世界を鳴らす者 第4話 なにも、聞かないでくれた
◇
村を出て、まだ半日もたっていない。
さっきから、鳥の声が、妙に遠い。気のせいだと思おうとした、そのとき。
前を行く護衛の人の背中が、止まった。
片手が、すっと上がる。
荷車が止まる。車輪の音が消えると、知らない道が、いちどに静かになった。
わたしには、なにも聞こえなかった。風と、自分の息の音だけ。
その人は、道の右手の茂みを見ていた。見ているというより、耳をそっちへ置いている。
いくつか数えるほどの静けさのあと、茂みから鳥がばらばらと飛び立って、それきりだった。
その人はなにも言わずに歩き出し、荷車がまた、きしみはじめた。
「よく気がつくだろう」
行商人が、わたしに笑いかけた。
「この人はね、道の音を聞き分けるのが、たいしたもんなんだ」
わたしは、前を行く背中を見た。
この人には、わたしに聞こえない音が聞こえている。
わたしには、この人に聴こえない音が聴こえている。
昼が近づくころには、足の裏が熱くなっていた。村の中しか歩いたことのない足は、旅の道を知らない。
「嬢ちゃん、歩きどおしで平気かい」
「……はい。たぶん」
たぶん、のところで、行商人は声を出して笑った。
名前と、音。いつもの仕事をしようにも、この道には、わたしの知っている名前がひとつもない。
世界はこんなに広いのに、数えられる音が、急に少なくなった。
◇
昼すぎ、街道ぞいの小さな集落のわきを通った。
畑で、人がふたり、働いていた。
「精が出るねえ」
行商人が声をかけた。
ふたりとも、顔を上げなかった。聞こえなかったんじゃないと思う。くわの音は、一度も途切れなかったから。
行商人は、気にするふうもなかった。
「近ごろは、どこもこうだよ。道であいさつが返ったら、運がいいほうさ」
木陰で、昼の休みになった。
母さんのパンは、最後のひと切れだった。
ふた口で終わって、ひざの上には包みの布が残った。家の匂いは、もうしなかった。
行商人は、上機嫌でしゃべっていた。
「昔はね、迷子が出たの牛が逃げたのと言っちゃあ、村じゅうで大騒ぎしたもんだ。いまは、どこも静かなもんだよ。おかげで商売はしやすいがね」
静かで、いい時代。この人は、ほんとうに、そう思っている。底になにも鳴っていないまま。
少し離れた木の下では、護衛の人の低い音が、切れ目なく鳴っている。歩いていても、休んでいても、同じ速さのまま。
その下は、きょうも聴こえない。
◇
日が傾いて、道が長い影の色になったころだった。
前の道ばたに、男の人が立っているのが見えた。
こちらに気づくと、まっすぐ歩いてくる。速い。
行商人が「どうしなすった」と声をかけた。
返事がない。目だけが、荷車のはしからはしまで、せわしなく走っている。
護衛の人が、荷車の前に出た。
立ち方が、変わった。
朝、茂みの前で止まったときと同じ耳が、こんどは人に向いていた。
「止まれ。それ以上、寄るな」
低くて、短い声だった。夕暮れの道が、張りつめた。
男の人は、止まらなかった。
その人の底の音が、わたしの耳に届いたのは、そのときだった。
鳴っていないんじゃ、なかった。逆だった。
底で、同じ音が、鳴りやまずにくり返されている。すり切れるまで、何度も、何度も。呼びすぎて、かすれた声のかたちが残ったような音。
呼んでいる。
口は、ひとことも言っていないのに。この人の底は、朝からずっと、叫びつづけていた。
聴いているわたしの喉まで、痛くなった。息を吸ったのに、吸えた気がしなかった。
気づいたら、一歩、前に出ていた。心臓が、耳のすぐ下で鳴っていた。
「あの……なにか、捜してるんですか」
男の人の足が、止まった。
わたしを見て、それから、その顔が、まん中から割れるようにゆがんだ。
