相模国風土記を訪ねる、寒川神社
高座郡寒川町相模国一宮寒川神社の、"摂社並境外末社関係書類(明治6年12月)" によると、茅ヶ崎市芹沢の腰掛神社と、藤沢市宮原の寒川社は、寒川神社の境外摂社で、その祭神は、本社と同じ、寒川比古命と寒川比女命です。
"相模の古社" では、これを根拠の一つとして、以下のような伝承があるとしています。
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寒川の大神は、いずれの地方からか相模国へ来て、この芹沢の地に暫く逗留され、それから間も無く、北西3キロほどの宮原という地に移った。寒川大神はやがて宮原の地も去って、最後に現在寒川神社のあるところに移って来て、長く居住した。
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陰影起伏図を見て下さい。

寒川神社の右の高座丘陵、ここが、往古の海岸線でしょうか。だとすると、寒川大神が最初に上陸する好適地ですね。
鶴峰八幡宮の浜降り祭の説明にも、
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浜降祭という神事の名前は、茅ヶ崎市の鶴嶺八幡宮と寒川町の寒川神社とが合同で神事を行うようになってから、言われるようになった名前です。海岸で御神霊がお乗りになった神輿を氏子中が担いで浜に行き、禊をはじめたのは鶴嶺八幡宮が最初です。その頃は国道1号線に面した赤い大鳥居の近くに海があったからという事なので、かなり昔のことと思います。
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とありますし。
ズームアップします。

寒川大神は、小出川を遡って、腰掛神社がある芹沢に行き、その後、寒川社がある宮原へ行った後、目久尻川を下って寒川神社に落ち着いたというのが地形からも分かります。逆に、この地形からこの伝承が生まれたのかもしれません。
ということで今回は、寒川大神の痕跡をexploreします。
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湘南台駅まで輪行、西へ行き引地川に出たら、引地川沿いを下ります。程無く大庭神社があります。

風土記によれば、
"天神社、村の鎮守、社頭古松多し、神名帳六座の一なりと言う。然らば大庭神社なるべし。祭神詳らかならず、今菅神の木像を神体とす。側に筥あり小石七顆を収む。例祭九月二十九日。"
と、風土記が書かれた時代は天神社と呼ばれ、菅原道真の御神体もあったということですが、元々は式内の古社で、しかし、祭神は不明ということです。

天神橋で引地川を渡り、大庭城の北側に熊野神社があります。

風土記によれば、
"成就院持、下同じ。里人この神社をも大庭神社の旧跡なりと伝うれど上世のことにて信じがたし。"
と、先程の大庭神社の旧跡ということです。今は住宅地の中にポツンとありますが。少し寂しいですかね、式内の扱いとしては。
ということで、大庭神社を訪問しましたが、後で触れます。
西へ。k47の尾根道を少し行って、駒寄川の谷に下ります。この通りは大岡越前通り。妙伝寺からは旧道に入り、県道に復帰してまた直ぐ旧道に入った、茅ヶ崎市博物館の辺りに、浄見寺があります。

風土記によれば、
"窓月山と号す、浄土宗、鎌倉郡岩瀬村大長寺末。慶長十六年地頭大岡忠右衛門忠世(忠右衛門忠正の三男なり、寛永十七年十二月二十八日死す)、父兄追福の為に起立し、芹沢村来迎寺五世深誉を招いて開山とす、寺山号は祖父忠右衛門忠勝の法名の文字なり。今大岡氏総ての菩提所なり。本尊阿弥陀を安す。"
ということで、大岡越前守こと大岡忠相を生み、ここ堤村の地頭だった大岡家代々の菩提寺です。だから、大岡越前通りなのです。

初代大岡忠勝は、徳川家康の祖父松平清康、同父広忠の父子2代に亘って松平氏に仕え、後、家康にも仕えた三河以来の重臣です。
先を行きます、旧道を選んで進み、相模線を越えたら相模線に沿って直ぐに南下、再び相模線を越えて戻るように東へ進むとそこに玄珊寺があります。

風土記によれば、
"香川山と号す、曹洞宗、大庭村宗賢院末。地頭本間氏某、先祖平兵衛季忠菩提の為に建立す。系図或は季勝に作る、法号金剛院樹心玄珊、天正十二年四月二十七日卒。"
とあって、ここ香川村の地頭、本間氏累代の菩提寺でした。
本間氏も大岡氏同様、季忠の父政季の代から徳川家康に属し、寛永二年1625, 徳川秀忠からこの地を与えられています。
再び戻るようにして今度は西へ行き再び相模線を越えて田村通り大山道に乗り、田村方面に向かうとそこは旧大曲村で、上下に分かれていましたが、上は大岡氏、下は本間氏の知行地でした。

小出川を寺尾橋で渡って再び大岡越前通りに戻りますがここに西方貝塚があります。やはり、海でした。

さて今度は旧下寺尾村に向かいます。旧下寺尾村には白峰寺があります。

風土記によれば、
"景徳山と号す、曹洞宗、足柄下郡早川村海蔵寺末。本尊阿弥陀、開山我国、開基古地頭松平隼人正重継なり。家譜によるに重継は忠正の孫なり、慶長十二年当村に生まれる。初め、七十郎と称す。また、孫太郎に改める。慶安元年大阪町奉行となり隼人正に改める。寛文十一年六月三日卒年六十四。境内に葬り。月照院白峰皓と号す。"
で、松平家は三河以来の徳川家家臣で、風土記に載る松平忠正は、この地を、天正十八年1590, 家康関東移封の際に与えられ、以降、松平家が知行していました。大岡家、本間家、松平家と、高座丘陵駒寄川流域は、三河以来の徳川家臣団に与えられた土地なのですね。
先を行きます、大岡越前通りの一つ北の尾根道を行きます。小出小の二股を北へ、里山公園方面に向かいます。この辺りは旧芹沢村で、里山公園北端付近に、冒頭ご紹介した腰掛神社があります。

