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世界を鳴らす者 第3話 まだ、そこにある

 知らない音が、村に入ってきた。

 車輪が土を噛む音。板のきしむ音。知らない足取りが、道の先から、ゆっくり近づいてくる。

 この村に、外から人が来る日は、めったにない。

 通りにいた人たちが、手を止めて道の先を見た。犬が二度吠えて、やめた。

 荷車だった。布の屋根をかけた、大きな荷車。

 行商人だ、と誰かが言った。

 鍋。刃物。布。薬。村では手に入らないものを積んで、村から村へ渡っていく人。

 みるみる人が集まっていく。子どもたちが荷車のまわりを走って、おばさんたちが荷台をのぞきこむ。よその村の話をしてくれ、と誰かがせがんでいる。

 わたしは少し離れた壁際に立って、いつものように耳をすませた。

 外から来た人の音を聴くのは、生まれて初めてだった。

 少しだけ、期待していたのだと思う。

 外の世界の音は、この村の音より、ちゃんと鳴っているかもしれない、と。

 行商人は、よく日に焼けた中年の男の人だった。

「安いよ、奥さん。うちの鍋は長持ちするよ」

 大きくて、あたたかそうで、商売の上手な声だった。

 その底で、なにも鳴っていなかった。

 薄いんじゃない。遠いんでもない。

 テオと同じ、あの空白だった。

 足の裏が、地面に貼りついた。

 男の人は笑っている。値切るおばさんと言い合いをして、大げさにのけぞって、また笑う。

 空っぽのまま、あんなに上手に笑える。

 音が消えていくのは、この村のことだと、どこかで思っていた。

 ちがった。

 村の誰より先まで消えた人が、村の外から、歩いて来た。

 広場は、ちょっとした市場みたいになった。

 鍋を鳴らす音。布を広げる音。値切る声に、笑い声。

 この村では久しぶりの、にぎやかな朝だった。

「外は、どうなんだね。変わりないかい」

 誰かが聞いた。行商人は荷をほどく手を止めずに、気軽に答えた。

「変わりないよ。どこも静かで、いいもんだ」

「静か?」

「ここ何年か、道中のもめごとがめっきり減ってね。物盗りも、けんかも。みんな、人のことをかまわなくなったのかねえ。おかげで商売がしやすい」

 まわりの大人たちが、いい時代だねえ、と笑った。

 わたしは、笑えなかった。

 背中が、すっと冷えた。

 道が静かになったのは、けんかをするほど、人が人を気にしなくなったからだ。

 どこも静かでいいもんだ、と空っぽの人が笑う。

 外のほうが、この村より、先へ進んでいる。

 荷車の脇に、男の人がもうひとり立っていた。

 行商人より若い。色のあせた古い上着を着て、荷にも客にも目をやらずに、道の先を見ている。

 動かない立ち方だった。待つことに慣れた人の、立ち方。

 歳は、よく分からない。若いようにも、そうでないようにも見えた。

 護衛だよ、と行商人が客に話していた。ひとり旅の多い商売だからね、と。

 口数の少ない人らしくて、朝からひとことも、声を聞いていなかった。

 昼前、行商人に呼ばれて、その人が初めて口をきいた。

「日のあるうちに、荷を軽くしておけ」

 低くて、短い声だった。

 わたしは癖で耳をすませて――すませたまま、動けなくなった。

 聴き取れない。

 空白じゃない。薄いのでもない。

 声の底で、低い音が鳴っている。地鳴りみたいな音が、切れ目なく、鳴りつづけている。

 地面のずっと下で、重いものが転がりつづけているような音。

 その音の下に、なにがあるのか。

 どれだけ耳を下ろしても、届かない。

 空白の人は、聴けば一度で分かった。この人は、何度聴いても分からない。

 空っぽでも、薄れでもない音を、わたしは初めて聴いた。

 こわい、と思うより先に、耳が離せなくなっていた。

 昼をだいぶ過ぎると、広場から人が引いた。

 行商人は荷台に腰かけて、遅い昼めしのパンをかじっていた。

 わたしは離れたところに立って、もう一度、あの空白を聴いていた。

 テオのときも、そうだった。何度聴いても同じだと分かっていて、それでも何度も聴いた。

 きょうは、数えながら聴いた。

 名前と、音。名前は知らないから、音のほうへ、耳を深くしていく。

 空白。空白。どこまで下りても、空白。

 井戸の底をのぞきこむみたいに、耳で、暗いところを下りていく。

 ――そして、聴いた。

 いちばん深いところに、ひとつ、音が残っていた。

 遠くの屋根を打つ、雨のようなやわらかい音。

 鳴っている。

 空っぽのはずの人の、底のそのまた底で、まだ鳴っている。

 息を吸ったまま、しばらく吐けなかった。

 夜明けの水をひと口飲んだときみたいに、胸の内側が冷えた。

 それから、その冷たさの真ん中が、どく、と鳴って、熱くなった。

 指の先まで、血のめぐる音がした。

 薄れていく音は、沈んでいく途中の音だった。それは、もう知っている。

 なら、消えたように聴こえる音は。

 消えたんじゃなくて、沈みきって、耳の届かないところまで行ってしまったのだとしたら。

 テオの、あのまるい音も。

 テオの底の、わたしの耳も届かない深いところで、いまも鳴っているのだとしたら。

 たしかめたくて、わたしは荷車に近づいた。

「あの……遠くから、来たんですか」

「ん? ああ、南の街のほうからね。嬢ちゃん、なにか買うかい」

「いえ……ごめんなさい」

 話しかけながら、耳は下へ向けていた。

 声が届けば、あの雨の音が、少しでも浮いてこないか。

 こなかった。

