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世界を鳴らす者 第1話 あなたの音が、聞こえなくなった

【あらすじ】 「雑音持ち」と呼ばれ、村で疎まれてきた少女リィナには、人の声の奥に鳴る「本音の響き」だけが聴こえる。誰にも信じてもらえないまま独りで抱えてきたその耳が、ある日、村でただ一人やさしかった幼馴染テオの声から、いつもの音が消えていることに気づく。言葉はいつも通り。笑顔もいつも通り。なのに、いちばん奥の音だけが、返ってこない。気づいたのは、わたしだけ――。静かな喪失から始まる、聴いて、憶えている者の物語。

 朝は、匂いより先に音が来る。

 井戸の滑車がきしむ。鶏が鳴く。誰かの足音が、乾いた土を踏む。

 そこまでは、いい。

 そこから先の音は――聴こえないほうが、よかった。

 窓の外の朝焼けは、絵の具を水でうんと薄めたような色だった。

 この村の色は、いつも少しだけ薄い。ずっとそうだった気もするし、そうじゃなかった気もする。

「おはよう、リィナ」

 パン屋のおばさんの声は、焼きたてのパンみたいに温かかった。

 でも、その下で別の音が鳴っている。

 ざり、と砂を噛むような音。

 声と、声の底の音。

 ふたつは、いつも同じじゃない。

 おばさんはたぶん、昨日の夜のことをまだ怒っている。誰に、何を、までは分からない。分かりたくもない。

 それはおばさんだけの音で、わたしが聴いていい音じゃないから。

「……おはようございます」

 目を合わせないまま頭を下げて、足を速めた。

 通りには人が増えはじめていた。

 おはよう。いい天気ね。今日も暑くなるよ。

 言葉は軽い。でも、底の音はそれぞれ勝手に鳴っている。

 疲れた音。浮かれた音。寂しさを薄くのばしたような音。

 誰も気づかない。鳴らしている本人さえ。

 聴こえるのは、わたしだけ。

 いつからかは、覚えていない。物心ついたときには、言葉の下でもうひとつの音が鳴っていた。

 小さいころは、みんなにも聴こえていると思っていた。だから、そのまま口にした。

 おばあちゃん、ほんとは痛いんでしょ。おじさん、うれしいのに怒った声を出してる。

 そのたびに大人の顔が変な形に固まることを、わたしは少しずつ覚えた。

 人の多い場所は、わたしには少しうるさすぎる。

 耳を塞いでも、あの音は骨の内側から入ってくる。だから塞がない。塞いでも無駄だと、ずっと前から知っている。

 かわりに、道の石を数える。一、二、三。

 石は音を持たない。石を数えているあいだは、頭の中が少し静かになる。

 静かになりたい。

 いつもの願いごとを、いつものように飲み込んだ。

 広場の井戸には、朝の水汲みの列ができる。

 わたしの番が来るまで、少し離れた壁際で待つ。それが決まりだ。誰が決めたわけでもないけれど、そういうことになっている。

 列の先で、若い奥さんが笑っていた。

「うちの人ったら、また夜中まで飲んで帰ってこないの」

 まわりが笑う。奥さんも笑う。よくある朝の立ち話。

 でも、その声の底で、細い音が鳴っていた。

 張りつめた糸を、爪の先ではじくような音。

 笑い声のかたちをした、泣き声みたいな音。

 ――この人、ほんとうは。

「あの……大丈夫、ですか」

 気づいたら、声が出ていた。

 列が、静かになった。桶の水音だけが残って、それも止んだ。

 奥さんの目が、わたしを見る。

「なにが?」

「その……無理して笑ってる、みたいな音がしたから」

 音、と言った瞬間、空気が変わった。

 またあの子だ、という空気。

 奥さんの音が、細い糸から、おびえた鳥に変わる。まわりの音がいっせいに固くなる。

 それは言葉より、ずっとはっきり聴こえた。

「やめてよ、気味の悪い」

「雑音持ちに何が分かるのよ」

 雑音持ち。

 わたしの呼び名だ。もう、名前よりずっと呼ばれ慣れた。

