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相模国風土記を訪ねる、牧野村

※牧野村、蒲原家を経由して青野原村、青根村に向かう道筋と、日連村への道との丁字路に佇む二十三夜塔など石塔群と我がパナモリ

全ての大山道を制覇しようと始めた大山道シリーズ、

すると、大山道周辺の古道も多く目にするようになり、大山道シリーズ番外編として、数々、exploreしてきました。

途中から、相模国風土記を訪ねるシリーズに名称変更してここまで継続してきましたが、もう殆どexploreしてしまって、さて次はどこをexploreしようかと、いつも、地図と睨めっこしているのであります。

地図を見て、ポッカリと穴が空いているように見えた高座丘陵や、その周辺は何度も訪問しているものの訪問していなかった所にストーリーを見つけ、相模川周辺を、ここ最近はexploreしてきました。

今回もそのようにして決めた、"牧野村" をexploreしたいと思います。

牧野村は、ザックリと、北・東を相模川、南を道志川、西を相甲国境と秋山川に囲まれたエリアです。

牧野村の北、ですから相模川の向こうに位置する佐野川村は、日本のシルクロードシリーズでexploreしています。

その他の牧野村周辺も、津久井道、信玄道、津久井通り大山道などで行き尽くしました。

残っているのは牧野村だったのです。

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橋本駅まで輪行、津久井道で寸沢嵐まで。

鼠坂関、ここを真正面、"甲州路" の碑の右、幅一間の山道を下っていくのが津久井道です。ここを左にアスファルトの道を行くのが本日のルート。

ここからk517奥牧野相模湖線に入ります。この道は、風土記によると、

"二條の道係れり、その一は西方甲州都留郡より東方寸沢嵐村に達す、村内を係ること二里余り、道幅四五尺、四より六尺に余る"

の、道でしょう。四五尺というと1.2 - 1.5m程。人一人、あるいは馬一頭が通れる程の細い、つまり厳しい道だったはずです。

寸沢嵐村から日連村との村境を越え、

峠状になってました。

更にピークから先は牧野村です。

ここが日連村と牧野村の村境

下り切ると、篠原集落です。

相模化学工業の対面の幅一間の小径が古道です。
上の写真の坂を上がり切った所から篠原集落の眺望。撮影者である私が立っているのが古道、見えている道は新道です。
篠原組の鎮守、大石神社、良い空気感です。風土記によれば、"祭神詳らかならず、別当同前(蓮乗院), 村民持ち、篠原組の鎮守、例祭七月十九日"

風土記には書かれてませんが、創建は天平年間729 - 766とも。こんな山奥に、と言っては失礼ですが、意外な古社です。

御祭神は石凝姥命(イシコリドメ命), 初めて聞きます。調べました。少し長いですが説明します。

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天岩戸神話で、岩戸に隠れたアマテラス大神を外へ誘い出す為、イシコリドメ命は鏡を造り、アメノウズメ命が岩戸の前で踊り始め、アマテラス大神がその様子を見ようと岩戸を少し開けた時、アメノウズメ命は、イシコリドメ命が作った鏡をアマテラス大神の前にかざします。アマテラス大神は、鏡に写った自分の姿を見ようと更に身を乗り出した時、アメノタヂカラオ命が、アマテラス大神を岩戸の外へ引っ張り出し、世界に光が戻りました。

その後、アマテラス大神が、孫であるニニギ尊を、所謂、天孫降臨で天下りさせる時、その鏡を、「私の御魂として私自身を崇めるように祀れ」、と、ニニギ尊に持たせます。この時、アメノコヤネ命、フトダマ命、アメノウズメ命、タマノオヤ命と共にイシコリドメ命もニニギ尊に御伴します。

尚、その鏡は、五十鈴宮(皇大神宮内宮)に祀られました。
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ということで、全国にある神社の御神体の一つである鏡ですが、イシコリドメ命がそのルーツということになります。

また、鏡と言えば古墳から出土するのをよく見ますが、それは、青銅製の銅鏡です。青銅は鉄が生産される前の金属ですから、製鉄の神様、金山彦命よりも古い神様と言えます。

天平年間の創建という伝承も頷けますね。また、大石神社の、"石" は、鏡、青銅のことを指しているのでしょう。

先を行きます、このまま道なりに南下するk518藤野津久井線、この道は津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートでもあり、実走済ですが、冒頭の風土記の道はそちらではなく、西に向かうk517奥牧野相模湖線です。

上って、

11%勾配

下って、

日向集落

していくと、大久和集落です。ここ大久和は、風土記によれば、

"大久和、是所には里正五郎助が先祖、神原三郎左衛門徳兼、始めて当村に移り来しより累世住着して一区をなせり"