風土記によれば、
"村の鎮守なり、大庭の神、腰を掛けし旧跡と言い伝う。思うに旅所の跡なとにや。小石一顆を置き神体とす。本地大日寛永十二年八月十九日勧請。闢来この日を以て例祭を執行う。別当宝澤寺、当山修験吉岡村瀧岡寺触下。"
となっていて、祭神について、冒頭の寒川神社資料では、"寒川の神" でしたが、風土記では、上記の通り、"大庭の神" となっています。
"大庭の神" とは即ち、実走で最初に訪れた大庭神社ということですが、"詳らかならず" でしたね。
もっと言えば、腰掛神社の神奈川県神社庁による説明では、
"景行天皇の朝皇子・日本武尊御東征の際、此の地を過ぎ給ふ時、石に腰を掛け暫時此處に御休息せられ、西の方大山を望み指示して大いに喜び給ふ。後、村民永く其の霊跡を存せんとして社を建て尊を祀りしと言伝ふ。"
とあって、祭神も日本武尊となっています。
ということで、三つの可能性があると、いうことになります。
先を行きます、北上し、旧打戻村に入ります。


この打戻村ですが、風土記によれば、
"今地頭杉浦房次郎、中根右衛門、土屋勘助利懐、寛永三年先祖薩摩守利意賜る、この村古高木筑後守正次知行す。寛永譜に正次元和元年相州高座郡打戻郷において千石の抱えを賜うとあり。"
ということで、高木正次が知行していました。この高木家、三河以来の徳川家臣団の一人です。菩提寺、墓こそ無いものの、やはりここも堤村、香川村、大曲村、下寺尾村同様、三河以来の徳川家臣団に与えられた土地だったのです。本領は大阪ですが、家康関東移封に伴い、相模、武蔵、上総でも五千石の加増を受けています。打戻村はその一つ、ということになります。
しかしここも、大庭神社に続き式内ですね。古くから開かれた土地ということです。

更に北上、旧葛原村の乗福寺を訪れます。

風土記によれば、
"萬年山昌寿院と号す、曹洞宗。開基は垂木御所の造立と言う。垂木御所、その姓名詳らかならず、境内に墓あり、長元二年六月朔日逝くと鬼簿に見ゆ、開山僧の名を伝えず。本尊釈迦又正観音を安す。立像長さ一尺定朝作。開山の守護仏と言う。慶安二年八月二十四日、釈迦堂領八石の御朱印を賜う。"
そしてここには長田喜六郎忠勝夫婦墓もあります。

長田忠勝は、風土記によれば、
"忠勝は古地頭なり、法名革翁春桃、寛永三年三月十五日卒、室貞誉春香、元和三年三月十二日卒。家譜によるに、先代世々三州大濱に居す、永井右近太夫直勝の一族なり、忠勝、東照宮、台徳院殿に仕え奉り御鷹を預かる。"
と、やはり、三河以来の徳川家臣団でした。
今度は南下します。中原街道を行って旧宮原村に入るとここに、冒頭ご紹介した、寒川社があります。

こちらは腰掛神社とは異なり、寒川神社の資料通り、風土記でも祭神は寒川神社と同じでした。
寒川社から西へ行き目久尻川を渡ると旧倉見村で、ここも、打戻村と同じく、高木家の知行でした。


さぁいよいよ寒川神社です。

言わずと知れた相模国一宮です。
寒川神社の神様は既述の通り寒川大神こと、寒川比古命と寒川比女命の夫婦神です。
この、記紀に記載の無い寒川大神とは、どのような神様なのか。
嘗ての寒川神社の別当寺に行ってみたいと思います。

山号にある、"大塚" は寺の裏にあります。

ということで、寒川大神の塚となっていますが、この地の伝承として、この塚は、初代相武国造の茅武彦命のものとされていますから、
寒川大神 = 初代相武国造茅武彦命
が、成り立ちます。
と、なると、冒頭の伝承は、茅武彦が、海を渡って高座丘陵に流れ着き、小出川を遡上し、最初、芹沢に住み、その後、宮原に移り、最後に寒川神社に落ち着いた、と、読み替えることが出来ます。この過程で、茅武彦は、相武を開発していったのだと。大庭の神、も、茅武彦なのだとしたら納得感があります。
目久尻川を遡ると、

如何でしたでしょうか。
実は相模国風土記を訪ねるシリーズ、未訪問でポッカリと穴が空いていたのがここ高座丘陵でした。
改めて事前机上exploreしてみると、式内が三社もあって、古くから開かれた土地であることが分かりました。exploreして良かったです。
やはり、海に面した土地は外に向いて開いていますね。相模国六社の内、三宮を除き全て海に面しています。
また、三河以来の徳川家臣団に与えられた土地でもありました。曽我丘陵もそうでした。あそこは武田家臣団に集中的に与えた土地でした。
