相模国風土記を訪ねる、奥山家道
※冒頭写真は湯触集落から見た谷ヶ集落
このシリーズの前回は、"東" 山家をexploreしました。
そこでも説明しましたが、檜岳、秦野峠、高松山、この三山を結ぶ線より東が東山家、西が西山家で、
皆瀬川、都夫良野、湯触、川西、山市場、神縄、玄倉、世附、中川
の九村が該当します。内、
玄倉、世附、中川
は、奥にあるので、奥山家とも呼ばれていました。
山の民です。
今回は、東山家に続き、西山家をexploreします。
◇■□◆
新松田駅まで輪行、甲州古道を行き、十文字橋で酒匂川を渡り、

吉田島に入ったら、甲州古道と分かれ、矢倉沢往還に入って、

和田河原まで。ここには弘西寺村の枝郷があります。ここから、川村関所道を行きます。
"弘西寺村、甲州道係れり幅二間。本村の南堺、及び枝郷の南方を貫けり。又谷ヶ村川村両関所道通ず、幅同上、枝郷の東、和田河原村の堺にて甲州道より分かる。"
西山家道は、川村の関所までは川村関所道とルートが重なり、川村関所道とも呼ばれます。また、怒田村までは谷ヶ村関所道とも重なっています。

北西へ。k74小田原山北線合流部に、範茂史跡公園があり、ここに、風土記にも載る、藤原範茂の墓があります。

"古墳二、字上ノ原にあり。一は石塔を建て〇りに松を栽。何人の墳墓たるや一定せず。或いは甲州浪人と伝え、あるいは大道寺田畑助が墓とも言う。また一説に甲斐宰相中将範茂の墓なりとも言う。按ずるに、承久記に承久三年1221七月、中将範茂、式部丞朝時に俱して関東に赴く路次、関本宿に至りし時、その宿の背に当たりて、細谷川あり、即ち清川と唱える。範茂迄て遂にこの川に身を沈めしと載せたるに、今土人この墓の東南を流れる洞川に古く清川の唱えありしというを合考すれば、当時範茂が入水の事跡、全く当村のことにして、直ちにその遺体をこの所に埋めせしなるべし。さては範茂が墳墓とするもの即ちこれというべし。"
藤原範茂は、鎌倉前期の公卿で、承久の乱に深く関わって、公卿でありながら宇治川の戦いにも参陣する程でした。敗れた後は斬首が決まり、北条義時の次男朝時によって鎌倉に護送中、ここで入水自殺を図ったのです。
ここは足柄の関を越えた、関の東 = 関東に入ってから最初の宿場、関本宿です。京の人間である藤原範茂からしてみれば、とうとう関東 = 鎌倉に入ってしまったか、と、思ったのでしょう。
先を行きます。下怒田、上怒田と北上し、
"怒田村、東北の方、谷ヶ村川村両御関所道係れり、村北にて二條となり、一は西行し是谷ヶ村御関所道なり、一は北行す是川村御関所道なり、幅各二間"
に従い、南足柄市運動公園のゲートボール場を過ぎた所の追分は右(北)をとり、

小市村を通り過ぎ、班目村に入ります。
"南境より西北の方、文明堤を歷て(経て), 川村御関所道係れり"
"酒匂川、西北村境を流る、幅二百廿間許、川村御関所道の係る所、土橋長三十間、を架せり"
と、風土記にある通り、まずは文明堤を訪ねます。

"酒匂川の水溢に備う。古くは大口の堤とて〇常の堤なりしか、洪水の為に〇崩壊して里民の憂い多かりしければ、元禄中、井沢彌惣兵衛正房、水利のこと鍛錬なりしかは永くこの水災を防御せしことを思慮せしかとも、遂に果たせず、宝永五年1708の洪水にまた崩壊して民屋流失に及び、村民等〇愁訴すること年あり。享保中に至り大岡越前守忠相、更に公命を奉し、心を労せしかと猶予ならず、然るに、武州の川崎宿に田中丘隅という者あり、〇物茂卿に就いて学び、頗る古史に渉り、才力世に超たりと聞く。忠相議して堤防経営のことを委す。"
宝永五年1708と言えば富士山の宝永の大噴火です。火山灰で酒匂川の川床が上がり、洪水が頻発しました。
田中丘隅は、小杉の瀬替工事など、多摩川の治水事業や、小泉次大夫が開削してから100年余りを経て、老朽化していた二ヶ領用水の改修も手がけた、治水のプロでした。大岡越前守の白羽の矢が当たって、ここ酒匂川も担当したのです。

(神)禹は、BC2000年頃の中国の伝説的英雄で、夏王朝の創始者であり、治水の神です。日本でも水害に対する神様として信仰の対象となっていました。田中丘隅はそれを祀ったのです。

さて、土橋ではなく新大口橋で酒匂川を渡り、川村岸に入ります。川村岸にも文明宮があります。

さて、ここ川村岸と川村山北には、地図を見れば一目瞭然、城がありました。


川村岸にある般若院は、開基が河村山城守秀高で、西山家に川村向原、川村岸、川村山北を加えた川村郷の領主で、河村城の城主でした。



川村山北に入ります。


"室生明神社、鎮守とす。神體三座を置く。始中川村に在しを(其舊地今猶存せり)天正八年1580川村岸般若院の後、丸山に移し、其後當所天神の社地に移せしと云。例祭九月廿九日(流鏑馬あり、中川・神縄二村より隔年二的板の料を納むるを例とす、又相撲を興行す)。拝殿、幣殿あり、村持。"
ということで、奥山家の一、中川村にありました。
さて川村山北の奥山家道の記述は、
"東南より西に亘りて、川村御関所道或は奥山家道とも云ふ、係れり"
ということで、もうここ川村山北には、川村関所道の目的地である川村関所があるので、奥山家道と呼び始めました。
川村関所に向け、k76山北藤野線は皆瀬川を渡りますが、宝永六年1709に開削したのです。従来は、川村山北の真ん中を流れていました。

