世界を鳴らす者 第5話 おかえりなさい、の音
◇
「気をつけてね」
その声の底で、音が、ゆうべより深いところで鳴っていた。
出立の朝だった。荷ひもを肩にかけて、見送りに戸口まで出てくれた宿のおばさんに、頭を下げようとしたところだった。
下げられなかった。
ゆうべ、部屋へ上がる前に聴いたときは、薄れかけてはいても、まだ届くところで鳴っていた音だ。
ひと晩で、一段、沈んでいる。
こんなに早いことも、あるんだ。
母さんの、豆の煮える音。角の家の子の、すずを転がすような声。沈んでいく途中の音を、わたしはみんな、途中のまま、村に置いてきた。
途中なら、まだ届くところにある。そう思って村を出てきて、ほんとうにそうなのか、たしかめられた日はまだない。
この人の音は、あしたの朝、どこで鳴っているんだろう。
戸口の外で、ウィルが荷を背負い直す音がした。きょうは、次の土地へ発つ日だった。
「あの」
声が出たのは、考えるより先だった。
「もう一晩だけ、ここにいたいんです」
理由は言えなかった。言えるような、かたちをしていなかった。
ウィルは荷を下ろさないまま、少しの間、こっちを見た。
「急ぐ旅でもない」
それきり、なにも聞かれなかった。
なにをするのかは、自分でも決まっていなかった。あしたの朝では、遅いのかもしれない。分かっているのは、そこまでだった。
わたしは広間に戻って、荷を椅子の脇に下ろした。
◇
ウィルは、朝のうちから聞き込みに出ていった。次の村までの道のりと、隊商の話を聞いてくるという。
わたしは広間の隅に座って、耳をすませた。
台所で、おばさんが動いている。鍋の音。水の音。ときどき、短い息をつく音。
声を出していないときでも、その人の底で、あの音は細く鳴っている。
木の、みじかい音。それから、小さな金具の音。ふたつ、続けて。
知っている音の、かたちをしている。なのに、なんの音か、出てこない。すぐそこまで出かかったまま、つかめない。
広間の反対の隅には、おじいさんがひとり、座っていた。
きのうも、たぶんおとといも、あの席にいた人だ。カップをひとつ前に置いたまま、飲むでもなく、道のほうを見るでもなく、座っている。
底は、空白だった。
おばさんが冷めた茶を替えても、顔は上がらなかった。替えたおばさんのほうも、なにも言わなかった。
わたしは目を戻した。数えはじめたら、この村では、きりがない。
昼近くに、ウィルが戻ってきた。
表の戸が、開く。
ざ、と木が床を引きずる音がして、戸は途中でつかえた。ウィルが持ち上げるようにして、閉めた。
――ちがう。耳が、先にそう言った。
この戸は、こんな音の戸じゃ、なかったはずだ。
木と金具が続けて鳴るはずのところで、引きずる音が鳴っている。
――戸だ。
テオの底には、暖炉の残り火。母さんの底には、豆の煮える音。だったら、おばさんの底のあのふたつづきは、この戸だ。
木の戸があいて、金具が小さく鳴る。客を迎えて、送り出して。この宿の一生の、いちばんそばで鳴っていた音。
気づいてしまえば、なんで出てこなかったのか分からないくらい、そのままの音だった。
昼、椀を運んできたおばさんに、それとなく戸の話を向けてみた。開けにくいですね、くらいの言い方で。
「ああ、ずっと建てつけが悪くてねえ。直す人も、いないから」
手も止めずに、それだけだった。
直らないままの戸を、この村の誰も、変だと思っていない。
この人の底の音のことは、言わなかった。言ってはいけないことは、村にいたころから、よく知っている。
◇
昼すぎ、表の日かげで荷の手入れをしていたウィルに、わたしは頼みにいった。
「変なお願いなんですけど」
前置きは、そこまでにした。
「あの戸を、直してもらえませんか」
理由は言わなかった。言えない理由ごと頼めるのが、聞かない、と決めてくれたこの人との、たぶん正しい歩き方だった。
ウィルは手を止めて、戸口まで歩いた。戸をあけて、閉めて、しゃがんで、下の金具を見た。
「……建てつけが悪いのは、確かだな」
そう言って、道具を借りに、通りの奥へ歩いていった。
なぜ、とは聞かれなかった。
聞かない人が、聞かないまま、理由のいらない事実をひとつ、見つけてくれた。
修理は、静かな仕事だった。
ウィルが戸を枠から外し、持ち上げて、据え直す。わたしは言われたとおりに、戸板を支える。
金具を締め直す音。木のふちを薄く削る音。言葉は、ほとんどいらなかった。手のほうが先に、順番に噛み合っていった。
日が高いうちに、戸は枠におさまった。
ウィルが、試しにあける。
木のみじかい音。金具の小さな音。ふたつづきに、鳴った。
同じ高さだった。おばさんの底の、あの音と、同じ高さ。
台所から、おばさんが顔を出した。
「ありがとうねえ。戸を直してもらったから、今夜の分は、いいよ」
礼の言葉は、正しかった。
底は、動かなかった。
同じ音が、こんなに近くで鳴ったのに、あの人の深いところは、なにも変わらなかった。
行商人のあの人と、同じだ。外から鳴らしても、届かない。
音は、戻った。それだけだった。
わたしは、直った戸を見た。
この音は、ただの音じゃなかったはずだ。
誰かが、帰ってくる音だった、はずだ。
夕方、ウィルが聞き込みの残りに出るというので、ついていった。
用は、なかった。ただ、いまから出れば、帰りは日が落ちるころになる。