「娘が」
かすれた声だった。
「朝から、娘がいないんだ。どこにもいない。村のやつらは、そのうち帰るさと言って、誰もいっしょに捜しちゃくれない。半日、ひとりで捜して歩いてる」
昔は、迷子が出たと言えば村じゅうで大騒ぎした――昼間のあの話の続きが、夕暮れの道に立っていた。
荷の縄を締め直していた行商人が、なんでもないふうに言った。
「子ども? ああ、女の子なら、昼すぎに見たよ。道の脇に泉があったろう。あの木の下で、丸くなって寝てたがね」
男の人の顔が、上がった。
泉はどこだ。ここから近いのか。続けざまに聞いて、行商人がのんびり答え終わるより先に、走り出していた。
礼は、道の途中から、振り向かないまま飛んできた。
足音が遠ざかっていく。あのすり切れた音も、小さくなって、聴こえなくなった。最後まで、呼びながら走っていった。
夕暮れの静けさが戻っても、わたしはその場に立っていた。ひざの後ろが、こまかくふるえていた。
護衛の人が、立ち方を解いた。まちがってはいない。呼びかけに答えない人を止めるのが、仕事だから。
行商人は、縄の続きを締めている。
「見てたなら……」
言いかけて、やめた。
言いかけた先を、自分で見てしまったから。
この人は、隠していたんじゃない。子どもが木の下で寝ていた。それきりのことだった。聞かれなかったから、言わなかった。誰かに言う理由が、この人の底には、もう残っていない。
悪気は、どこにもない。
どこにもないことの冷たさを、わたしは初めて、道の上で見た。
◇
その夜は、道から少し入った草地で、たき火をした。
行商人は、夕飯のあとすぐ、荷台で眠ってしまった。
火をはさんで、護衛の人とわたしが残った。
耳の奥には、まだ夕方の音が残っていた。聴いた音は、勝手に消えてはくれない。いつものことだ。慣れた、とは、いかないけれど。
ぱち、と火の中で枝がはぜた。
それとは別の、乾いた小さな音が、闇の奥で鳴った。
枝の折れる音。
顔を上げたときには、護衛の人はもう立って、闇のほうを向いていた。いつ立ったのか、音もしなかった。
しばらくして、戻ってきた。
「鹿だ」
それだけ言って、座った。
かかえたひざに、あごをのせた。
あんなに小さな音で、この人は、体が先に動く。
なのに、夕方のあの人のときは。
言うつもりのなかったことが、口から出た。
「……夕方の、あの人」
「ん」
「あの人、ずっと呼んでたんだと思う。声に、出す前から」
力の話は、しなかった。どう聴こえたのかも。
護衛の人は、火を見たまま、しばらく黙っていた。
「……そうか」
枝が一本、火の中で崩れた。
「俺には、分からなかった」
それから、ひとりごとみたいに、つけ足した。
「枝の折れる音なら、寝ていても分かるんだがな」
自分を笑うのでも、悔やむのでもない。ただ、火のそばに事実をひとつ置く言い方だった。
枝の折れる音には、寝ていても動く体。
人の底の叫びには、届かない耳。
なにか言えば、この人の底に、ことばで触ってしまう気がして、黙っていた。
それから、いつもの癖で、地鳴りを聴いた。
夕方、あの張りつめた道の上でも。いま、火のそばに座っていても。
低い音は、同じ速さ、同じ深さで鳴りつづけている。
変わらない音は、なんだか、立ちつづけている人みたいだった。
座っているのに、この人の底は、まだ立っている。
上着のポケットの上から、木のスプーンのかたちを、指でたしかめた。
村を出て、まだ一日しかたっていなかった。
「隣村から先は、どうする」
ふいに、聞かれた。
答えは、出てこなかった。帰る、とも。行く、とも。
その人は返事を待たずに、火に枝を一本足した。その話は、それで終わりだった。
◇
次の日の昼すぎに、隣村に着いた。
