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相模国風土記を訪ねる&渡来の道シリーズ、秦野盆地

※冒頭写真は塔ノ岳から南へ伸びる大倉尾根南端の雨乞岳と秦野戸川公園吊り橋。塔ノ岳に続く尾根の末端、つまり、端山が雨乞岳ですか。なるほど。

大磯が、高句麗渡来人の伝承地であることは、渡来の道シリーズでご紹介してきました。※下記、シリーズ最終回記事の最下部にlink集があります。そこから該当記事をお探し下さい。

西方から船に乗り太平洋岸を進んできた、高麗若光率いる高句麗渡来人は、大磯に上陸しました。

高来神社とその背後の高麗山。高来 = こうらい = 高麗、です。2019/8撮影下同(今見ると右に寄ってますね)
現慶覚院、元は高麗寺の地蔵堂と高麗山(これも)
唐土が原、照ヶ崎海岸、2025/2撮影

大磯から、その多くは、最終的には武蔵国高麗郡に移住していきますが、大磯に残る者、大磯の近辺に移住した者もいたでしょう。

井ノ口の蓑笠神社の境内掲示板には、

"・・・また、大磯の高句麗渡来人が、高麗郡に移住する際、土屋、当地井ノ口、大井、松田と西へ進む集団もあって、それらは土着し後に金子氏となり、真田、厚木、伊勢原、秦野と進み土着したのが秦氏という説明もあります。"

と、記されています。

井ノ口蓑笠神社、2025/2撮影下同

この内、真田、厚木、伊勢原、秦野というルートは、概ね、花水川流域を遡ったと考えて良いと思います。

花水川と、大山、塔ノ岳、二ノ塔、三ノ塔

その花水川ですが、大きく、渋田川、鈴川、金目川の三川で成り立ち、

  • 渋田川は渋田山に源を発し、高部屋神社(元宮)が祀られており、その高部屋神社の御祭神は住吉大御神で、この住吉大御神は、照ヶ崎に上陸し、この地に鎮座したという汐汲み神事の伝承が残っていて、高来神社の、高麗若光率いる高句麗渡来人が大磯に上陸したという縁起と重なる。

  • 鈴川は大山に源を発し言わずと知れた大山阿夫利神社が祀られ、水神高龗神が御祭神の一つで、雨乞いの聖地となっている。

  • 金目川は、以下の河川が秦野盆地を流れ、弘法山付近で合流し、金目川となっている。

    • 渋沢丘陵の頭高山付近を源流とした室川、ここには白笹稲荷神社が祀られている

    • 表丹沢塔ノ岳を源流とした水無川

    • 表丹沢牛首付近を源流とした葛葉川支流唐沢川、ここにはその名も加羅古神社と請雨権現が

    • 葛葉川支流松葉沢は表丹沢雨乞岳付近が源流

    • 表丹沢二ノ塔、三ノ塔を源流とした葛葉川

    • 表丹沢岳の台を源流とした葛葉川支流新田川

    • 表丹沢大山を源流とした金目川

人間は水が無ければ生きていけません。大磯の高句麗渡来人は、命の水を守る為、大磯からその要所に移住し、神を祀ったのではないでしょうか。

高部屋神社、こちらは今の御社、2022/11撮影
歴史的農業環境閲覧システムより、雨乞岳

ということで今回は、大山道シリーズや大山道シリーズ番外編改め相模国風土記を訪ねるシリーズでは訪問していますが、この視点では初めての、秦野盆地をexploreします。

◆□■◇

秦野駅まで輪行、古道を南へ。渋沢丘陵に少し上ります。理由はこれ。

渋沢丘陵から秦野盆地と表丹沢の眺望、いつ来てもここは絶景です。きれいな三角形の山頂の山、右から大山、真ん中やや左に二ノ塔、三ノ塔がポコンポコンと、その少し左、平らな中ポコンと少し頭が出ているのが塔ノ岳です。

下ると渋沢丘陵の縁で、ここの崖地からの湧水も水源の一つ、室川に至りますが、ここに、冒頭ご紹介した白笹稲荷神社が鎮座しています。

白笹稲荷神社

関東三大稲荷の一、公式サイトでは、

"創建の年代については詳らかでありませんが、この地先住の古代水田農耕民族は、その水田耕作に不可欠の水源に、また人間の生存の礎となる衣食住の源としての「水源(みなもと)」に、清らかに神奈備を覚出しました。 「宇迦之御霊」と仰ぐ稲魂・穀霊を祀り、「保食神」、「生産の神」として信仰し、現・白笹稲荷神社の前身としての白篠稲荷の小祠を祭祀してきました。秦野は古代大和豪族・秦氏にゆかりの地であるといい、『風土記』によれば、稲荷信仰を広めたのも秦氏で、秦公(はたのきみ)が山城国に「伊奈利(伊奈里)」を」祭祀したことに始まるといわれています。"

