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相模国風土記を訪ねる、信玄道

相模国愛甲郡の街道の記述に、信玄道に関して、以下の記述があります。

"一は津久井道なり、八王子道の内中依智村にて岐路となり、三増峠を過て県内長竹村に達す、道程三里許道幅九尺より二間半に至る、俗に信玄道と呼り、永禄十二年武田信玄小田原より帰陣の時此道に係れり【小田原記】【甲陽軍鑑】等に所見あり、事は厚木村に詳なり、故に此称呼あり"

同様に津久井県では、

"津久井道、或は信玄道と呼ベる古道あり道幅廣狭ありて、二三尺より八九尺に及べり、東方愛甲郡三増村より来たり、三峠を例え、県内長竹村に至り、夫より青山村・三ケ木村・寸澤嵐村・若柳村・日連村・名倉村にかゝり、相模川を渡り、甲州都留郡上野原に達す、【甲陽軍鑑】に載す、(中略)道筋をさして、今猶信玄道と呼べり"

ということで愛甲郡の記述にあるように、信玄道は津久井道の別称で、津久井道は大山道でもあってもう何度も走っているのですが、愛甲郡の記述にある、三増合戦をテーマとしてのexploreはありませんでしたから、今回は、信玄道の、三増合戦の痕跡を辿るexploreとしたいと思います。

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本厚木駅まで輪行、小田急線路沿いに東進し、k401, 嘗ての八王子道を北進します。

信玄は、鶴岡八幡宮に参拝すると流布し、小田原から平塚まで向かいますが一転、相模川は渡河せず八王子道を北進、三増峠に向かいます。相模川は渡河しませんでしたが、小鮎川、中津川は渡っています。

歴史的農業環境閲覧システムより、十字マークを八王子道中津川渡河地点に配置、その下(南), 小鮎川も渡河しているのが分かります。その直ぐ右下、大山道の相模川厚木の渡しも見えますね。ここは大山道と八王子道の合流地点でもあったのです。

信玄軍跡備が小田原攻めに向かう際、相模川を新田宿で渡河し、下依知、金田と来て、金田神社、建徳寺を焼き払い、中津川を渡河して妻田薬師へと向かい、妻田薬師も焼き払っています。

金田神社、2024/3撮影
建徳寺、2024/3撮影

この道は星谷観音と妻田薬師を結ぶ坂東三十三観音巡礼道でもあるのですが、現代で言えば、r246とr129の交差点となります。ここは、信玄軍の、小田原攻めの行きと帰り、両方で使われた地点なのです。

r129を北上し、稲荷上丁字路から旧道が復活します。左に曲がり旧道に入って、旧道が再びr129になってしまう直前、八王子道から信玄道が分かれます。

中依知村の街道の記述、

"往還南北に貫き幅二間、村の中程にて岐路となり、一は武州八王子、一は甲州に達す、是を信玄道と呼"

は、ここのことですね。

八王子道と信玄道の追分、碑もあります。2024/3撮影

下川入に入って八王子通り大山道当麻ルートとの丁字路に下川入諏訪神社がありますが、この辺りは甲陽軍鑑にある諏訪の森です。

諏訪社、村の鎮守なり、例祭七月廿七日、往古社地に六本松(一幹六本に分る)と呼ぶ老樹ありしが中古枯槁す、村持、 鐘樓。安永二年再鑄の鐘を掛、(新編相模国風土記稿より)

愛川町に入り、愛川東中の前に、信玄道の旧道が残っています。

旧道

さぁ、いよいよ三増です。

まず北条軍ですが、三増に入って、清徳寺や棟岩院がある辺りの東側、山裾高台に、三増合戦時、北条軍が陣取っていました。

北條軍、三増合戦当初の陣地からの眺望。本当はもっと高い所だったと思いますが。それでも信玄道と三増の原、良く見渡せます。

北条軍とは、玉縄城から八王子道を北上してきた北条上総守綱成、滝山城から八王子通り大山道を南下してきた大将北条陸奥守氏照、同じ通りを鉢形城から北条安房守氏邦、松田城から小田原道を北東進してきた大道寺駿河守政繁です。

