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世界を鳴らす者 第5話 おかえりなさい、の音

「気をつけてね」

 その声の底で、音が、ゆうべより深いところで鳴っていた。

 出立の朝だった。荷ひもを肩にかけて、見送りに戸口まで出てくれた宿のおばさんに、頭を下げようとしたところだった。

 下げられなかった。

 ゆうべ、部屋へ上がる前に聴いたときは、薄れかけてはいても、まだ届くところで鳴っていた音だ。

 ひと晩で、一段、沈んでいる。

 こんなに早いことも、あるんだ。

 母さんの、豆の煮える音。角の家の子の、すずを転がすような声。沈んでいく途中の音を、わたしはみんな、途中のまま、村に置いてきた。

 途中なら、まだ届くところにある。そう思って村を出てきて、ほんとうにそうなのか、たしかめられた日はまだない。

 この人の音は、あしたの朝、どこで鳴っているんだろう。

 戸口の外で、ウィルが荷を背負い直す音がした。きょうは、次の土地へ発つ日だった。

「あの」

 声が出たのは、考えるより先だった。

「もう一晩だけ、ここにいたいんです」

 理由は言えなかった。言えるような、かたちをしていなかった。

 ウィルは荷を下ろさないまま、少しの間、こっちを見た。

「急ぐ旅でもない」

 それきり、なにも聞かれなかった。

 なにをするのかは、自分でも決まっていなかった。あしたの朝では、遅いのかもしれない。分かっているのは、そこまでだった。

 わたしは広間に戻って、荷を椅子の脇に下ろした。

 ウィルは、朝のうちから聞き込みに出ていった。次の村までの道のりと、隊商の話を聞いてくるという。

 わたしは広間の隅に座って、耳をすませた。

 台所で、おばさんが動いている。鍋の音。水の音。ときどき、短い息をつく音。

 声を出していないときでも、その人の底で、あの音は細く鳴っている。

 木の、みじかい音。それから、小さな金具の音。ふたつ、続けて。

 知っている音の、かたちをしている。なのに、なんの音か、出てこない。すぐそこまで出かかったまま、つかめない。

 広間の反対の隅には、おじいさんがひとり、座っていた。

 きのうも、たぶんおとといも、あの席にいた人だ。カップをひとつ前に置いたまま、飲むでもなく、道のほうを見るでもなく、座っている。

 底は、空白だった。

 おばさんが冷めた茶を替えても、顔は上がらなかった。替えたおばさんのほうも、なにも言わなかった。

 わたしは目を戻した。数えはじめたら、この村では、きりがない。

 昼近くに、ウィルが戻ってきた。

 表の戸が、開く。

 ざ、と木が床を引きずる音がして、戸は途中でつかえた。ウィルが持ち上げるようにして、閉めた。

 ――ちがう。耳が、先にそう言った。

 この戸は、こんな音の戸じゃ、なかったはずだ。

 木と金具が続けて鳴るはずのところで、引きずる音が鳴っている。

 ――戸だ。

 テオの底には、暖炉の残り火。母さんの底には、豆の煮える音。だったら、おばさんの底のあのふたつづきは、この戸だ。

 木の戸があいて、金具が小さく鳴る。客を迎えて、送り出して。この宿の一生の、いちばんそばで鳴っていた音。

 気づいてしまえば、なんで出てこなかったのか分からないくらい、そのままの音だった。

 昼、椀を運んできたおばさんに、それとなく戸の話を向けてみた。開けにくいですね、くらいの言い方で。

「ああ、ずっと建てつけが悪くてねえ。直す人も、いないから」

 手も止めずに、それだけだった。

 直らないままの戸を、この村の誰も、変だと思っていない。

 この人の底の音のことは、言わなかった。言ってはいけないことは、村にいたころから、よく知っている。