 ちがう。雑音じゃない。あなたたちの声の底で鳴ってる、ほんとうの音だ。

 ――そう言えたことは、一度もない。言えばよけいに遠ざかることを、わたしはもう十分すぎるくらい知っている。

「……ごめんなさい」

 桶を壁際に置いたまま、列を離れた。水は汲めなかった。

 背中でひそひそ声がした。ひそひそ声の底は、ひそひそよりずっと大きい。

 関わっちゃだめ。あの子はああいう子だから。

 聞き慣れた音たちが、朝の光の中で束になって鳴る。

 広場を抜けるまで、わたしは石を数えつづけた。十七、十八。

 数え終わる前に涙が出ないでくれて、よかったと思った。

 村はずれの木工小屋は、村でいちばん静かな場所だ。

「リィナ。来ると思った」

 テオは削りかけの木のスプーンから顔を上げて、隣の丸椅子をあごで示した。

 同い年の幼馴染。この村でわたしを名前で呼ぶのは、もう、テオだけだ。

「水、汲めなかったんでしょ。さっき水汲みのおばさんたちが、すごい早口で通ってったから」

「……うん」

「はい」

 差し出された水差しは、よく冷えていた。ひと口ぶんの冷たさが、喉を通って胸まで落ちる。

 土の匂い。木くずの匂い。開けた窓から風が入って、床の削りくずを少し転がしていく。

 テオの声は、いつも、底の音と言葉が同じ高さで鳴っている。

 裏がない、というのとも違う。あたたかい音が、あたたかい言葉のまま出てくる。

 ただそれだけのことが、この村では、もうめったにない。

 みんながわたしを雑音持ちと呼ぶようになったあとも、テオだけは呼び方を変えなかった。

 理由を聞いたことがある。テオは手元の木を見たまま、言った。

 だってリィナはリィナじゃん。

 それだけだった。それだけのことを、わたしはたぶん、一生忘れない。

 だからきっと、わたしの世界は、この小屋と、それ以外のぜんぶで、できている。

「今日はスプーンを六本つくる。隣村から注文が来たんだ」

「六本も?」

「多いでしょ。だから手伝って。……嘘。座って見てるだけでいいよ。リィナがいると、なんか手が進むから」

 ここでは、黙っていても大丈夫だった。

 話したければ話して、話したくなければ、小刀の音を聞いていればいい。

 黙っていることを変に思われない場所は、わたしにはここしかない。

 テオの手が動く。小刀が木をうすく削る。

 しゅ、しゅ、と規則正しい音がして、その下で、テオの音が静かに鳴っている。

 まるい音。暖炉の残り火みたいな音。近くにいると、かじかんだ指がゆっくりほどけていくような音。

 わたしはそれを、世界でいちばんきれいな音だと思っている。

 言ったことは、ないけれど。

 言ったら、テオはどんな顔をするだろう。たまにそこまで考えて、そのたびにやめる。

 この小屋の静けさは、たぶん、そういう言葉をひとつ足さないことで、できている。

 風が、止んだ。

 床の削りくずが転がるのをやめて、小屋の光が一段だけ暗くなった。

 雲が太陽を渡っただけ。それだけの、はずだった。

「――でさ、来月、隣村でお祭りがあるんだって。スプーンを届けるついでに」

 テオはしゃべりつづけている。声も、言葉も、さっきの続きのまま。

 なのに。

 底の音が、しない。

 しゅ、と小刀の音がする。窓の外で鳥が鳴く。テオの声も、ちゃんと聞こえる。

 なにひとつ欠けていないのに、いちばん奥のあの音だけが、すっぽりと抜け落ちている。

「テオ」

「ん?」

「いま……なんか、変じゃなかった?」

「なにが? ああ、風やんだね。今日は蒸すなあ」

 違う。そうじゃない。

 わたしはひざの上で、水差しを両手で持ち直した。冷たさが、さっきより遠い。

「お祭り、行くの?」

「行くよ。届け物のついでだし。屋台も出るらしいよ」

「そう、なんだ」

「なに、リィナも行きたい?」

 言葉は返ってくる。ちゃんと、会話になっている。

