道興が歩いた道、廻国雑記を辿る、三崎、浦川(浦賀), 鎌倉
廻国雑記によれば、道興は、
近江、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、上野、武蔵一回目、下総、上総、安房、相模、下野、常陸、下総、武蔵二回目、相模、伊豆、相模、武蔵三回目、甲斐、上野、下野、陸奥
と、東国を巡礼しました。
このシリーズでは武蔵国と相模国をスコープとしていますが、二回目の武蔵国とその後の相模国、三回目の武蔵国とその前の相模国は、既に、exploreが完了しています。
今回は、一回目の武蔵国の後、下総、上総、安房と行った後の相模国をexploreしたいと思います。
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既述のように、道興は、相模国に入る前、安房国にいました。
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此所より右の方に、鋸山といへる山あり。峰の嵐に雲晴れて、あからさまに其の嶺みゆ。段々ありて、誠に鋸の様になむ侍れば、俳諧、
宮木ひく、峯の嵐に、雲はれて、のこぎり山は、かがりとぞ見ゆ
是より舟にのりて、三崎といへる所にあがりて、
あはれとも、誰かみさきの、浦づたひ、しほなれ衣、旅にやつれて
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道興は、鋸山付近から、海路、三崎に辿り着いたのです。
"あわれとも", "やつれて" と表現してますから、簡単な旅路ではなかったのでしょう、頼朝も日蓮も遭難しかけましたし。
日本武尊が東征に利用したのもこの海路を使っていて、武蔵国が東山道に属していた古代東海道の初期ルートでもこの海路が設定されています。
つまり、房総から三浦へ行くには、海路を使うのは特別なことではなく、道興の頃(1486)もそうだったということが分かります。
道興の時代、中世に、文献に載る主な湊は、森戸、油壺、三崎、久里浜、浦賀、走水、榎戸(追浜), 金沢です。
鋸山付近から、三崎を目指したというよりも、当時は、潮や風の具合で、この内のどこかに着けば良い、ということだったのではないでしょうか。今回も、目的地は鎌倉と見られますので(後述)。

予期せず三崎に到着した道興、初めて訪れた三崎です。次の目的地に向かう道すがら、こちらにも寄ったのではないでしょうか。


風土記によれば、"本郡の惣社なり" ですから、三浦郡の総社ということになります。三崎は三浦の中心なのですね。
また、"藤原朝臣資盈の霊を祀ると云ふ、神体は束帯の座像長さ一尺五寸" とあります。この藤原資盈ですが、社伝によれば、太宰大弐廣嗣四代の孫で、貞観六年(864), 伴大納言善男が、左大臣源信を滅ぼそうと資盈を誘ったが、資盈それを断り、伴大納言善男が激怒して、資盈謀反の聞えありと嘘を流布した結果、資盈追討の勅が出てしまい、父子三人郎等五十三人で、船で以て大宰府を脱出し、十一月一日、此地に漂着したと。次第に三崎に馴染んでいったが、この時、房総の海賊が三崎の民を苦しませていて、資盈、是を討て、以降、民の尊敬を得ることとなった、そういった人物です。しかし、貞観八年(866), 十一月一日、夫婦郎等四人相共に没し、民、その骸を海に沈め、祠を建て神として祀り、それが本宮神社で、天元五年(982)には、現在地に社殿建立の上遷座し、海南神社が成立しました。
先を行きます。この道は浦賀道東ルート、あるいは三浦往還と呼ばれる道です。k26横須賀三崎線、r134とほぼ重なっています。三崎港から意外に上り、引橋の二岐を右に取ってからは長い下り。

そして、岩井口で三浦海岸に出ます。ここからは、r134の一本奥の旧道を行きます。

野比からは海岸線を離れ再び丘陵を行き、久里浜です。
風土記によれば、
久里濱村、海
東に在り、南千駄ヶ崎野比の属、北方平根山の西浦賀分郷の属、出崎有りて其の間湾曲をなし、當村の地に孫る処入り海となれり。地形を按ずるに、古昔浦河の湊と云るは此地なるべし、後世海岸の地、変遷ありて内川新田開墾せしより、今の浦賀の地、湊となりしならん、現に入海の内當村の對岸に元浦賀の小名あり、是証とすべし、海濱を眞浦と云ふ
ということです。
一方廻国雑記では、
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浦川の湊といへる所に到る。ここは昔頼朝卿の鎌倉にすませ給ふ時、金沢、榎戸、浦河とて、三つの湊なりけるとかや。
えの木戸は、さしはりてみず、浦川に、門をならべて、見ゆる家々
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ですから、道興が歩いた頃の浦河は久里浜のことを指していたことが分かります。
尚、今の浦賀は万治年間(1658 - 1661)に内川新田が開発され、入江が埋め立てられて以降に湊となった、ということのようです。

道興は廻国雑記で頼朝に触れていますが、久里浜で頼朝縁と言えば栗浜大明神こと久里浜住吉神社です。

風土記によれば、
村の鎮守なり、神体立像なり、牛頭天王を合祀す、古は栗浜明神と称せり、寿永元年八月頼家誕生の時神馬を奉納せらる、文治元年正月頼朝参詣し、建久六年十月頼家参詣あり、内に棟札二枚あり、一は正保二年の再建、一は明暦二年再建の棟札なり、例祭六月に十八日又同月二日には天王の神事あり、境内に古松あり、三浦大助旗掛松と唱ふ (近き頃迄、大介旗立桜と唱し、老桜もありしが、今枯たりと云ふ)、社後に弘法大師爪切地蔵と唱へ岩の面に画したる像あり、今欠損して全躰見えず、当社は村持にて当山派修験(東浦賀永神寺配下)正宝院社守を勤む、末社 稲荷 二 疱瘡神
と、頼朝が頼家誕生の際、人馬を奉納しています。


さて、この後の廻国雑記ですが、
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鎌倉にて第三まで独吟、
霧ふかしかまくら山のほし月夜
あさなく鶴か岡のまつかぜ
葛の葉の色づく野沢水かれて
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と、鎌倉に向かったようです。
道筋は、この鎌倉道を行ったものと思われます。

この道は、平作川の右岸を、川沿いではなく山裾を縫って遡っていく道で、久里浜村、久村、佐原村、森崎村、公郷村、小矢部村、金谷村、木古庭村、上山口村、一色村、堀内村と行って、小坪坂、あるいは名越の切通しを越えて、鎌倉へと入っていきます。ヤマトタケル伝承が残る古代東海道としても知られた道です。





折角上ったのに下ってk27を越える為、再び上って山間の古道の雰囲気の道を行きます。










如何でしたでしょうか。
それにしても何故道興は、三崎の後、浦河(久里浜)に寄ったのでしょうか。
本山修験寺院や熊野神社があるわけでもなく、むしろ当山修験の大寺院がありました。
三崎や浦河は、歌枕三浦崎として、万葉集に載った歌がありましたが、道興の歌を見ると、関連は無さそうです。
芝付きの、三浦崎なる、ねっこ草、相見ずあらば、吾恋ひめやも
(万葉集巻十四 3508 よみびとしらず)

鎌倉に行くなら三崎から三浦往還を行けば良いものを、何故わざわざ浦河に寄ったのか。謎です。