 昼すぎ、表の日かげで荷の手入れをしていたウィルに、わたしは頼みにいった。

「変なお願いなんですけど」

 前置きは、そこまでにした。

「あの戸を、直してもらえませんか」

 理由は言わなかった。言えない理由ごと頼めるのが、聞かない、と決めてくれたこの人との、たぶん正しい歩き方だった。

 ウィルは手を止めて、戸口まで歩いた。戸をあけて、閉めて、しゃがんで、下の金具を見た。

「……建てつけが悪いのは、確かだな」

 そう言って、道具を借りに、通りの奥へ歩いていった。

 なぜ、とは聞かれなかった。

 聞かない人が、聞かないまま、理由のいらない事実をひとつ、見つけてくれた。

 修理は、静かな仕事だった。

 ウィルが戸を枠から外し、持ち上げて、据え直す。わたしは言われたとおりに、戸板を支える。

 金具を締め直す音。木のふちを薄く削る音。言葉は、ほとんどいらなかった。手のほうが先に、順番に噛み合っていった。

 日が高いうちに、戸は枠におさまった。

 ウィルが、試しにあける。

 木のみじかい音。金具の小さな音。ふたつづきに、鳴った。

 同じ高さだった。おばさんの底の、あの音と、同じ高さ。

 台所から、おばさんが顔を出した。

「ありがとうねえ。戸を直してもらったから、今夜の分は、いいよ」

 礼の言葉は、正しかった。

 底は、動かなかった。

 同じ音が、こんなに近くで鳴ったのに、あの人の深いところは、なにも変わらなかった。

 行商人のあの人と、同じだ。外から鳴らしても、届かない。

 音は、戻った。それだけだった。

 わたしは、直った戸を見た。

 この音は、ただの音じゃなかったはずだ。

 誰かが、帰ってくる音だった、はずだ。

 夕方、ウィルが聞き込みの残りに出るというので、ついていった。

 用は、なかった。ただ、いまから出れば、帰りは日が落ちるころになる。

 それでいい、と思った。

 夕暮れの通りは、灯りより影のほうが多かった。

 家はこんなにあるのに、ともりはじめた窓は、数えるほどしかない。

 その少なさの中を、わたしたちは宿へ歩いた。ウィルが半歩先、わたしがそのうしろ。村を出てから、いつのまにか決まった並びだった。

 宿が見えてくる。戸口の上に、小さな吊りあかりが下がっている。火は、まだ入っていない。

 戸の前で、わたしは立ち止まった。

 ひと呼吸ぶん、ただ、立っていた。

 それから、戸をあけた。

 木のみじかい音と、金具の小さな音が、ふたつづきに、夕暮れの宿に鳴った。

 戸口をくぐって、台所の奥へ、声を届けた。

「いま、戻りました」

 考えるより先の速さで、奥から返ってきた。

「おかえりなさい」

 息が、止まった。

 おばさんが、手を拭きながら出てきた。

 わたしを見て、それから、開いたままの戸を見た。

 自分の口から出た言葉の置き場所を探すみたいに、布巾を持ったまま、少しのあいだ、そこに立っていた。

「……この戸、こんな音だったかねえ」

 誰にともなく、言った。

「ずいぶん久しぶりに聞いた気がするよ」

 まばたきが、ふだんより多かった。布巾を、いちど、握り直した。

 それで終わりだった。誰の話もせず、なんの話もしないで、おばさんは台所へ戻っていった。

 その背中を、耳が追いかけた。

 聴こえた。沈みかけていたあの音が、深いところで、ゆっくり向きを変える。

 一段だけ、浮かぶ。

 全部じゃない。まだ細い。まだ遠い。

 それでも、下りていくばかりだった音が、いま、浮かぶ側へ動いた。

 止まっていた息が、のどの奥で、ふるえながらほどけた。

 指の先が、冷たいのか熱いのか、分からない。戸の枠に手を置いた。置いていないと、自分がどこに立っているのか、分からなくなりそうだった。

 なんで、と思う。