と、秦氏との関係を匂わせています。

花水川の水源の一つ、室川を守る為、大磯から高句麗系渡来人が移住し、秦氏と名乗って、白笹稲荷神社の前身となるお社を建てた可能性もあるわけです。

室川沿いの、迅速測図で片実線片点線の村道を西へ、平沢村の第六天の所で旧道を選んだら、

富士山がポッコリ顔を出しました。新道では拝めません。

その先、西光寺をぐるっと回って室川沿いを行きます。

室川、三面護岸ですがここは良い雰囲気。もう少ししたらこの桜も咲くでしょう。

白笹稲荷がある今泉村から、平沢村、渋沢村と行って千村に入ります。ここから北上、尾根に上がり、室町・江戸期の矢倉沢往還を西へ。

※平安・鎌倉期は↑こちら

今尚残る当時のままの掘割道を下ると、

その一
その二

小田急にぶつかりますがここにお不動さんがありまして、

室町・江戸期の矢倉沢往還、大山道ですから

この台座、よく見ると、"大山道" の文字の向かって右に、

"川上 そぶつ(みち)" と、あります。

小田急を越えた直ぐ先にある四十八瀬川を川上へ遡ると、"そぶつ" へ行きますよということですが、これについては後で触れます。

四十八瀬川を渡る仮橋は流されたままのようなので、来た道を戻って、再び北上しますが、ここからの表丹沢の眺望も見事なので一枚。

真ん中に二ノ塔、三ノ塔。右に大山、左に塔ノ岳。

R246を西へ。菖蒲村に入ります。ここの村道を北上、三廻部村に入るとここに観音院があります。

観音院

風土記によれば、

"孫仏山(寺伝に、村北より三里余り山境に至りて塔ノ岳と言うに石仏あり、石孫仏と号す。当寺、この石仏に因ありて山号とすと言う。その縁詳らかならず。石仏のことは玄倉村の條に出せり。)福聚寺と号す、天台宗、東叡寺末。往古は比叡山の末にて慈眼寺と称せり。起立の年代詳らかならず、鎌倉将軍頼朝の頃より在りしと伝う。"

石仏については玄倉村に記載、とありますから確認します。

"塔ノ岳、村東大住郡界にあり。この山の中腹に土俗黒尊仏と唱うる大石あり(高五丈八尺ばかり、その形、座像の仏体に似たり。故にこの称あり)。この山を他郷にては尊仏山と唱う。土民の説に、旱魃の時、登山してこの石に祈請し雨を乞うという。また石上に生ずる苔を土人御衣と称し、瘧疾を煩う者あればこれを取りて煎じ用う。必ず効験あり。郡中三廻部村観音院にては、この石を孫仏尊と呼び、その寺の山号をも孫仏山と唱えり(なんの縁故ありや詳らかならず。なお三廻部村の条に弁ず)。"

はい。整理すると、塔ノ岳の中腹に仏様が座っている姿によく似た大石があり、黒尊仏、あるいは石孫仏、孫仏尊と呼ばれ雨乞いの神様であると。そして三廻部の観音院では、その石仏との関わりから、山号を孫仏山としている、ということです。ですから、神社でいう、山頂の奥宮・本宮に対する里宮、お寺の秘仏に対する御前立ちの位置付けということなのでしょう。

先程出てきた、"そぶつ" は、このことなのです。塔ノ岳は雨乞いの神様として信仰篤く、御前立ちも設置され、雨乞い登山の道標がこの周辺にあったと、そういうことなのです。

観音院境内から三ノ塔。塔ノ岳は建物で見えません。当時は勿論拝めたでしょう。

来た道を少し戻って才戸橋で四十八瀬川を渡ります。才戸ですか。先程、東光院、白山神社もありましたから、この辺りも、大和王権による奥州征伐によって生まれた俘囚が、産鉄の為、連れて来られた地区なのでしょうか。そう言えば弘法山付近にもこのセットがあります。ヤマトタケル伝承もありますね。

話が脱線してしまいました。堀郷四ヶ村の真ん中を通り、平和橋で水無川も渡って、戸川村に入って、八坂神社を訪問します。

八坂神社

境内掲示板によれば、境内地に、前尊仏と呼ばれる金りゅう尊仏の祠が祀られ、尊仏松という地名が今でも残っていると書かれています。風土記にも、

"前尊佛、自然石、長二尺五寸にて佛像に彷彿たり、松樹○中に安す。前尊佛と唱ふるは塔嶽に拘留尊仏と稱する自然石あり。其前立の意なりと云。村民持ち"

はい、先程の観音院と同じく、ここにも塔ノ岳黒尊仏の前尊仏があったのです。雨乞いの神様、塔ノ岳、黒尊仏は、大変、信仰が篤かったようですね。

恐らく右が、風土記にもある前尊仏だと思います。長さは合ってる。
八坂神社前尊仏から表丹沢。二ノ塔、三ノ塔はよく見えますが、肝心の塔ノ岳は住宅に阻まれ見えませんが、当時は勿論拝めたでしょう。

