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世界を鳴らす者 第4話 なにも、聞かないでくれた

 村を出て、まだ半日もたっていない。

 さっきから、鳥の声が、妙に遠い。気のせいだと思おうとした、そのとき。

 前を行く護衛の人の背中が、止まった。

 片手が、すっと上がる。

 荷車が止まる。車輪の音が消えると、知らない道が、いちどに静かになった。

 わたしには、なにも聞こえなかった。風と、自分の息の音だけ。

 その人は、道の右手の茂みを見ていた。見ているというより、耳をそっちへ置いている。

 いくつか数えるほどの静けさのあと、茂みから鳥がばらばらと飛び立って、それきりだった。

 その人はなにも言わずに歩き出し、荷車がまた、きしみはじめた。

「よく気がつくだろう」

 行商人が、わたしに笑いかけた。

「この人はね、道の音を聞き分けるのが、たいしたもんなんだ」

 わたしは、前を行く背中を見た。

 この人には、わたしに聞こえない音が聞こえている。

 わたしには、この人に聴こえない音が聴こえている。

 昼が近づくころには、足の裏が熱くなっていた。村の中しか歩いたことのない足は、旅の道を知らない。

「嬢ちゃん、歩きどおしで平気かい」

「……はい。たぶん」

 たぶん、のところで、行商人は声を出して笑った。

 名前と、音。いつもの仕事をしようにも、この道には、わたしの知っている名前がひとつもない。

 世界はこんなに広いのに、数えられる音が、急に少なくなった。

 昼すぎ、街道ぞいの小さな集落のわきを通った。

 畑で、人がふたり、働いていた。

「精が出るねえ」

 行商人が声をかけた。

 ふたりとも、顔を上げなかった。聞こえなかったんじゃないと思う。くわの音は、一度も途切れなかったから。

 行商人は、気にするふうもなかった。

「近ごろは、どこもこうだよ。道であいさつが返ったら、運がいいほうさ」

 木陰で、昼の休みになった。

 母さんのパンは、最後のひと切れだった。

 ふた口で終わって、ひざの上には包みの布が残った。家の匂いは、もうしなかった。

 行商人は、上機嫌でしゃべっていた。

「昔はね、迷子が出たの牛が逃げたのと言っちゃあ、村じゅうで大騒ぎしたもんだ。いまは、どこも静かなもんだよ。おかげで商売はしやすいがね」

 静かで、いい時代。この人は、ほんとうに、そう思っている。底になにも鳴っていないまま。

 少し離れた木の下では、護衛の人の低い音が、切れ目なく鳴っている。歩いていても、休んでいても、同じ速さのまま。

 その下は、きょうも聴こえない。

 日が傾いて、道が長い影の色になったころだった。

 前の道ばたに、男の人が立っているのが見えた。

 こちらに気づくと、まっすぐ歩いてくる。速い。

 行商人が「どうしなすった」と声をかけた。

 返事がない。目だけが、荷車のはしからはしまで、せわしなく走っている。

 護衛の人が、荷車の前に出た。

 立ち方が、変わった。

 朝、茂みの前で止まったときと同じ耳が、こんどは人に向いていた。

「止まれ。それ以上、寄るな」

 低くて、短い声だった。夕暮れの道が、張りつめた。

 男の人は、止まらなかった。

 その人の底の音が、わたしの耳に届いたのは、そのときだった。

 鳴っていないんじゃ、なかった。逆だった。

 底で、同じ音が、鳴りやまずにくり返されている。すり切れるまで、何度も、何度も。呼びすぎて、かすれた声のかたちが残ったような音。

 呼んでいる。

 口は、ひとことも言っていないのに。この人の底は、朝からずっと、叫びつづけていた。

 聴いているわたしの喉まで、痛くなった。息を吸ったのに、吸えた気がしなかった。

 気づいたら、一歩、前に出ていた。心臓が、耳のすぐ下で鳴っていた。

「あの……なにか、捜してるんですか」

 男の人の足が、止まった。

 わたしを見て、それから、その顔が、まん中から割れるようにゆがんだ。

「娘が」

 かすれた声だった。

「朝から、娘がいないんだ。どこにもいない。村のやつらは、そのうち帰るさと言って、誰もいっしょに捜しちゃくれない。半日、ひとりで捜して歩いてる」

 昔は、迷子が出たと言えば村じゅうで大騒ぎした――昼間のあの話の続きが、夕暮れの道に立っていた。

 荷の縄を締め直していた行商人が、なんでもないふうに言った。

「子ども? ああ、女の子なら、昼すぎに見たよ。道の脇に泉があったろう。あの木の下で、丸くなって寝てたがね」

 男の人の顔が、上がった。

 泉はどこだ。ここから近いのか。続けざまに聞いて、行商人がのんびり答え終わるより先に、走り出していた。

 礼は、道の途中から、振り向かないまま飛んできた。

 足音が遠ざかっていく。あのすり切れた音も、小さくなって、聴こえなくなった。最後まで、呼びながら走っていった。

 夕暮れの静けさが戻っても、わたしはその場に立っていた。ひざの後ろが、こまかくふるえていた。

 護衛の人が、立ち方を解いた。まちがってはいない。呼びかけに答えない人を止めるのが、仕事だから。

 行商人は、縄の続きを締めている。

「見てたなら……」

 言いかけて、やめた。

 言いかけた先を、自分で見てしまったから。

 この人は、隠していたんじゃない。子どもが木の下で寝ていた。それきりのことだった。聞かれなかったから、言わなかった。誰かに言う理由が、この人の底には、もう残っていない。