"川村山北、皆瀬川、古くは村の中央を流れしに宝永六年1709官命を下され掘り改められる"
はい、先程の酒匂川、文明堤同様、富士山宝永の大噴火の影響で、皆瀬川に積もった火山灰が、皆瀬川の水と共に一気に流れ落ち、川村山北を湖にしてしまったのです。
こうして時空を超えたexploreしていると、富士山噴火の影響は甚大であることが分かります。
そして、川村関所です。

トンネルを潜ると、

さていよいよヒルクライムです。まずは皆瀬川村の鍛冶屋敷の集落まで上ります。風土記の記述は、"村南に川村御關所道係れり、幅六尺" 川村関所を抜けたら、道幅が一気に狭くなりましたね。二間(3.6m)から六尺(1.8m)です。
都夫良野に曲がる所は東名の影響でしょうか、消失していますが、ここから西進し、都夫良野村に入っていきます。
"村南に奥山家道、當村にては小田原道と云、係れり、幅四尺"
逆向きの目的地、小田原道とも言われ始めました。それもそのはず、奥山家、西山家は小田原への木材供給地でした。河内川、酒匂川と筏を組んで水運し、筏師は、この道を帰ったと思われます。
しかしここからがキツかった。グーグルマップによれば2.2kmで210m上がります。9.5%ですね。都夫良野集会所を過ぎてからは比較的勾配が緩んだので、そこまでは10%超えでしょう。



ここを抜けたら、

ここ都夫良野には、神奈川県立山北つぶらの公園があります。ここに、地蔵堂があります。

風土記にも記載されていて、
"この堂前より四望すれば、西に富嶽鋸山、南に箱根猪ノ鼻岳、足柄峠などの山岳遥かに聳え、近くは谷ヶ、平山、内山などの山々を眼下に望む。東方には房州の浦々、及び本州三浦、三崎、江ノ島の地、◯に見え、近くは酒匂川の田間に曲流するを望めり。"

とあって、大変景色が良かったようですが、今は藪で見えません。

ということで、公園内の最高地点に行きます。


実はここつつじ山も、風土記記載です。
"古塚、村の中央にあり、高さ六十間許り、土俗伝えて鐘ヶ塚と唱え、戦国の間、相国の鐘を掛けし所という。"
つつじ山がこの鐘ヶ塚と言われています。
先を行きます、これも風土記に記載がある、頼朝桜です。


"奥山家道の北方" とあるように、奥山家道は、頼朝桜に向かい右に直角にカーブせず、そのまま真っ直ぐに行くのが旧道となります。

この先、湯触村の集落を過ぎ、

旧道は山の中、パナモリなので回避し、"犬牙" ですから、その先は川西村の大蔵野集落です。

更にその先は湯触村宮原、

更にその先は湯触村用沢

そして用沢の少し先は山市場村です。

神奈川県神社庁によると、祭神は、大己貴、大山祇、大日霊貴、素戔嗚です。大己貴はこの子之神社、大山祇、大日霊貴は風土記に載る山の神、神明社でしょう。素戔嗚はやはり風土記に載る第六天で、先程のように、明治の廃仏毀釈で素戔嗚に入れ替えられたのだと思われます。
しかし山市場村のメインから外れた所に、第六天が残っています。

子之神社に、明治の一村一社で合祀されたものの、少し遠いので、復帰したものと思われます。
犬牙の川西村平山集落を左に見ながら進み、神縄村に入ります。

頼政とは源頼政のことで、以仁王の挙兵の首謀者の一人です。橘合戦で自害しました。その頼政を祀る神社が関東のそれも何故こんな山奥に、と、思って少し調べたら、結構あるんですね。近所だと川崎にもありました。
先を行きます。ここからは、奥山家となります。だからでしょうか。都夫良野の激坂をこなしてきた脚には非常にキツイ、登坂車線が設けられている坂が待ってました。なんとかこなし、世附村は丹沢湖の底ですから、中川村と玄倉村に行きます。まずは中川村。
k76山北藤野線を行き、永歳橋を渡って中川村小名大仏に入りますが、ここはダムの底です。

ここに城がありました。
"古城跡、東南の方、中川の東岸にあり、城山と唱える。西方に石垣、南方に堀形残れり。土人伝えて往古河村氏の持城と云う。"
そしてこの城山に、
"室生明神社跡、小名大仏下、神縄村山堺、城山にあり。昔、明神鎮座の地なりしが後川村岸に移しその後、川村山北に還ると言う。今もその因にて室生社祭体流鏑馬には当村と神縄村と隔年に的板の料を収める。"
と、先程訪問した室生神社が嘗て鎮座していました。風土記編纂の1841年時点で既に、"跡" です。川村山北の室生神社の記載にあったように、天正八年1580に、ここ城山から遷座されました。
小名上の原に大室生神社がありますが、

こちらは、
"大室社、一は村の鎮守、例祭九月二十日、相殿に八幡神を置く。"
の方と思われます。
戻って今度は玄倉村に向かいます。

これで西山家コンプリート、我ながらお疲れ様でした。良い疲労感と達成感で幸福です。
いやぁ、如何でしたでしょうか。
それにしてもキツかったです。が、その分、前日の風雨のおかげもあって、絶景に次ぐ絶景で大変満足しました。
