【新作】なぜ「ずんだもん」は哀しい話と不条理ギャグの両極を演じきれるのか?――創作コメディ動画で試した合成音声の“振り幅”
昨日、私は初めての朗読動画として、創作した「哀しい都市伝説」を発表した。
合成音声という技術が、人間の切実な「願い」や「哀しみ」というテーマに出会った時、そこに強烈な感情のギャップが生まれること。それを私は、自ら制作することで突き止めた。
だが、技術というものは、一つの側面だけを見て評価してはならない。
あの「ずんだもん」の声。あの独特の「のだ」という響き。 それが「静」や「哀」を際立たせることは分かった。では、その対極にあるもの――つまり、「動」と「狂気」、そして「不条理なコメディ」を演じさせた時、このテクノロジーは一体どんな表情を見せるのだろうか?
昨日とは180度違うアプローチで、私はこのツールの限界を試してみたくなったのだ。
というわけで、昨夜のうちにもう一本、新たな創作ストーリーを書き上げ、動画を完成させた。我ながら、この熱量には呆れるしかない。
食文化の聖絶戦争、勃発。
今回、私が書き下ろした新たな物語。 そのタイトルは、【ずんだもん朗読】無人島ずんだサバイバル!タピオカ原住民との聖戦が、悲惨すぎたのだ…【コメディ 朗読】。
そうだ、コメディだ。 漂着した無人島で、ただひたすらに「ずんだ餅」を渇望するずんだもん。彼はついに奇跡の食材「天然の枝豆」を発見し、至高の儀式(=枝豆を潰すこと)に入ろうとする。
そこに立ちはだかるのが、島の原住民「タピオカ族」だ。
彼らは「丸いもの」を神聖視し、「潰すこと」を何よりの冒涜とする「タピオカ円環教」の敬虔な信者たちだった。彼らの御神体は、もちろん漆黒のタピオカパールである。
枝豆(丸いもの)を潰してペースト(ずんだ)にしようとする行為。それは彼らにとって、許されざる蛮行。
ここに、「ずんだ原理主義」対「タピオカ円環教」という、絶対に相容れない食文化の宗教戦争が勃発するのだ。
なぜ合成音声は「ギャグ」と相性が良いのか
昨日、あれほど切ない物語を語ったのと同じ「声」。その声が、今日は打って変わって、タピオカ族のストロー槍から放たれる乾燥タピオカ弾に「地味に痛いのだ!」と絶叫している。
これこそが、現代のインターネットコメディの本質だと私は思う。 合成音声特有の、どこかフラットで冷静さを保ったような声質。その声で、この世の終わりかのような「聖絶戦争」だの「異教徒め!」だのと、最高にくだらない(褒め言葉だ)言葉を叫び続ける。
この、状況の深刻さと、声の持つ「ニュートラルさ」との圧倒的な落差。 このギャップこそが、不条理な笑いを生み出す最強のエンジンなのだ。ずんだもんの声は、狂った世界の中心で唯一冷静なツッコミ役でありながら、同時に最も狂った行動を取る主人公でもある。この多重構造を、あの声はたった一人で演じきってしまう。
昨日の作品が「静」と「哀」の実験なら、今作は「動」と「狂」の実験だ。
果たして、ずんだ原理主義はタピオカ円環教に勝利できるのか。というか、ずんだもんは無事に「ずんだ餅」を食べることができるのか。
その悲惨すぎた結末を、ぜひその目で見届けてほしい。同じツールを使っても、クリエイターの狂気(アイデア)次第で、ここまで違うものが生まれるのだから、テクノロジーは面白い。
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↓昨日作成した動画