とあって、その里正五郎助については、

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旧家五郎助、氏は蒲原累生里正たり。先祖蒲原宮内少輔氏徳(後改め氏政)。今川義元の旗下に属し、永禄三年1560五月桶狭間合戦義元討死の時共に戦死せり。その子左衛門尉徳兼父氏政の留守を守れり、その時氏真の家人高林源兵衛なるもの狼藉に及びし時、忠節を事々し氏真より感状。元来足利将軍家の御家人たりしか、父氏政討死後、上洛延引きに及ぶ。この時より氏真の幕下になれり。永禄十一年1568氏真武田信玄と合戦の時、氏真敗北して砥城の山家に落つ。蒲原徳兼もこの時数代居城を離れ砥城まで送り、それより遠州の所領山梨に蟄居す。その後蒲原の城は武田に乗っ取られる。その頃徳兼も氏真に従い砥城の山家を出て掛川城に入る。同十二年1569正月浜松勢掛川を攻める。氏真に従って小田原に退く。その後遠州一円神君御分国となる。この時蒲原徳兼浪々の身となり譜代の家従志村清左衛門、志村清六、垣沢彦衛門、垣沢彦市、四人を相具し武州矢部村に来たり。それより相州の山中牧野村の郷士佐藤九郎衛門信正なるものの聟となり牧野郷に星霜を経てその後剃髪して乗蓮と改める。慶長九年1604伊奈備前守忠次殉国の砌、百姓逃散無主の田畑を乗蓮及びその子新八郎徳氏に与える。その子新八郎徳氏神君へ度々お目見え有。その子佐藤新八郎徳富の時鳥居土佐守成次より合力米を得たり
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ということで、今川家の家臣で、永禄三年1560の信長との桶狭間の戦いにも参加、永禄十一年1568の信玄の駿河攻め、翌永禄十二年1569の家康掛川攻めの後、小田原に退きますが、その小田原北条も滅び、その後、浪々の身となって、武州矢部とありますが恐らく相州矢部を経由して、ここ、牧野村に土着しました。蒲原氏が婿に入った牧野村の郷士佐藤九郎衛門信正は後北条津久井衆ですが山奥ですから家康も放っておいたのでしょう。領地は確保されていたので、一時とはいえ、同じ仲間だった蒲原氏を救ったのではないでしょうか。非常にドラマチックな人生を歩んだ一族でした。

風土記にはその屋敷の様子が図示されています。

風土記にある里正蒲原五郎助宅の図、図入りで特別に紹介される程の、牧野村の名物だったのでしょう。

しかも、まだほぼこのままの姿で現存しているのです!!

現在の状況です。まず向きについて、上の風土記の図は東から見た図です。ですからこの写真は右から見て下さい。十字マークを置いたこんもりとした緑、その西の緑、これが図の柵、塀ですね。屋敷への階段も写真で確認できます。屋敷東の南北の道、これが図にある家々が並ぶ道で、その先のクネクネした道まで見事に残ってます。
蒲原家長屋門

更に、長屋門の正面に立って左手の志むらフードショップは、恐らく、蒲原徳兼に付き従った志村清左衛門、志村清六の御子孫ではないでしょうか。

志むらフードショップ

また、更にその先左手にある柿沢商店も、垣沢彦衛門、垣沢彦市の御子孫と思われます。

柿沢商店、軽バンのサインに注目

宅だけではなく、実に御家臣まで、400年もの間、御一緒とは。ここは、時が止まっているかのようです。

大久和から大鐘への道筋は、一旦k517奥牧野相模湖線を離れるのですが通行止です。

古道は残っています。が、橋が落ちているので通行禁止の看板も。

仕方が無いのでそのままk517奥牧野相模湖線を一旦北上し、折り返すように堂地集落に入ります。

堂地集落

ここ堂地には伝承があります。頼朝富士巻狩りの際、曽我兄弟が、父の仇討ちを果たす為、東海道で富士に向かいますが監視が厳しく、止むを得ず道志ルートを使った際、ここ堂地にあった安国寺で休息したという伝承です。

曽我兄弟の根拠地は曽我丘陵ですから、箱根越え、足柄越え、谷峨越えで富士は直ぐですが、六本松通り大山道で秦野、矢倉沢往還で伊勢原、津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートで青野原、牧馬峠、篠原、大久和、大鐘、堂地と来たのでしょう。

曽我兄弟はこの後、道志ルートで富士に行き、見事仇討ちを果たしました。しかし、津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートで青野原から牧馬峠を越えずに直接道志ルートに乗れば良いのに、何故わざわざ遠回りして堂地に来たのでしょうか。安国寺に何か縁があったのでしょうか。

さて堂地という地名ですが、御堂が7つと多かったから、と、言われています。風土記を見るとに確かに牧野村全体で29もありました。内訳は、村民持ちが2, 安国寺持ちが4, 福寿院持ちが3, 残りの20は全て蓮乗院持ちでした。

