世界を鳴らす者 第3話 まだ、そこにある
◇
知らない音が、村に入ってきた。
車輪が土を噛む音。板のきしむ音。知らない足取りが、道の先から、ゆっくり近づいてくる。
この村に、外から人が来る日は、めったにない。
通りにいた人たちが、手を止めて道の先を見た。犬が二度吠えて、やめた。
荷車だった。布の屋根をかけた、大きな荷車。
行商人だ、と誰かが言った。
鍋。刃物。布。薬。村では手に入らないものを積んで、村から村へ渡っていく人。
みるみる人が集まっていく。子どもたちが荷車のまわりを走って、おばさんたちが荷台をのぞきこむ。よその村の話をしてくれ、と誰かがせがんでいる。
わたしは少し離れた壁際に立って、いつものように耳をすませた。
外から来た人の音を聴くのは、生まれて初めてだった。
少しだけ、期待していたのだと思う。
外の世界の音は、この村の音より、ちゃんと鳴っているかもしれない、と。
行商人は、よく日に焼けた中年の男の人だった。
「安いよ、奥さん。うちの鍋は長持ちするよ」
大きくて、あたたかそうで、商売の上手な声だった。
その底で、なにも鳴っていなかった。
薄いんじゃない。遠いんでもない。
テオと同じ、あの空白だった。
足の裏が、地面に貼りついた。
男の人は笑っている。値切るおばさんと言い合いをして、大げさにのけぞって、また笑う。
空っぽのまま、あんなに上手に笑える。
音が消えていくのは、この村のことだと、どこかで思っていた。
ちがった。
村の誰より先まで消えた人が、村の外から、歩いて来た。
◇
広場は、ちょっとした市場みたいになった。
鍋を鳴らす音。布を広げる音。値切る声に、笑い声。
この村では久しぶりの、にぎやかな朝だった。
「外は、どうなんだね。変わりないかい」
誰かが聞いた。行商人は荷をほどく手を止めずに、気軽に答えた。
「変わりないよ。どこも静かで、いいもんだ」
「静か?」
「ここ何年か、道中のもめごとがめっきり減ってね。物盗りも、けんかも。みんな、人のことをかまわなくなったのかねえ。おかげで商売がしやすい」
まわりの大人たちが、いい時代だねえ、と笑った。
わたしは、笑えなかった。
背中が、すっと冷えた。
道が静かになったのは、けんかをするほど、人が人を気にしなくなったからだ。
どこも静かでいいもんだ、と空っぽの人が笑う。
外のほうが、この村より、先へ進んでいる。
荷車の脇に、男の人がもうひとり立っていた。
行商人より若い。色のあせた古い上着を着て、荷にも客にも目をやらずに、道の先を見ている。
動かない立ち方だった。待つことに慣れた人の、立ち方。
歳は、よく分からない。若いようにも、そうでないようにも見えた。
護衛だよ、と行商人が客に話していた。ひとり旅の多い商売だからね、と。
口数の少ない人らしくて、朝からひとことも、声を聞いていなかった。
昼前、行商人に呼ばれて、その人が初めて口をきいた。
「日のあるうちに、荷を軽くしておけ」
低くて、短い声だった。
わたしは癖で耳をすませて――すませたまま、動けなくなった。
聴き取れない。
空白じゃない。薄いのでもない。
声の底で、低い音が鳴っている。地鳴りみたいな音が、切れ目なく、鳴りつづけている。
地面のずっと下で、重いものが転がりつづけているような音。
その音の下に、なにがあるのか。
どれだけ耳を下ろしても、届かない。
空白の人は、聴けば一度で分かった。この人は、何度聴いても分からない。
空っぽでも、薄れでもない音を、わたしは初めて聴いた。
こわい、と思うより先に、耳が離せなくなっていた。
◇
昼をだいぶ過ぎると、広場から人が引いた。
行商人は荷台に腰かけて、遅い昼めしのパンをかじっていた。
わたしは離れたところに立って、もう一度、あの空白を聴いていた。
テオのときも、そうだった。何度聴いても同じだと分かっていて、それでも何度も聴いた。
きょうは、数えながら聴いた。
名前と、音。名前は知らないから、音のほうへ、耳を深くしていく。
空白。空白。どこまで下りても、空白。
井戸の底をのぞきこむみたいに、耳で、暗いところを下りていく。
――そして、聴いた。
いちばん深いところに、ひとつ、音が残っていた。
遠くの屋根を打つ、雨のようなやわらかい音。
鳴っている。
空っぽのはずの人の、底のそのまた底で、まだ鳴っている。
息を吸ったまま、しばらく吐けなかった。
夜明けの水をひと口飲んだときみたいに、胸の内側が冷えた。
それから、その冷たさの真ん中が、どく、と鳴って、熱くなった。
指の先まで、血のめぐる音がした。
薄れていく音は、沈んでいく途中の音だった。それは、もう知っている。
なら、消えたように聴こえる音は。
消えたんじゃなくて、沈みきって、耳の届かないところまで行ってしまったのだとしたら。
テオの、あのまるい音も。
テオの底の、わたしの耳も届かない深いところで、いまも鳴っているのだとしたら。
たしかめたくて、わたしは荷車に近づいた。
「あの……遠くから、来たんですか」
「ん? ああ、南の街のほうからね。嬢ちゃん、なにか買うかい」
「いえ……ごめんなさい」
話しかけながら、耳は下へ向けていた。
声が届けば、あの雨の音が、少しでも浮いてこないか。
こなかった。