 悪気は、どこにもない。

 どこにもないことの冷たさを、わたしは初めて、道の上で見た。

 その夜は、道から少し入った草地で、たき火をした。

 行商人は、夕飯のあとすぐ、荷台で眠ってしまった。

 火をはさんで、護衛の人とわたしが残った。

 耳の奥には、まだ夕方の音が残っていた。聴いた音は、勝手に消えてはくれない。いつものことだ。慣れた、とは、いかないけれど。

 ぱち、と火の中で枝がはぜた。

 それとは別の、乾いた小さな音が、闇の奥で鳴った。

 枝の折れる音。

 顔を上げたときには、護衛の人はもう立って、闇のほうを向いていた。いつ立ったのか、音もしなかった。

 しばらくして、戻ってきた。

「鹿だ」

 それだけ言って、座った。

 かかえたひざに、あごをのせた。

 あんなに小さな音で、この人は、体が先に動く。

 なのに、夕方のあの人のときは。

 言うつもりのなかったことが、口から出た。

「……夕方の、あの人」

「ん」

「あの人、ずっと呼んでたんだと思う。声に、出す前から」

 力の話は、しなかった。どう聴こえたのかも。

 護衛の人は、火を見たまま、しばらく黙っていた。

「……そうか」

 枝が一本、火の中で崩れた。

「俺には、分からなかった」

 それから、ひとりごとみたいに、つけ足した。

「枝の折れる音なら、寝ていても分かるんだがな」

 自分を笑うのでも、悔やむのでもない。ただ、火のそばに事実をひとつ置く言い方だった。

 枝の折れる音には、寝ていても動く体。

 人の底の叫びには、届かない耳。

 なにか言えば、この人の底に、ことばで触ってしまう気がして、黙っていた。

 それから、いつもの癖で、地鳴りを聴いた。

 夕方、あの張りつめた道の上でも。いま、火のそばに座っていても。

 低い音は、同じ速さ、同じ深さで鳴りつづけている。

 変わらない音は、なんだか、立ちつづけている人みたいだった。

 座っているのに、この人の底は、まだ立っている。

 上着のポケットの上から、木のスプーンのかたちを、指でたしかめた。

 村を出て、まだ一日しかたっていなかった。

「隣村から先は、どうする」

 ふいに、聞かれた。

 答えは、出てこなかった。帰る、とも。行く、とも。

 その人は返事を待たずに、火に枝を一本足した。その話は、それで終わりだった。

 次の日の昼すぎに、隣村に着いた。

 聞いていたより、ずっと大きな村だった。家が多い。道が広い。通りを歩く人も多い。

 なのに、村の入口で、足が止まった。

 音が、薄い。

 数えるまでもなかった。ことばの下で鳴っている音をぜんぶ合わせても、うちの村の朝より薄い。

 家が多くて、音が少ない。

 静かになっていくのは、村の外のほうが先なのだ。

 広場で、行商人は顔なじみの商人の隊と落ち合った。南へ戻るのだという。

「じゃあな、嬢ちゃん。達者でな」

 別れは、あっさりしていた。

 わたしは最後に一度、あの人の底を聴いた。

 いちばん深いところで、遠い雨の音が、まだ鳴っていた。浮かんでは、こなかった。でも、消えてもいなかった。

 聴いて、覚えて、そこまでにした。名前を知らない人だから、音のほうを、胸の奥にしまった。