先を行きます。堂地の東隣は中尾集落で、ここに、牧野村総鎮守の八幡神社があります。

八幡神社、"別当蓮乗院、十五組の鎮守なり。七月十六日を例祭とす。社頭杉松連続してをなす、その中老杉二株神木とす"

建暦元年1211, 最初、大鐘に建立され、嘉禄二年1226, 現在地に遷宮されました。

再び堂地に戻って先を行きます。神奈川カントリークラブの陸橋の手前を左に入ります。するとここに蓮乗院があります。

蓮乗院、"牧野山典徳寺と号す。古儀真言宗、開山乗海忍性律師、本尊阿弥陀。関東法談所三十六院の一なり。鐘楼一、元禄三年の鐘楼あり"

このお寺は風土記の記載はアッサリとしていますが、興味深い歴史がありました。

弘安八年1285に鎌倉で発生した霜月騒動の際、難を避ける為、極楽寺の乗海忍性律師が、行基が彫った弥陀を背負い、甲州へ赴く途中、ここ牧野で卜した結果、堂ヶ尾こそ修禅の地と定め開山しました。具体的な場所はここより西の今飯綱神社がある山頂です。

その後、嘉元元年1303, 乗海忍性律師の弟子、円海蓮乗法師の時、堂宇を麓の梨本に移し、寺号を牧野山天徳寺と改め、元徳年間1329 - 1331には牧野山典徳寺蓮乗院と改めました。ここには現在跡地を示す標柱が立っています。

寛永の始め火災に遇い、元禄元年1688, 現在地大鐘に移りました。

ということで鎌倉極楽寺の乗海忍性律師が開いたお寺でした。こういった開創の謂れもそうですが、既述のように御堂29の内、20が蓮乗院持ちでしたし、神社も、既述の大石神社、八幡神社も含めた110の内、103が蓮乗院持ちです。完全に、牧野村の中心的存在だったのではないでしょうか。

乗海忍性律師が、行基が彫った阿弥陀様を背負って、牧野村へ入って甲州に抜けようとしたルートですが、津久井通り大山道宮ヶ瀬ルートで青野原、道志みち、伏馬田、菅井、綱子、舟久保、甲州都留郡一古沢ではないでしょうか。

戻ってk517奥牧野相模湖線を西へ。ここからは、蓮乗院開創の地、飯綱神社がある山がよく見えます。

蓮乗院開創の地、飯綱神社がある山

そして、

蓮乗院が麓の梨本に移転したのはここです。跡地には何もありません。数百年、このままなのですね。

その先、簗瀬橋で秋山川を渡ると奥牧野集落です。

奥牧野集落の立派な長屋門

第六天須賀神社を過ぎると、

第六天須賀神社境内にある本殿

2つの秋山川支流を越えますが、2つ目が相甲国境となります。

相甲国境

はい、ここで、冒頭ご紹介した、

"二條の道係れり、その一は西方甲州都留郡より東方寸沢嵐村に達す、村内を係ること二里余り、道幅四五尺、四より六尺に余る"

はコンプリートしました。

さて、帰りは名倉村を経由します。k35四日市場上野原線を、秋山川に沿って北上、ふじの温泉病院付近の秋山川左岸支流、これが相甲国境で、旧道では一旦国境となる支流を渡り国境を越え、再び支流を渡って相州に入りますが、相州の中でも、この支流から先が名倉村になります。村境なのです。が、今は県境を越えない筋に道が変えられていますので、支流を越えるとそのまま名倉村に入ることになります。

相州の中では、この支流は牧野村と名倉村の村境です。それにしても物凄い岩石、崖です。

秋山川沿いに、徐々に高度を上げていきます。

名倉村日向集落から秋山川の谷、広くて深いです。

この後、斜度は更に上がり、

天神峠、"南方牧野村に達する通路なり、陟降七八町許、この峠の頂上に慶長九年秋天神祠立て祭しより、以来この名を負えり。然らばあれとも至って小祠なり"

を越え、下って開けた所は葛原の集落です。

葛原、とづらはら、と読みます。
シュタイナー学園前の絶景

そして、

名倉峠

も越え、弁天橋で相模川を渡って、藤野駅から輪行で帰りました。


如何でしたでしょうか。

牧野村は、当たり前ですが、山、山、山でした。GoogleMapsで見ると平面なのでついつい平面だと思い込んでしまいますが。

既述のように、幅一間に満たない細い道しか通っていなかった、陸の孤島の山村でした。蒲原家の様子、裏街道としての機能を見ると、その気配が今でも感じられる、そう思いました。

サイクリングとしてもちょうど良いルートでした。

次回は南北の道です。

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