水無川左岸を遡ります。葛葉川支流矢坪沢の源頭を巻いて横野村に入って行きます。

ここに、冒頭ご紹介した加羅古神社が鎮座しています。

加羅古神社

風土記によれば、

"村の鎮守なり。神体は木像。縁起に昔唐土より飛来せし神なるを以て唐子明神と号す。この境内の山中に安する拘留尊仏は即ち明神の垂迹なる由を見ゆ。その他記する所、妄誕に亘ればここに漏せり。例祭六月二十二日。天正十九年十一月社領一石の御朱印を賜う。当社古は村民今井兵部と言う者進退しその子孫郷右衛門の時、天正十九年中原御殿へ召され明神の由来を尋ねされられ即ち社領の御朱印を賜わりしと言う。兵部が子孫今に村民なり。神木に樫の樹あり。"

"この境内の山中に安する拘留尊仏" とは塔ノ岳の黒尊仏のことを指しています(拘留尊仏とは釈迦以前の過去七仏の内、第四仏のことで、玄倉村では、拘留 = 黒、を当てています。)。

ですから、大変信仰が篤かった塔ノ岳の黒尊仏は、ここ加羅古神社の御祭神、唐土 = 大陸・半島から飛来した神が、垂迹した仏様だったのです。

本日のテーマ、"大磯の高句麗渡来人が秦野に移住した", ということから考えると、"唐土から飛来した神" は、大磯からの高句麗渡来人移住者だと考えられ、命の水を守る為、その主な水源たる表丹沢の塔ノ岳、三ノ塔、二ノ塔の麓に、加羅古神社を祀った、そして、塔ノ岳の岩を黒尊仏とし、加羅古神社と垂迹の関係にして、格を上げた、と、解釈できるように思います。

また、加羅古神社にはもう一つ伝承があります。

"昔、毎夜山に光るものが現れ、不思議に思った村人が登ってみると、突然空に御神燈が光り、次に奥の山上に、また奥の山上にと光輝き竜馬に乗った神童が現れ神像を渡し祀るようにと云い、村人は最初に燈った山麓に加羅古神社を建立したという。二番目、三番目に神燈が灯った山はそれぞれ二ノ燈、三ノ燈と呼ばれるようになった。その後、「燈」が「塔」に転訛し、現在の名前になったと言われている。"

塔ノ岳との関係は垂迹で解決したので、残る二ノ塔、三ノ塔との関係強化の為、この伝承が生まれたのかもしれません。

加羅古神社の北西にある伊沢稲荷、ここにも前尊仏がありました。大変分かりづらいですが、真ん中の家の屋根の上に赤い鳥居が見えます。

先を行きます、とは言っても葛葉川支流松葉沢を渡って菩提村に入って直ぐなのですが、ここにも加羅古神社があります。

菩提加羅古神社

元禄期に横野村の一部が菩提村に編入された時、菩提村へと村変えとなった氏子が分祠したようです。

さぁ、菩提村から羽根村、西田原村、田原村、東田原村、小蓑毛村、蓑毛村と、金目川を遡って蓑毛の大日堂に向かいます。

金目川

パナモリで初のここでのヒルクライム、直登の上りは相変わらずキツかったですが、上り切りました。やはり、ギヤ比ですね。

蓑毛大日堂、仁王門
大日堂
不動堂
茶湯殿(地蔵堂)

大日堂は、天平十四年742, 行基が、金剛界の五智如来像、大日、宝生、阿同、釈迦、阿弥陀を造立供養し、覚王山安明院を開いたとの伝承があります。

そして、奥の院とされる不動堂の方は、秦河勝が、この五大尊の奉行として、都からこの地に下り、不動明王を安置したとの伝承があります。秦河勝ですよ、秦河勝。

秦河勝碑
左側面に、"秦河勝" の文字。この塔自体は享保十五年1730, 当時の大蟲という住職が建立しました。"應神天皇十五甲辰年自漢土秦苗裔、守護来而當山彼又往故名此里於、秦後孫秦川勝再加力 云々" と、あります。先程の、秦河勝が五大尊建立の奉行としてこの地に来たということが加書かれているわけです。

さて、秦野駅に戻りますが、その途中、曾屋神社は、

曾屋神社

明治六年、曾屋村内鎮座の、加羅子神社、八幡神社、熊野神社、加茂神社、白山神社、牛頭天王社を合祀しています。曾屋村にも加羅子神社があったのです。

曾屋村加羅子神社旧地、今は乳牛水神のみ残ります。

曾屋村の、"曾" は、古代乳製品の、"蘇" だという説もあります。秦氏が、その作り方を教えたのだと。相模国延喜式民部省の記録、貢蘇十六壺は、ここ曾屋から出されたと言われています(有力推定地)。


如何でしたでしょうか。

秦野が渡来人伝承地であることはよく言われていることで、蓑笠神社の伝承を読んだ時も、いつものことか、という印象しかなかったのですが、調べてみるとなかなか興味深く、大変面白かったです。

サイクリングコースとしても良かった。景色も良かったし、獲得標高もソコソコあったと思います。

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