 昼間も、同じ音が鳴った。同じ戸で、同じ高さで。あのときは、なにも動かなかった。

 分からない。たまたま、なのかもしれない。つぎも同じにできるかと聞かれたら、できるとは言えない。

 分からないまま、耳の奥では、あの音が、さっきより少し近いところで鳴りつづけていた。

 おばさんが戻ってきて、戸口の吊りあかりに火を入れた。

 ともった火の色は、濃かった。

 絵の具を、水で薄める前の色。それをひとしずく、そこへ落としたみたいな色だった。

 通りは、薄いままだった。広間も、空も。

 この戸口の火が、ひとつ、濃かった。

 広間の隅で、おじいさんは顔を上げなかった。

 戸の音にも、おかえりなさいにも、なにひとつ届いていない横顔のまま、カップの前に座っていた。

 戸口の外では、ウィルが荷ひもを直している。その底の地鳴りは、きょうも同じ速さ、同じ深さで鳴っている。

 夜の広間は、ゆうべより、音が多かった。

 鍋の音。表を通る誰かに、おばさんが窓ごしにかける声。その声の底で、あの音。

 数えたら、三つ。それだけのことだった。それだけのことが、ゆうべまでは、なかった。

 夕飯は、麦と野菜の椀だった。

 おばさんは椀をふたつ運んでくると、世間話のついでみたいに言った。

「そろそろ、客間の風を通しておかないとねえ。祭りの月には、誰か来るかもしれないし」

 それから、思い出したように、つけ足した。

「マーサだよ。まだ、名乗ってなかったね」

「……リィナです」

「はいよ」

 それきりだった。マーサは台所へ戻っていった。

 名前と、音。

 マーサ。木と金具の、あの戸の音。

 ひとり数えて、胸の奥にしまう。

 いままでしまってきたのは、消えた音と、消えかけの音ばかりだった。

 初めて、いま鳴っている音を、名前と一緒にしまった。

 それから、上着のポケットの上に、指で触れた。木のスプーンは、きょうも同じかたちで、そこにあった。

 戻ったのは、ひとりの、いちばん上の一段。

 なぜ戻ったのかは、ほんとうのところ、分からないまま。

 広間の隅のおじいさんには、届かなかった。あの人の底は、空白だった。

 テオは――たぶん、あのおじいさんより、もっと深い。

 ひとりに、一日。

 この村の薄れた音は、ぜんぶで何人ぶんあるんだろう。この村の先には、次の村がある。その先にも、道は続いている。

 間に合うのか、と数えかけて、やめた。

 静かになりたいと、あんなに願ってきた。

 いまは、台所の物音の向こうで鳴っているあの音が、あしたも鳴っていてほしい。

 願いごとの向きが、いつ変わったのかは、分からなかった。

 椀を置いたウィルが、言った。

「次の村は、ここより静かだそうだ」

 きょうの聞き込みで拾ってきたことを、置くように言った。

 うなじのあたりが、すっと冷えた。

 冷えは、すぐには消えなかった。

 この広間より静かな場所へ、あした、行く。

 寝る前に、ひとりで表の通りへ出た。

 夜の村は、暗い。ともる窓より、ともらない窓のほうが、まだ多い。

 そのなかで、戸口の吊りあかりが、足もとに濃い火の色を落としている。

 あしたは、あの暗い道の先へ行く。

 背中で、戸が、ふたつづきに鳴った。

 振り返ると、マーサが表の風を見に出てきたところだった。わたしに気づいて、夜は冷えるよ、と言って、中へ戻っていく。

 直した音が、もう、この人の暮らしの中で鳴っている。

 消えた音ばかり数えて、ここまで来た。

 きょうから、そのなかに、生きている音がひとつ、ある。

 わたしはもういちど暗い道の先を見て、それから、火の色の下をくぐって、宿へ入った。

(第5話・了)


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