 宿は、行商人が頼んでおいてくれた、広場のはずれの古い宿だった。

 宿のおばさんは、部屋を教えるついでに、世間話をした。

「来月の祭り? ああ……今年は、どうかねえ。仕度をする者が、集まらなくてねえ」

 手も止めずに、言った。

 耳の奥で、テオの声がした。来月、隣村でお祭りがあるんだって。

 あの日――テオの底の音が消えた日に聞いた祭りが、その隣村で、静かに消えかけていた。

 おばさんは、もう次の話をしていた。この村の誰も、それを大ごとだと思っていないみたいだった。

 夕方、広場のはしで、護衛の人が荷を背負い直していた。

 次の仕事を探しに、あした先の土地へ発つのだと、行商人から聞いていた。

 帰る道と、先へ行く道。

 わたしの捜しものは、この村にはなさそうだった。

 もう少し、先へ。帰らないと決めたわけじゃない。ただ、あと少し。

 わたしは、その人の前に立った。

「あの。次の村まで、いっしょに行かせてください」

 その人は、荷ひもの手を止めて、こちらをまっすぐ見た。

 断られる、と思った。連れて歩く理由なんて、この人にはひとつもない。

「条件がある」

 返ってきたのは、それだった。

「道で人に会ったら、あんたの目で見ろ。俺には見えないものが、あんたには見えるらしい」

 夕暮れの道のことを、言っているのだった。

 この人は、わたしの耳を、目だと思っている。ちがいます、とは言わなかった。

「それから、もうひとつ」

 荷ひもを締め直しながら、こともなげに、その人は言った。

「あんたが何を数えてるのかは、聞かない。あんたも、俺のことは聞くな」

 それきりだった。約束とも、取引とも言わない。頭を下げるのも、ちがう気がして、わたしはただ、はい、と答えた。

「リィナです」

 歩き出した背中に、名前を言った。

 少し間があって、前を向いたまま返ってきた。

「ウィルだ」

 名前と、音。知らない村の夕方に、覚えるものが、ひとつ増えた。

 なにも、聞かないでくれた。どこから来たのかも、なんのために先へ行くのかも、なにを数えているのかも。

 聞かれていたら、きっと、なにか嘘を答えていた。嘘を用意しなくていい道は、息の吸い方がちがった。

 引き止められもせず、問い詰められもせず、ただ、少し先を歩く背中がある。

 それだけのことが、わたしには、初めてだった。

 日が落ちて、通りに灯りがともりはじめた。

 灯りは、思ったより少なかった。家はこんなにあるのに、ともる窓と、ともらないままの窓がある。

 ともらない窓の中からも、話し声はしていた。人はいるのに、灯りをつけるほどのことが、ないらしかった。

 広場には、来月が祭りだというのに、その仕度らしいものが、なにひとつ見あたらなかった。

 前を行く地鳴りは、今夜も、変わらない速さで鳴っている。

 この薄い音の村で、あした、わたしはなにを聴くんだろう。

 あの音の下で鳴っているものに、いつか、届く日は来るんだろうか。

 暗くなっていく通りに、二人分の足音が、はっきりと鳴っていた。

(第4話・了)


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