『ありか』——美空とひかりの一年が、声を張らずに教えてくれること|宵町観賞録
『ありか』というタイトルが、本屋で目に止まりました。瀬尾まいこさんの新作で、2026年本屋大賞では7位。書き下ろしの長編で、ご本人が「これまでの人生を全部込めた」と語っているのを読んで、これは読んでおきたい、と思ったのです。
主人公は美空さん。26歳のシングルマザーで、5歳の娘ひかりを育てています。美空自身は母親との関係で長く苦しんできた人。なのに、自分が母になった今、ひかりとの日々はちゃんと充足している。その矛盾みたいなものが、ねじれずに置かれているところが、まず印象に残りました。
物語に大きな事件はありません。元夫の弟・颯斗が、離婚後も二人を気にかけて通ってくる。美空が職場で、人と一緒にいる距離感を測りなおす。ひかりが何気ない一言で母を笑わせる。そういう細かい場面の積み重ねで、一年が進んでいきます。
颯斗の存在の置き方も、すこし良かったです。彼は同性の人が好きな人で、美空とは恋愛関係にならない。けれど離婚した兄夫婦のあいだに、ふらりと残って、ひかりと遊んでいる。家族の枠を引き直したような距離感で、押しつけがましさがありません。
刺さった点を、いくつかメモしておきます。
ひとつは、ひかりちゃんの描き方。5歳の子が言いそうな言葉の選び方が、わざとらしくないのです。観察して書いているというより、隣にいる感じ。美空と頬をくっつける場面の柔らかさで、何度も心があたたまりました。
もうひとつは、「ありか」というタイトルの意味が、読み終えてから揺り起こされる構造です。幸せのありか。自分の居場所。読む前に思っていた意味と、読み終えたあとに残る意味が、すこし違っていました。
それから、瀬尾さんの文体。短い段落の積み重ねで、緩急が自然にできています。声を張らずに書いている、と感じました。劇的な台詞を置かないのに、不思議と次の場面が気になる。ページを戻らず、するすると読み進めてしまうリズムがあります。
引っかかった要素もあります。美空が自分の母親と向き合う場面が、決して和解で閉じられないこと。「許せた」と簡単に書かないでいるのが、自分には誠実に映りました。
読み終えて最初に思ったのは、「日常を書くのは、こんなに難しいことなのか」でした。事件を書くのとはまた別の難しさがある。自分は、たぶんこの「声を張らない書き方」がいちばん苦手で、いちばん真似したいところです。
母娘の関係でずっと小さく揺れてきた人や、家族のかたちが標準とは少しずれている人に、静かに届くかもしれない。タイトルに手が止まった人とは、相性がいいかもしれません。
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