2年1200ですから、特に俣野五郎景久が死去した寿永2年1183以降、助力したのです。

先を行きます、北北東に向かっていた境川が大きく北西に向きを変える辺り、ここに嘗て閻魔堂があり、歴代住職の墓等が残っていますが、その中に、小栗判官と照手姫の墓もあります。はい、上溝辺りもそうでしたが、小栗判官伝承があるのですね、俣野には。

と、思って調べると、この小栗判官物語の発信基地とも言えるのが遊行寺であること、その遊行寺の前身に当たる念仏道場が俣野にあったこと、俣野氏は遊行寺の開基であること、等、ここ俣野に小栗判官物語がある必然性が、しっかりとありました。

卒塔婆が背後にあるのが照手姫、その向かって左、一際高いのが小栗判官墓です。

この直ぐ先、左馬大明神社があります。

左馬大明神社、左馬頭義朝の祠なり

旧地はここより西の、畑の中にあったようですが、境川流域に12の社が集中して鎮座しているサバ神社の一です。

色々と謎が多いようですが、祭神は源義朝か満仲のどちらかで、何れにせよ、平安鎌倉期の香りがしますね。

境川右岸の西俣野集落から台地に上がります。

奥に白い柵が見えますが、これは境川サイクリングロードの柵です。ご覧の通り、境川が河岸段丘に迫っていて、道が通せないのです。
だから、こうして河岸段丘に上がらなければならないのです。
歴史的農業環境閲覧システムより

迅速測図でも分かりますね。境川が河岸段丘に迫ってもう進めないから河岸段丘に上がっていることが。

さて、今来た片実線片点線の村道が、十字マークを置いた地点で南北に走る一本実線荷車道と交差します。この一つ西の道、迅速測図で集落が見えますが、両実線のこの道が滝山街道なんですが、一本実線荷車道の方を北上すると、今田村に至るのですが、今田村の風土記の記述に、"今田村、甲州及び八王子道係れり、また、甲州古道と称するあり" と、あるのです。恐らく、"甲州及び八王子道" は滝山街道、"甲州古道" が一本実線荷車道でしょう。となると、これが境川右岸鎌倉道ということになります。

一本実線荷車道、甲州古道、境川右岸鎌倉道を北上し、亀井野の集落に入ると、雲昌寺があります。

雲昌寺、寺紋は曹洞宗の久我龍胆

風土記によれば、"光輝山と号す、曹洞宗。寺伝には北条陸奥守義時、入道して光輝院瑞龍道済庵主と号す。入唐して観音の像を感得し、帰朝の後、今田村の地に当寺を草創し、その像を安置して、光輝山瑞龍寺と号す。これ、建保年中の事なり。故に義時瑞龍道済を開基とす。"

ということですが、これは流石にあり得ないでしょう。実際、寺紋は曹洞宗の久我龍胆で、他は徳川の葵の御紋のみで、三つ鱗は見つかりませんでした。まぁでも、鎌倉期の香りがする伝承ではあります。

尚、旧地は藤沢工科高とのことで、面していたのはこちらの方の道ですから、やはりこちらが甲州古道、鎌倉街道ということになります。

この道を突き当たりまで進むと今田鯖神社があります。2社目ですね。

今田鯖神社、村の鎮守とす、村持。境内掲示によれば祭神は源義朝。境川に向いていますから、水神様としての意味もあったと思われます。

ここから先はターミナル駅の湘南台の開発によって消失しています。東勝寺辺りから復活。

東勝寺、お寺のサイトによれば、1333年の新田義貞鎌倉攻めによって北条家滅亡しましたが、それを悼み開かれたとか。鎌倉期の香りがする伝承です。こちらの寺紋はしっかり三つ鱗です。

この直ぐ先、七ツ木神社がありますが、ここもサバ神社です。

七ツ木神社、当初は鯖明神社と呼ばれていました。祭神は源義朝です。

せき神様、大日如来を過ぎて用田バイパスに乗り、長後街道を横切り、高倉の諏訪神社、滝の上公園と行って、r467に一瞬乗ってから下和田の変形五叉路で再び境川右岸の低地に下りていきます。

坂上から下和田集落を望む

この先の上和田村の風土記の記述には、

"瀧山道、村の西堺に係る、また、古道と呼ぶあり、瀧山道の古道なり"