それでいい、と思った。
◇
夕暮れの通りは、灯りより影のほうが多かった。
家はこんなにあるのに、ともりはじめた窓は、数えるほどしかない。
その少なさの中を、わたしたちは宿へ歩いた。ウィルが半歩先、わたしがそのうしろ。村を出てから、いつのまにか決まった並びだった。
宿が見えてくる。戸口の上に、小さな吊りあかりが下がっている。火は、まだ入っていない。
戸の前で、わたしは立ち止まった。
ひと呼吸ぶん、ただ、立っていた。
それから、戸をあけた。
木のみじかい音と、金具の小さな音が、ふたつづきに、夕暮れの宿に鳴った。
戸口をくぐって、台所の奥へ、声を届けた。
「いま、戻りました」
考えるより先の速さで、奥から返ってきた。
「おかえりなさい」
息が、止まった。
おばさんが、手を拭きながら出てきた。
わたしを見て、それから、開いたままの戸を見た。
自分の口から出た言葉の置き場所を探すみたいに、布巾を持ったまま、少しのあいだ、そこに立っていた。
「……この戸、こんな音だったかねえ」
誰にともなく、言った。
「ずいぶん久しぶりに聞いた気がするよ」
まばたきが、ふだんより多かった。布巾を、いちど、握り直した。
それで終わりだった。誰の話もせず、なんの話もしないで、おばさんは台所へ戻っていった。
その背中を、耳が追いかけた。
聴こえた。沈みかけていたあの音が、深いところで、ゆっくり向きを変える。
一段だけ、浮かぶ。
全部じゃない。まだ細い。まだ遠い。
それでも、下りていくばかりだった音が、いま、浮かぶ側へ動いた。
止まっていた息が、のどの奥で、ふるえながらほどけた。
指の先が、冷たいのか熱いのか、分からない。戸の枠に手を置いた。置いていないと、自分がどこに立っているのか、分からなくなりそうだった。
なんで、と思う。
昼間も、同じ音が鳴った。同じ戸で、同じ高さで。あのときは、なにも動かなかった。
分からない。たまたま、なのかもしれない。つぎも同じにできるかと聞かれたら、できるとは言えない。
分からないまま、耳の奥では、あの音が、さっきより少し近いところで鳴りつづけていた。
おばさんが戻ってきて、戸口の吊りあかりに火を入れた。
ともった火の色は、濃かった。
絵の具を、水で薄める前の色。それをひとしずく、そこへ落としたみたいな色だった。
通りは、薄いままだった。広間も、空も。
この戸口の火が、ひとつ、濃かった。
広間の隅で、おじいさんは顔を上げなかった。
戸の音にも、おかえりなさいにも、なにひとつ届いていない横顔のまま、カップの前に座っていた。
戸口の外では、ウィルが荷ひもを直している。その底の地鳴りは、きょうも同じ速さ、同じ深さで鳴っている。
◇
夜の広間は、ゆうべより、音が多かった。
鍋の音。表を通る誰かに、おばさんが窓ごしにかける声。その声の底で、あの音。
数えたら、三つ。それだけのことだった。それだけのことが、ゆうべまでは、なかった。
夕飯は、麦と野菜の椀だった。
おばさんは椀をふたつ運んでくると、世間話のついでみたいに言った。
「そろそろ、客間の風を通しておかないとねえ。祭りの月には、誰か来るかもしれないし」
それから、思い出したように、つけ足した。
「マーサだよ。まだ、名乗ってなかったね」
「……リィナです」
「はいよ」
それきりだった。マーサは台所へ戻っていった。
名前と、音。
マーサ。木と金具の、あの戸の音。
ひとり数えて、胸の奥にしまう。
いままでしまってきたのは、消えた音と、消えかけの音ばかりだった。
初めて、いま鳴っている音を、名前と一緒にしまった。
それから、上着のポケットの上に、指で触れた。木のスプーンは、きょうも同じかたちで、そこにあった。
戻ったのは、ひとりの、いちばん上の一段。
なぜ戻ったのかは、ほんとうのところ、分からないまま。
広間の隅のおじいさんには、届かなかった。あの人の底は、空白だった。
テオは――たぶん、あのおじいさんより、もっと深い。
ひとりに、一日。
この村の薄れた音は、ぜんぶで何人ぶんあるんだろう。この村の先には、次の村がある。その先にも、道は続いている。
間に合うのか、と数えかけて、やめた。
静かになりたいと、あんなに願ってきた。
いまは、台所の物音の向こうで鳴っているあの音が、あしたも鳴っていてほしい。
願いごとの向きが、いつ変わったのかは、分からなかった。
椀を置いたウィルが、言った。
「次の村は、ここより静かだそうだ」
きょうの聞き込みで拾ってきたことを、置くように言った。
うなじのあたりが、すっと冷えた。
冷えは、すぐには消えなかった。
この広間より静かな場所へ、あした、行く。
寝る前に、ひとりで表の通りへ出た。
夜の村は、暗い。ともる窓より、ともらない窓のほうが、まだ多い。
そのなかで、戸口の吊りあかりが、足もとに濃い火の色を落としている。
あしたは、あの暗い道の先へ行く。
背中で、戸が、ふたつづきに鳴った。
振り返ると、マーサが表の風を見に出てきたところだった。わたしに気づいて、夜は冷えるよ、と言って、中へ戻っていく。
直した音が、もう、この人の暮らしの中で鳴っている。
消えた音ばかり数えて、ここまで来た。
きょうから、そのなかに、生きている音がひとつ、ある。
わたしはもういちど暗い道の先を見て、それから、火の色の下をくぐって、宿へ入った。
(第5話・了)