 テオはテオの話し方で、テオの言いそうなことを言う。

 なのに、井戸の底に石を落としたときみたいに、いつまで待っても、いちばん下から何も上がってこない。

 もう一度、耳をすます。

 テオの声。テオの言葉。テオの笑い方。ぜんぶ、いつも通りにそこにある。

 あるのに、返ってこない。

 呼びかければ当たり前に返ってきた、あのまるい音だけが、どこにもない。

「ねえ、テオ。あのね」

「ん?」

「……ううん。なんでもない」

 名前の先が、続けられなかった。

 あなたの音が消えてる――言ってしまったら、それがほんとうになる気がした。

「変なリィナ」

 テオは笑って、スプーン削りに戻った。

 その笑顔は、前とまったく同じかたちをしていた。

 同じかたちのまま、空っぽだった。

 小屋を出るとき、戸口で一度だけ振り返った。

「またね、リィナ」

 言葉は、届いた。

 音は、返ってこなかった。

 日が落ちるまで、小屋の近くを何度も行ったり来たりした。

 夕方にもう一度だけ声をかけて、返ってくるのが言葉だけなのを確かめて、それでも認めたくなくて。

 結局その夜、わたしは村長の家の戸を叩いた。

「テオの様子が、変なんです」

 出てきた村長の奥さんは、ろうそくを持ったまま眉を寄せた。

「変って、なにが。夕方、うちにスプーンの見本を届けに来たよ。元気そうだったけどね」

「声が……声の奥の音が。テオの音が、消えてて」

「音?」

 奥さんの底で、うんざりした音が鳴った。ああ、はいはい、いつものあれ、という音。

「あんたのその話は、もういいから。テオはなんともないの。ね、帰って寝なさい」

 戸が閉まる。

 閉まった戸の前で、しばらく動けなかった。

 叩き直すことも、大声を出すことも、できたはずなのに、しなかった。

 したところで、と考える自分がいちばん嫌だった。

 分かっていた。ずっとそうだった。

 わたしの聴いている音は、この村では最初から、ないことになっている。

 テオのことだって、雑音持ちのたわごとがひとつ増えただけ。そういうふうに、片づけられていく。

 帰り道、村は夕飯どきの声で満ちていた。

 窓の明かり。笑い声。子どもを呼ぶ母親の声。

 立ち止まって、耳をすます。

 ――薄い。

 気のせいだと思おうとした。でも、聴き分けてしまう。

 パン屋のおばさんの音も、井戸端の奥さんの音も、今朝より少しだけ、遠い。

 誰かが灯りを、ひとつずつ消していくみたいに。

 消えたのは、テオだけじゃないのかもしれない。

 夜空は晴れていた。星のあいだで、風が鳴っていた。

 虫の声がして、遠くで犬が吠えて、どこかの家の戸が閉まる。

 世界はこんなに音でいっぱいなのに、いちばん大事な音から順番に、静かになっていく。

 朝、パン屋の前で思ったことを、思い出す。

 この村の色は、いつも少しだけ薄い。ずっとそうだった気もするし、そうじゃなかった気もする。

 ――あれは「気のせい」じゃないのかもしれない。

 音が遠くなるのと同じ速さで、色も、少しずつ薄くなっているのだとしたら。

 テオの、あのまるい音。

 わたしだけが知っていて、わたしだけが、なくなったことを知っている音。

 返してほしい。ううん、違う。

 戻したい。

 でも、どうやって?

 問いだけが、夜の中に残った。

 星は、音を立てなかった。

 そのとき。

 遠くの家から、笑い声が聞こえた。にぎやかで、楽しそうな、いつもの夜の声。

 その底で、ふつり、と糸の切れる感じがした。

 いま。いま、また一つ、消えた。

 テオだけじゃ、ない。もう、始まっている。

 わたしは夜の下で、あの音を、何度も思い出した。

 忘れないように。

 わたしまで、忘れてしまわないように。

(第1話・了)

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