ここは、この三方向からの道が交わり、且つ、三増の原扇状地の扇の要、ボトルネックに位置しますから、絶好の陣地ということになります。

冒頭記載の通り、信玄は、小田原から平塚まで向かった後、相模川は渡河せず八王子道を北進しました。まずは隊の内、内藤修理昌豊率いる小荷駄隊が、北条軍の目の前を進軍してきました。

小荷駄隊が三増の原から三増峠への山間の道に入ろうとした時、待ち切れず、北条軍が襲いかかり、三増合戦が始まりました。

三増合戦の碑、背後には三増の原と信玄軍が陣取った山々。2024/3撮影

三増の原は大混乱となりますが、それを確認した信玄は、手前の角田から、北条軍からは見えない中津川沿いの低地に桜坂で下り、

桜坂

西に向かい、関場坂から三増の原の台地に上がり、

関場坂

田代城を蹴散らし、

田代城鎮護八幡神社

志田沢沿いに北上し、信玄旗立松がある、戦優位な山上に陣取りました。

更に、小幡重貞率いる、加藤景忠や上野原七騎などの上野原衆らが加わった部隊を、志田峠を越えさせ、

志田峠へ上る道

津久井に向かわせて、津久井城を牽制しました。結果、津久井城からは助けを出せませんでした。

富士塚、三増合戦の際、信玄が作らせたという伝承が残る。この地で、小幡重貞が布陣し、枯れたとうもろこしに火をつけて、夜間、津久井城からは松明の群のように見せた、"信玄もろこし" や、槍を持った人形を並べた、"槍小僧" などの津久井城牽制戦術がなされた。

更に山縣昌景の部隊にも志田峠を越えさせ、待機させていましたが、戦況を見て取って返し、志田峠を逆向きに越えさせ、北条軍の横っ腹、背後を突いた為、北条軍は総崩れとなり、武田軍勝利となりました。

尚、武田側の浅利右馬助信種が、北条綱成隊の鉄砲によって討死しています。

浅利明神、浅利右馬助信種墓所

敗れた北条軍は、中津川を渡り、半原山へと逃げ込んだということです。半原山という山はありませんが、馬渡橋を渡って直ぐに細野城がありますのでそこのことか、あるいは仏果山、経ケ岳などの山々のことを指していると思われます。

細野城の木戸口に向かう木戸口坂

勝った武田軍は、小幡重貞が守る三増峠を越えた者、

当時のままの三増峠へ上る古道

志田峠や、

志田峠、2024/3撮影

中峠を越えた者もいたと思いますが、

志田峠、中峠を越えた、韮尾根から振り返っての山々の眺望。中峠からここ韮尾根に下る道すがら、いやが坂では、足でまといになるという理由で、信玄軍が従っていた女人を殺してしまったという伝承が残ります。下り切ったこの平地には、そわずが森と呼ばれる、いやが坂で殺した女人たちを葬った場所があるそうです。

その後、韮尾根、長竹、青山と進み、

青山にある光勝寺、信玄軍に焼き払われた。

一隊は三ヶ木から沼本の渡しで道志川を渡河し、

今昔マップより、三ケ木からの沼本の渡しは津久井湖の湖底に沈んでいます。
沼本側、湖岸まで下りてきました。沼本の渡し、沼本から三ヶ木方向の眺望、2023/12撮影

もう一隊は三ヶ木新宿から七曲坂を下って道志川を渡り、

弁天橋、当時もここを渡ったと思われます。橋は無かったと思いますが。
上の山城跡、このルートには正に街道の抑えとして上の山城があったのですが、留守だったのか、武田軍に圧倒されて逃げ出したのか、とにかく何事も無く武田軍は通り過ぎたようです。三ケ木ルートにも又野城がありましたが同様でした。

