相模国風土記を訪ねる、三崎と浦賀を結ぶ道の、より海岸近くの荷車道
前回、
で、相模国風土記三浦郡図説にある、
半島東を南北に走り浦賀に至る浦賀道東ルート
半島西を南北に走り三崎に至る三崎道、又は鎌倉道
起点は2の三崎道と同じで、半島を北西から南東に斜めに走る浦賀道西ルート、又はこちらも鎌倉道
三崎と浦賀を結ぶ道
の中の2と、4については道興シリーズで実走済だったこともあり、より海に近い村道クラスの道をexploreしました。
海があって、海から直ぐに丘陵で、その丘陵の見晴らしが良く、非常に気持ちの良い道でした。
が、2の三崎道は、芦名辺りから内陸に入り込み、4については既述のように、より、海に近い村道を行ったのですが、リアス式海岸のようになっていて、村と村を結ぶ村道クラスの道は入り江を避け、尾根を行っていて、意外に海は遠かったのです。
そこで今回は、更に海に近い、迅速測図で一本実線 = 荷車道をexploreしたいと思います。
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京急久里浜駅まで輪行、久里浜は江戸期に内川新田が開発され、河口付近が大規模に埋め立てられました。それを指揮したのが砂村新左衛門で、その砂村新左衛門によって、故郷摂津国西成郡上福島の天満宮を勧請したのがこの久里浜天神社です。


さて、海に近い道、ということで、久里浜から金田湾に出るには、山越えしかありません。山が海までせり出しているからです。当時は勿論無かった千駄隧道を潜って金田湾に出ますが、上り口に庚申塔が集められていました。

そして金田湾です。

もうこれで三度目の、金田湾沿いの、r134の一本奥の旧道を行きます。これまでは逆向きで軽い上りだったので立ち止まるタイミングを逸していた長岡の地蔵尊に今回は寄れました。

先を行きます。津久井浜駅を過ぎた辺りに、法蔵院があります。

房州の里見氏が繰り返しここ三浦を攻め、本寺の仏像などを奪っていきましたが、海が荒れ、仏像を海中に捨てたが、その仏像がこの先の菊名に上がったという伝承があります。前回も思いましたが、実際に来てみると、房総半島が本当に近いです。海を隔てているとはいえ、勢力拡大の対象だったのです。
引き続き旧道を進み、十劫寺の少し先で、三崎と浦賀を結ぶ道から別れ、海沿いの道へと入ります。
先程の久里浜同様、山がギリギリまで海にせり出していますから、海岸沿いに道はありません。山越えです。南下浦小学校前の信号の先の二岐を右に。容赦無い上りです。尚、左のk215は江戸期道はありませんでした。
上り始め、草に埋もれた庚申塔ともう一つは字が読めません。古道の証拠です。

坂を上り切り振り返るとこの風景。

暫く進み円福寺を過ぎると走湯神社がありました。

寛治元年(1087), 伊豆より移住してきた人々が故郷の走湯神社を勧請したとの伝承です。
前回も触れましたが、さすがは半島、海を渡って来た人が多いです。
金田漁港に下ると、三浦平六義村開基の福寿寺あります。

再び丘陵に上りこの風景。

この道は良かったです。



一旦間口港に下りて、

再び丘陵に上り、前回行き忘れた松輪の神明社です。

前回も触れましたが、先程の走湯神社は伊豆国でしたが、神明社ですから、こちらは伊勢国です。
下って、

再び丘陵に上り、前回訪ねた毘沙門天、慈雲寺を過ぎ、やはり前回訪ねた毘沙門の神明社から古道を南下し、毘沙門湾に出まして、

再び丘陵に上り切ると、岩堂山が見えました。

その後、八景原などを過ぎ、三崎に到着しましたら、今日は海南神社の例大祭でした。

如何でしたでしょうか。
今回も楽しいサイクリングでした。
次回は同様に、2の、半島西を南北に走り三崎に至る三崎道、又は鎌倉道、の、より、海岸に近い荷車道をexploreしたいと思います。