聞いていたより、ずっと大きな村だった。家が多い。道が広い。通りを歩く人も多い。
なのに、村の入口で、足が止まった。
音が、薄い。
数えるまでもなかった。ことばの下で鳴っている音をぜんぶ合わせても、うちの村の朝より薄い。
家が多くて、音が少ない。
静かになっていくのは、村の外のほうが先なのだ。
広場で、行商人は顔なじみの商人の隊と落ち合った。南へ戻るのだという。
「じゃあな、嬢ちゃん。達者でな」
別れは、あっさりしていた。
わたしは最後に一度、あの人の底を聴いた。
いちばん深いところで、遠い雨の音が、まだ鳴っていた。浮かんでは、こなかった。でも、消えてもいなかった。
聴いて、覚えて、そこまでにした。名前を知らない人だから、音のほうを、胸の奥にしまった。
宿は、行商人が頼んでおいてくれた、広場のはずれの古い宿だった。
宿のおばさんは、部屋を教えるついでに、世間話をした。
「来月の祭り? ああ……今年は、どうかねえ。仕度をする者が、集まらなくてねえ」
手も止めずに、言った。
耳の奥で、テオの声がした。来月、隣村でお祭りがあるんだって。
あの日――テオの底の音が消えた日に聞いた祭りが、その隣村で、静かに消えかけていた。
おばさんは、もう次の話をしていた。この村の誰も、それを大ごとだと思っていないみたいだった。
夕方、広場のはしで、護衛の人が荷を背負い直していた。
次の仕事を探しに、あした先の土地へ発つのだと、行商人から聞いていた。
帰る道と、先へ行く道。
わたしの捜しものは、この村にはなさそうだった。
もう少し、先へ。帰らないと決めたわけじゃない。ただ、あと少し。
わたしは、その人の前に立った。
「あの。次の村まで、いっしょに行かせてください」
その人は、荷ひもの手を止めて、こちらをまっすぐ見た。
断られる、と思った。連れて歩く理由なんて、この人にはひとつもない。
「条件がある」
返ってきたのは、それだった。
「道で人に会ったら、あんたの目で見ろ。俺には見えないものが、あんたには見えるらしい」
夕暮れの道のことを、言っているのだった。
この人は、わたしの耳を、目だと思っている。ちがいます、とは言わなかった。
「それから、もうひとつ」
荷ひもを締め直しながら、こともなげに、その人は言った。
「あんたが何を数えてるのかは、聞かない。あんたも、俺のことは聞くな」
それきりだった。約束とも、取引とも言わない。頭を下げるのも、ちがう気がして、わたしはただ、はい、と答えた。
「リィナです」
歩き出した背中に、名前を言った。
少し間があって、前を向いたまま返ってきた。
「ウィルだ」
名前と、音。知らない村の夕方に、覚えるものが、ひとつ増えた。
なにも、聞かないでくれた。どこから来たのかも、なんのために先へ行くのかも、なにを数えているのかも。
聞かれていたら、きっと、なにか嘘を答えていた。嘘を用意しなくていい道は、息の吸い方がちがった。
引き止められもせず、問い詰められもせず、ただ、少し先を歩く背中がある。
それだけのことが、わたしには、初めてだった。
日が落ちて、通りに灯りがともりはじめた。
灯りは、思ったより少なかった。家はこんなにあるのに、ともる窓と、ともらないままの窓がある。
ともらない窓の中からも、話し声はしていた。人はいるのに、灯りをつけるほどのことが、ないらしかった。
広場には、来月が祭りだというのに、その仕度らしいものが、なにひとつ見あたらなかった。
前を行く地鳴りは、今夜も、変わらない速さで鳴っている。
この薄い音の村で、あした、わたしはなにを聴くんだろう。
あの音の下で鳴っているものに、いつか、届く日は来るんだろうか。
暗くなっていく通りに、二人分の足音が、はっきりと鳴っていた。
(第4話・了)