道志、寸沢嵐と進み、反畑で首実検し、勝どきを上げています。

首洗池

その後、津久井県の記述にある通り、若柳、日連、名倉と相模川右岸を行き、

今昔マップより、相模湖によって鼠坂から日連への道はダムの底に沈んでいます。
旧道はまだ一部残っています。鼠坂はここから下りまして、2023/12撮影、下同
湖岸のここに降り立ちます。正面が日連です。

そして、国境付近で石楯尾神社を焼き払っています。

石楯尾神社、2023/12撮影

その後、境橋で相模川を渡り、北条の支配する相模国から、武田が支配する甲州都留郡上野原へと帰って行っていますが、諏訪神社と、

諏訪神社、2024/10撮影

牛倉神社も焼き払われています。

牛倉神社、2024/10撮影

しかし、甲州に入った後の神社焼き払いは、追撃してきた北条軍によるものという見方もあるようです。

実際、1530年の矢坪坂の戦いでは、北条軍は、談合坂SA付近の矢坪坂まで進撃してきて、小山田勢と合戦となっています。

と、なると、一概に、武田軍勝利とも言えないようにも思います。三増合戦に関する資料は武田側の甲陽軍鑑のみで、武田側の資料ですから、武田側優位に書かれていますので。

そして上野原城です。

上野原城、今は稲荷神社だけが残ります。

武田軍の三増合戦引上行もここで完了です。


  • 1524/2, 武田信虎(信玄父)と北条氏綱が、猿橋で合戦となり、最終的には武田軍が北条軍を、小猿橋(相模原市緑区吉野)まで押し返したようですから武田軍の勝ちか

  • 1年後の1525/2, 津久井城付近で合戦、津久井城不落と記録にあるので、武田軍が侵攻して北条軍が守りきったか

  • 5年後の1530/4, 矢坪坂の戦い、武田信虎が小山田信有を武蔵国に派遣することを聞き付けた北条氏綱は、相甲国境を大きく越えて、矢坪坂で小山田信有と遭遇、合戦となりましたが、兵力差が大きく多勢に無勢、北条軍が勝利を収めました。

  • 1535/8, 山中の戦いで、再び登場の小山田信有と、勝沼信友との連合軍と、北条氏綱・氏康親子が戦い、北条軍が勝利しています。

ということで、武田と北条は相甲国境である上野原で、度々小競り合いをしていますが、思うのは、結構奥まで北条が攻め込んでいるということですね。猿橋、矢坪坂、山中ですから。

なので今回、北条軍が牛倉神社を焼き払ったというのも、過去の実績を見れば、納得するわけです。

しかし同時に、加藤はどうした!! とも思うわけですね。上野原を守ってたのは加藤だろう、と。上記、記録に出るのも小山田氏ばかりですし。

小山田氏は、1205年の畠山重忠の乱で、同族ですから、畠山重忠側に付き、敗れ、甲斐に逃れたとされ、この時が、郡内小山田氏の始まりとのことです。場所は大月の先、甲州道中の追分を左大月方面に少し行った中津森です。桂川上流ですね。

一方、加藤氏は、1213年の和田合戦でやはり敗れた、それまで郡内古郡を治めていた古郡氏の領土を与えられました。牛倉神社が古郡明神ですから上野原中心部です。

加藤氏の菩提寺、保福寺、寺紋は武田菱、2024/10撮影

加藤氏は、上野原を何度も北条軍に突破されていたということになります。

1213年以降、上野原に根を張っていた加藤氏ですが、1520 - 40年頃は、勢力が衰えていたということでしょうか。

気になるのが一つ。上野原の龍泉寺です。

龍泉寺

ご覧の通り、寺紋が北条の三つ鱗なのです。
和銅年間開創の白蓮寺が前身で、1374年寂の古先禅師により臨済宗に改宗、寺号も龍泉寺に改めたといいますから、加藤氏が上野原に入った後、三つ鱗が付いたということになります。

もしかしたら、ですが、この辺りは、ある時期、武田(加藤), 北条入り乱れていたのかもしれません。

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