男の人の声は明るいまま、空っぽのままで、雨の音は深いところで鳴ったまま、動かなかった。
わたしの声では、届かない。
わたしにできるのは、いまも、聴くことまでだった。
それでも、きのうまでとは違う。
まだ、そこにあるのかもしれない。
消えたんじゃなくて、沈んでいるだけなら――探せばいい。
沈んだ音まで届く方法が、この広い世界のどこかに、あるのかもしれない。
覚えておくことしかなかった仕事に、きょう、続きができた。
◇
行商人たちは、あしたの朝早く、隣村へ発つという。
日が落ちる前に、わたしは荷車のところへ頼みにいった。隣村まで、一緒に歩かせてほしい、と。
行商人はちょっと目を丸くして、それから、あっさり引き受けてくれた。
「歩けるなら、かまわないよ。連れがいるほうが、道は短い」
護衛の人は、なにも言わなかった。こっちを見も、しなかった。
夕飯の支度をしている母さんに、言った。
「あした、隣村に行ってくる。行商の人たちと一緒だから」
「隣村? なにしに」
「見てみたいの。一度も、村の外に出たことがないから」
母さんは、豆のすじを取る手を止めて、なにか言いかけて、やめた。
「……そう。気をつけてね」
言葉は、ちゃんと心配のかたちをしていた。
底の音が、遠かった。
鍋の底で豆が煮える、あのゆっくりした音。それが、きょうは壁を一枚へだてたみたいに、遠かった。
初めて村の外へ出たいと言った娘に、返事は、それで終わりだった。
だめ、と言われたかったのかもしれない。言われて、言い返して、心配の音に送り出されたかった。
もういちど話を切り出すことは、できなかった。
「豆、煮えたよ」
「うん」
鍋の湯気は、きのうと同じ匂いがした。
あしたの朝も、この匂いの中で母さんは豆を煮る。わたしがいてもいなくても、同じ火加減で。
テオのところへは、暗くなりきる前に行った。
小屋はもう戸を閉めるところで、テオは削りくずを外へ掃き出していた。
「あした、隣村に行くんだ。行商の人たちと」
「え、なにそれ。祭りにはまだ早いのに」
テオは笑った。
「まあ、いいけど。荷車についていけば、道は平気だよ。気をつけなよ」
やさしい言葉が、平らなまま並んだ。
「ね、テオ。スプーン、ひとつもらっていい」
自分でも、言うつもりのなかった言葉だった。
テオは、いいよ、と棚から一本選んでくれた。削りたての、木の匂いのするやつ。
「隣村で、うちの宣伝でもしてきてよ」
あなたの音を探しにいく。
そうは、言わなかった。言えば、雑音持ちのたわごとが、またひとつ増えるだけだと知っている。
かわりに、心の中で約束した。
テオの、あのまるい音。
深いところでまだ鳴っているなら、届く方法を、わたしが探してくる。
「またね、リィナ」
戸口で、テオが言った。いつもの言葉だった。
「うん。またね、テオ」
こんどは、間をあけずに返せた。
「行ってきます」とは、言わなかった。
またね、のほうが、ちゃんと帰ってくる言葉のような気がしたから。
◇
夜明けの村境で、荷車が待っていた。
出がけに、母さんは布に包んだパンを持たせてくれた。
気をつけてね、ときのうと同じ言葉を言って、戸の中へ戻っていった。
パンはまだ、ほんのりあたたかかった。
護衛の人が先に立ち、荷車が続いて、わたしはそのうしろを歩いた。
家々のあいだの道を抜ける。
ここまでは、知っている道だ。
パン屋の前。井戸の広場。テオの小屋へ曲がる角。
角の家の窓はまだ暗い。すずの音の子は、夢の中だろう。
歩きながら、わたしはいつもの仕事をした。
名前と、音。名前と、音。
パン屋のおばさんの、砂を噛む音。粉屋のじいさんの、眠そうな音。母さんの、豆が煮える音。
テオの、まるい音。
上着のポケットの中で、木のスプーンが、歩くたびに小さく鳴った。
置いていくんじゃない。
ひとりずつ数えて、胸のいちばん奥へ、しまっていく。
丘の道にかかると、車輪が重そうにきしんだ。
のぼりきったところで、一度、振り返った。
村が、朝の光の中に、まるごと見えた。
小さかった。あんなに広いと思っていた世界が、こんなに小さかった。
絵の具を水で薄めたような色。屋根も、畑も、道も、ぜんぶ薄い。
生まれてから、あの薄い色の中にいた。外から見たのは、初めてだった。
隣村まで行って、帰ってくる。
そのつもりで、いる。いるはずなのに、目は、村と反対の、道の続く先を見ようとする。
「あんた、さっきから何を数えてる」
前から、声がした。
息が、止まった。
護衛の人だった。振り向きもしない。歩調も変えない。道の先を見たまま。
数えていることに気づいた人は、いままで、ひとりもいなかったのに。
「……なんでも、ないです」
それしか言えなかった。
その人は、ふうん、とも言わなかった。それきり、なにも聞いてこなかった。
低い地鳴りの音が、変わらない速さで、前を歩いていく。
あの音の下では、なにが鳴っているんだろう。
空白なのか。沈んでいる音なのか。それとも、わたしの知らないなにかなのか。
静かになりたいと、ずっと願ってきたのに。
いまは、聴き取れないその音の続きが、聴きたかった。
荷車がきしむ。車輪が石を踏む。
道は丘を下って、わたしの知らないほうへ、まっすぐ続いていた。
(第3話・了)
