油断してると、心が揺さぶられる|子供向け犬のアニメについて
子どもたち『ブルーイ』を観ていると、たまに自分だけが遠い目をしていることがある。
子どもたちはそんなことにはまったく気づかず、ブルーイとビンゴが何か変なことをしたとか、バンディットがまたひどい目に遭っているとか、そういうことで笑っている。
ということが多々ある『ブルーイ(Bluey)』について、自分なりの整理をする。
『ブルーイ』はオーストラリアの子ども向けアニメで、ブルーイと妹のビンゴという犬の姉妹と、父親のバンディット、母親のチリの一家のお話。一話はとても短く、だいたいは子どもたちが何か遊びを思いついて、大人がそれに巻き込まれていく…という展開である。
子どもは、案外いろいろ見てるし、見てたことを思い出す
ブルーイとビンゴの年齢が自分の子どもたちと近いこともあって、二人の遊び方や発言を見ていると、「ああ、これぐらいの子どもはオーストラリアでも同じなのか」と思うことがよくある。
急に遊びが始まり、ルールは途中で増え、こちらが理解した頃にはもう別の遊びになっているし、大人からすればどうでもよさそうなことにかなり真剣に怒ったり悲しんだりする一方で、昨日までできなかったことが突然できるようになったりもする。
それで、ブルーイやビンゴが少し背伸びをして一人で遊ぼうとしたり、引っ越しや結婚といった、子どもには全部を理解することが難しい大人の出来事に出会ったりするのを見ると、自分の子どもたちも、そのうちこういうことを考えるようになるのだろうかと思う。
同時に、自分が子どもだった頃のことも思い出す。
子どもの頃は、大人が話していることの意味などほとんどわかっていなかったはずなのに、誰かの機嫌が悪いとか、何か困ったことが起きているとか、この話には自分が入っていかないほうがいいとか、そういうことだけはわかっていた気がして、大人になってから考えると、子どもというのは何も知らないようでいて、ずいぶんいろいろなものを見ていたのだと思う。
『ブルーイ』を観ていて遠い目になるのは、たぶんそのせいなのだろう。
チリは、すぐに答えを教えない
私は登場人物の中で、母親のチリが好きである。
チリは子どもたちに愛情が深いのだが、何でも受け入れるわけではなく、子どもが間違ったことをしたり、誰かを傷つけるようなことを言ったりしたときには、それは違う、としっかりきっぱり伝えるが、
彼女は、導き方がうまいのである。
雷のように怒る、非難して終わりにするわけでもなく、反対に、子どもの自主性を尊重しましょうという感じで何も言わないわけでもなく、たとえ話をしたり、一緒に遊んだりしながら、観察するように見守り、本人がなんとなく気づくところまで持っていく。
一言でいうなら、「子供の見守り閾値が高い」のだ。
私はそれを見るたびに、なるほど、と思うのだが、実際に自分の子どもを前にすると、そんなに都合よくたとえ話など出てこない。し、たとえ話をしている最中に子供たちはどこかへ行ってしまうことも多い。
父・バンディットにもチリと同様似たところはあるのだが、彼の場合は少し違っていて、そもそも子どもと遊ぶことがかなり好きなのだと思う。
子どもの目線まで降りていくというより、最初からわりとそちら側にいる。だから気がつくと、父親が子どもを導いているのか、子ども二人と大きな子ども一人が遊んでいるのか、よくわからなくなっている。
それもまた、この家族がうまくいっている理由の一つなのかもしれない(まぁ、架空の物語なのでと言ってしまえばそれまで)。
ただ、チリもいつもしっかりしているわけではなく、「Sheepdog」という回では、子どもたちと少し離れて一人になる時間を必要とし、かなり余裕をなくしている。
私はこの回がけっこう好きで、親というものは子どもを愛していても一人になりたいときがあり、その二つは別に矛盾しないのだという、ごく当たり前なのにあまり堂々とは言いにくいことが、特に大げさな話にもならずに出てくるからである。
ちなみに、この回はバンディットが奮闘する。身を粉にして。もし、気になる方がいましたら、ご覧ください。
大人になっても、どうにもならないことはある
チリの姉のブランディが登場する「Onesies」は、また少し違った意味で忘れられない。
ブランディは久しぶりに妹の家を訪れ、ブルーイとビンゴと過ごすのだが、ビンゴを見つめる彼女の様子と、それを見ているチリの様子がなんとも不自然な回である。なぜかというと、
おそらく、ブランディは子どもを望みながら、それが叶わない事情がある。そのことが随所に示唆されているのである。
チリは姉に対して何か気の利いたことを言って問題を解決しようとはせず、そばにいる。
人が困っているときに何か言わなければならないと思ってしまうことは多いけれど、本当にどうにもならないことについては、たぶん言葉でどうにかしようとしないほうがいい場合もあるのだろう。
『ブルーイ』には、そういう大人のどうにもならない事情が、ときどき子どもの遊びのすぐ隣に置かれている。誰かが昔のことを思い出してつらくなっていても、子どもは遊ぶし、お腹も空くし、明日になればまた別の遊びを思いつく。
考えてみれば家族というのはたぶんそういうもので、大人の問題が片づくまで子どもの時間が止まってくれるわけでもなければ、子どもが成長するまで大人が悩むのを待ってくれるわけでもなく、全員の時間が勝手に同時進行していることを再認識させられた。
おわりに
ブルーイとビンゴを見ながら自分の子どもたちのことを考え、そのうち自分が子どもだった頃のことを考え、さらにチリやブランディを見ながら、大人になってからも人は別に完成するわけではないのだな思う。おかげで、「親でいないと!」という義務感や使命感は少し和らぐ。