とありますから、こちらが滝山古道 = 境川右岸鎌倉道と思われます。

下和田の集落には、サバ神社、下和田左馬神社があります。

下和田左馬神社、祭神は源義朝

下和田の集落を抜け、上和田の集落に入ると、上和田信法寺別院薬王院があります。

上和田信法寺別院薬王院

この薬師さん、この地を地頭として治めていた和田義盛が目を患った際、薬師如来への祈願で全快したとの伝承があります。

やはり、和田の地名にはほぼ必ずと言ってよいほど、和田義盛の伝承がありますね。これも、鎌倉期の香りがする伝承です。この付近には、和田義盛の館跡とされる城山と呼ばれるエリアもあります。

先を行きます、上和田左馬神社です。固まってますね。

上和田左馬神社、村の鎮守とす、土人の説に左馬頭義朝の霊を祀るという

上和田の集落を跡にして、深見の集落へと入っていきます。

道すがらの大山の眺望

深見には、式内社、深見神社があります。

深見神社、今社殿は南を向いてますが、元はお稲荷さんがあった位置で、且つ東を向いていました。元々の祭神は闇淤加美、水神様ですから、境川が祭神ということでしょう。

延喜式に名を連ねる古社です。この道が鎌倉道であることを補佐しています。

先を行きます、境川が作った河岸段丘の縁を進み、東名を潜る前の坂は四万坂で、ここは、古戦場です。

四万坂古戦場、太田道灌率いる扇ヶ谷上杉勢とこの先の深見城の軍勢が戦ったと言われます。

この先、東名を潜ると一関という集落で、柳田国男が訪れています。水曜手帳という本に記していて、

"深見という村は、現在は相州高座郡大和村の一大字であるが、和名鈔にも見えている古い郷で、境川の岸に沿うて長さが一里近くもある。私は昔の郷の中心はどの辺かということと、以前の鎌倉道は川のどちら側を通っていたろうかということを知りたいために、今度は小田急線の鶴間の停留所から下りて、東端の一之関という部落に入ってみた。川のへりに四五町歩の稲田があって、小さな
支流が民家との境を流れ、その岸を南北に路が通じ、石橋が架かり、その角の屋敷の端に男女双体を刻した道祖神が二つ並んで立っている。一つは寛延二年のものでまん中に割れ目があり、今一つは最近昭和十五年三月のもので、男神の袴(はかま)を青に、女神の裳(もすそ)を黄色に塗っている。その後に古い五輪が四つ、これは古風だから立って熟視していると、そこへ五十ばかりの男が自転車で通りかかった。何をしているのかという顔をするから、私は鎌倉時代の道路が、川のどちら側を通っていたかを考えているのだと告白したところ、それはわかっている、この道がそうだといと無造作に教えてくれた。"

はい、ということで、まず、私と全く同じ目的で柳田国男もこの地を訪れていたというのには驚きました。また、古老曰く、やはりこの道は鎌倉道であったことも分かりましたね。

そして突き当たりにあるこの道祖神が、柳田国男が熟視した道祖神です。

道祖神

境川河岸段丘の坂を上がると、

境川河岸段丘へ上る坂、良い雰囲気です。

広い平地となっていて、鎌倉道の雰囲気。

広い平地と鎌倉道

そして、上写真の奥に見える林地は、深見城址となります。

風土記によれば、"山田伊賀守経光城跡、東北の隅にて境川に臨む、今陸田及び林となる。土居の跡、少しく残る。伊賀入道経光は藤原の枝流にて宝徳の頃の人なり。案ずるに、隣村鎌倉郡瀬谷村妙光寺鐘は、元武州都筑郡恩田村万年寺の鐘なりして、伊賀入道経光、彼寺より故あって預かり後、妙光寺に寄進す。今そのこと実銘文に存す。文中に、経光相州瀬谷郷に住せし事見ゆ、即ち、当所を指して言うに似たり"

山田伊賀守経光は、扇ヶ谷上杉家の家臣で、瀬谷の郷を領していました。風土記によれば、瀬谷の郷は、今の瀬谷と境川を渡った、深見城がある大和市の一部を含んでいたと思われます。