 男の人の声は明るいまま、空っぽのままで、雨の音は深いところで鳴ったまま、動かなかった。

 わたしの声では、届かない。

 わたしにできるのは、いまも、聴くことまでだった。

 それでも、きのうまでとは違う。

 まだ、そこにあるのかもしれない。

 消えたんじゃなくて、沈んでいるだけなら――探せばいい。

 沈んだ音まで届く方法が、この広い世界のどこかに、あるのかもしれない。

 覚えておくことしかなかった仕事に、きょう、続きができた。

 行商人たちは、あしたの朝早く、隣村へ発つという。

 日が落ちる前に、わたしは荷車のところへ頼みにいった。隣村まで、一緒に歩かせてほしい、と。

 行商人はちょっと目を丸くして、それから、あっさり引き受けてくれた。

「歩けるなら、かまわないよ。連れがいるほうが、道は短い」

 護衛の人は、なにも言わなかった。こっちを見も、しなかった。

 夕飯の支度をしている母さんに、言った。

「あした、隣村に行ってくる。行商の人たちと一緒だから」

「隣村? なにしに」

「見てみたいの。一度も、村の外に出たことがないから」

 母さんは、豆のすじを取る手を止めて、なにか言いかけて、やめた。

「……そう。気をつけてね」

 言葉は、ちゃんと心配のかたちをしていた。

 底の音が、遠かった。

 鍋の底で豆が煮える、あのゆっくりした音。それが、きょうは壁を一枚へだてたみたいに、遠かった。

 初めて村の外へ出たいと言った娘に、返事は、それで終わりだった。

 だめ、と言われたかったのかもしれない。言われて、言い返して、心配の音に送り出されたかった。

 もういちど話を切り出すことは、できなかった。

「豆、煮えたよ」

「うん」

 鍋の湯気は、きのうと同じ匂いがした。

 あしたの朝も、この匂いの中で母さんは豆を煮る。わたしがいてもいなくても、同じ火加減で。

 テオのところへは、暗くなりきる前に行った。

 小屋はもう戸を閉めるところで、テオは削りくずを外へ掃き出していた。

「あした、隣村に行くんだ。行商の人たちと」

「え、なにそれ。祭りにはまだ早いのに」

 テオは笑った。

「まあ、いいけど。荷車についていけば、道は平気だよ。気をつけなよ」

 やさしい言葉が、平らなまま並んだ。

「ね、テオ。スプーン、ひとつもらっていい」

 自分でも、言うつもりのなかった言葉だった。

 テオは、いいよ、と棚から一本選んでくれた。削りたての、木の匂いのするやつ。

「隣村で、うちの宣伝でもしてきてよ」

 あなたの音を探しにいく。

 そうは、言わなかった。言えば、雑音持ちのたわごとが、またひとつ増えるだけだと知っている。

 かわりに、心の中で約束した。

 テオの、あのまるい音。

 深いところでまだ鳴っているなら、届く方法を、わたしが探してくる。

「またね、リィナ」

 戸口で、テオが言った。いつもの言葉だった。

「うん。またね、テオ」

 こんどは、間をあけずに返せた。

 「行ってきます」とは、言わなかった。

 またね、のほうが、ちゃんと帰ってくる言葉のような気がしたから。

 夜明けの村境で、荷車が待っていた。

 出がけに、母さんは布に包んだパンを持たせてくれた。

 気をつけてね、ときのうと同じ言葉を言って、戸の中へ戻っていった。

 パンはまだ、ほんのりあたたかかった。

 護衛の人が先に立ち、荷車が続いて、わたしはそのうしろを歩いた。

 家々のあいだの道を抜ける。

 ここまでは、知っている道だ。

 パン屋の前。井戸の広場。テオの小屋へ曲がる角。

 角の家の窓はまだ暗い。すずの音の子は、夢の中だろう。

 歩きながら、わたしはいつもの仕事をした。

 名前と、音。名前と、音。

 パン屋のおばさんの、砂を噛む音。粉屋のじいさんの、眠そうな音。母さんの、豆が煮える音。

 テオの、まるい音。

 上着のポケットの中で、木のスプーンが、歩くたびに小さく鳴った。

 置いていくんじゃない。

 ひとりずつ数えて、胸のいちばん奥へ、しまっていく。

 丘の道にかかると、車輪が重そうにきしんだ。

 のぼりきったところで、一度、振り返った。

 村が、朝の光の中に、まるごと見えた。

 小さかった。あんなに広いと思っていた世界が、こんなに小さかった。

 絵の具を水で薄めたような色。屋根も、畑も、道も、ぜんぶ薄い。

 生まれてから、あの薄い色の中にいた。外から見たのは、初めてだった。

 隣村まで行って、帰ってくる。

 そのつもりで、いる。いるはずなのに、目は、村と反対の、道の続く先を見ようとする。

「あんた、さっきから何を数えてる」

 前から、声がした。

 息が、止まった。

 護衛の人だった。振り向きもしない。歩調も変えない。道の先を見たまま。

 数えていることに気づいた人は、いままで、ひとりもいなかったのに。

「……なんでも、ないです」

 それしか言えなかった。

 その人は、ふうん、とも言わなかった。それきり、なにも聞いてこなかった。

 低い地鳴りの音が、変わらない速さで、前を歩いていく。

 あの音の下では、なにが鳴っているんだろう。

 空白なのか。沈んでいる音なのか。それとも、わたしの知らないなにかなのか。

 静かになりたいと、ずっと願ってきたのに。

 いまは、聴き取れないその音の続きが、聴きたかった。

 荷車がきしむ。車輪が石を踏む。

 道は丘を下って、わたしの知らないほうへ、まっすぐ続いていた。

(第3話・了)


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