そして、冒頭紹介した、天竺坂です。

天竺坂、空堀の堀底道であることが分かります。

先を行きます。大山道鶴間宿を抜け、

滝山街道と大山道との丁字路

更に進んでいくと、上鶴間高の西南端、上鶴間笹山公園前に、相模原市設置の鎌倉道道標がありました。

鎌倉道

その先、鎌倉期創建と目されている長島神社、延文四年1359の開創の西光寺跡地に建てられた惣吉稲荷神社を過ぎて、中和田天神上公園にも鎌倉道道標があります。

中和田天神上公園の鎌倉道道標、こうした河岸段丘の縁を行く道です。

金山神社、茨山稲荷神社、青柳寺、日枝神社、大久保稲荷を過ぎ、古淵鵜野森公園は、鎌倉道下、という小名でした。

古淵鵜野森公園内園路の鎌倉道、ここにも相模原市設置の鎌倉道道標、ここは河岸段丘上です。境川が河岸段丘に迫っているのです。

横浜線を越えて、しも坂を下り、大日堂があります。

大日堂

古老曰く、井出の沢の合戦の戦死者を弔う為、開かれたと伝えられています。

そして、直ぐ隣には鹿島神社があります。

古淵鹿嶋神社

この神社を創建したのは、南北朝時代の武士、淵野辺義博の子、義喬であると伝えられています。

かわじま坂で台地に上がり、龍像寺の裏を通り、

龍像寺裏の鎌倉道

その先の相模原市設置鎌倉道道標

相模原市設置鎌倉道道標、これでコンプリート

八阪神社を過ぎて行くと、皇武神社があります。

皇武神社

日本武尊伝承がある古社です。淵野辺義博の崇敬篤い鎮守でした。

そしてこの直ぐ先に、淵野辺氏館がありました。

淵野辺氏館跡

鎌倉街道上道は、境川左岸を行く道です。今回exploreした右岸道も、いつ、どこで、境川を渡って上道に合流するのか、と、思いながら実走してきましたが、今分かりました。

境川は渡らないのです。上道と合流しないのです。つまり、境川右岸鎌倉道は、淵野辺一族の鎌倉道だったのではないでしょうか。

淵野辺義博は、足利直義の命令で、護良親王を処刑したことで有名です。

しかし、命令とは言え、天皇家を殺害したとなれば天下の大悪人、非難の声が出てきます。

だからか、地元では、淵野辺義博の大蛇退治伝承や、実は首を落としたと見せかけて、奥州に逃がしたという、善人化の伝承が生まれています。

縁切り榎とわかれ橋、淵野辺義博は、護良親王を鎌倉から逃がし、龍像寺で一時匿った後、この橋で境川を渡って共に奥州石巻に向かいました。ここで一族郎党と縁を切り、別れたのです。。。この話、地元で創作され語られているだけではないのです。水戸光圀公編纂の大日本史にもそう書かれています。
暦応年間1338 - 42, 淵野辺義博が、苦しむ民の為、境川の大蛇を退治したという伝承がありますが、淵野辺義博が大蛇と戦う前にこの神社で祈願したというのです。

さて、淵野辺義博は、横山党矢部氏の流れと言われています。

境川右岸の、川辺りの低地の集落と、河岸段丘上とを、境川と河岸段丘との接近具合を見ながら、迅速測図、今昔マップで鎌倉道を推定しながら、淵野辺氏館も過ぎて進むと、上矢部に矢部氏館跡がありました。

矢部氏館跡、土塁のみ残ります。

小野孝泰―横山義孝―資孝―経兼―孝兼と続き、八王子市横山町を根拠地とした横山党ですが、横山孝兼の長男で嫡男時重が、七国峠で武相国境を越え、相模国相原に進出し、粟飯原(相原、藍原)を名乗りました。本家が移転したのです。以降、相模国相原が、横山党の根拠地となりました。

その弟の次男孝遠も同じく相原に進出、藍原孝遠と名乗りましたが、その子が矢部氏となります。

矢部氏館鬼門除け御嶽神社

境川右岸鎌倉道を更に進むと、宮下本町には天縛皇神社があり、この辺りは、粟飯原時重の弟、四男小山経孝の嫡男、小山有高が館を構えていたと言われています。

天縛皇神社
天縛皇神社別当蓮乗院

更に進むと、橋本には清水寺があり、藍原孝遠はこの辺りに館を構えました。

清水寺、現場に行くとよく分かりますが、谷戸のどん詰まりに館を置き、谷戸上に詰めの城を置くといった中世の城にピッタリの地形でした。



如何でしたでしょうか。

境川左岸に本道鎌倉街道上道があるにも関わらず、何故右岸にも?!, と思っていましたが、境川右岸鎌倉道は、淵野辺氏、矢部氏、小山氏、藍原氏といった横山党が、鎌倉へ出向く、横山党の鎌倉道だったのです。

建暦三年1213, 和田合戦で滅んだ横山党ですが、淵野辺氏は残ったのですね。

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