世界を鳴らす者 第1話 あなたの音が、聞こえなくなった
【あらすじ】 「雑音持ち」と呼ばれ、村で疎まれてきた少女リィナには、人の声の奥に鳴る「本音の響き」だけが聴こえる。誰にも信じてもらえないまま独りで抱えてきたその耳が、ある日、村でただ一人やさしかった幼馴染テオの声から、いつもの音が消えていることに気づく。言葉はいつも通り。笑顔もいつも通り。なのに、いちばん奥の音だけが、返ってこない。気づいたのは、わたしだけ――。静かな喪失から始まる、聴いて、憶えている者の物語。
◇
朝は、匂いより先に音が来る。
井戸の滑車がきしむ。鶏が鳴く。誰かの足音が、乾いた土を踏む。
そこまでは、いい。
そこから先の音は――聴こえないほうが、よかった。
窓の外の朝焼けは、絵の具を水でうんと薄めたような色だった。
この村の色は、いつも少しだけ薄い。ずっとそうだった気もするし、そうじゃなかった気もする。
「おはよう、リィナ」
パン屋のおばさんの声は、焼きたてのパンみたいに温かかった。
でも、その下で別の音が鳴っている。
ざり、と砂を噛むような音。
声と、声の底の音。
ふたつは、いつも同じじゃない。
おばさんはたぶん、昨日の夜のことをまだ怒っている。誰に、何を、までは分からない。分かりたくもない。
それはおばさんだけの音で、わたしが聴いていい音じゃないから。
「……おはようございます」
目を合わせないまま頭を下げて、足を速めた。
通りには人が増えはじめていた。
おはよう。いい天気ね。今日も暑くなるよ。
言葉は軽い。でも、底の音はそれぞれ勝手に鳴っている。
疲れた音。浮かれた音。寂しさを薄くのばしたような音。
誰も気づかない。鳴らしている本人さえ。
聴こえるのは、わたしだけ。
いつからかは、覚えていない。物心ついたときには、言葉の下でもうひとつの音が鳴っていた。
小さいころは、みんなにも聴こえていると思っていた。だから、そのまま口にした。
おばあちゃん、ほんとは痛いんでしょ。おじさん、うれしいのに怒った声を出してる。
そのたびに大人の顔が変な形に固まることを、わたしは少しずつ覚えた。
人の多い場所は、わたしには少しうるさすぎる。
耳を塞いでも、あの音は骨の内側から入ってくる。だから塞がない。塞いでも無駄だと、ずっと前から知っている。
かわりに、道の石を数える。一、二、三。
石は音を持たない。石を数えているあいだは、頭の中が少し静かになる。
静かになりたい。
いつもの願いごとを、いつものように飲み込んだ。
◇
広場の井戸には、朝の水汲みの列ができる。
わたしの番が来るまで、少し離れた壁際で待つ。それが決まりだ。誰が決めたわけでもないけれど、そういうことになっている。
列の先で、若い奥さんが笑っていた。
「うちの人ったら、また夜中まで飲んで帰ってこないの」
まわりが笑う。奥さんも笑う。よくある朝の立ち話。
でも、その声の底で、細い音が鳴っていた。
張りつめた糸を、爪の先ではじくような音。
笑い声のかたちをした、泣き声みたいな音。
――この人、ほんとうは。
「あの……大丈夫、ですか」
気づいたら、声が出ていた。
列が、静かになった。桶の水音だけが残って、それも止んだ。
奥さんの目が、わたしを見る。
「なにが?」
「その……無理して笑ってる、みたいな音がしたから」
音、と言った瞬間、空気が変わった。
またあの子だ、という空気。
奥さんの音が、細い糸から、おびえた鳥に変わる。まわりの音がいっせいに固くなる。
それは言葉より、ずっとはっきり聴こえた。
「やめてよ、気味の悪い」
「雑音持ちに何が分かるのよ」
雑音持ち。
わたしの呼び名だ。もう、名前よりずっと呼ばれ慣れた。
ちがう。雑音じゃない。あなたたちの声の底で鳴ってる、ほんとうの音だ。
――そう言えたことは、一度もない。言えばよけいに遠ざかることを、わたしはもう十分すぎるくらい知っている。
「……ごめんなさい」
桶を壁際に置いたまま、列を離れた。水は汲めなかった。
背中でひそひそ声がした。ひそひそ声の底は、ひそひそよりずっと大きい。
関わっちゃだめ。あの子はああいう子だから。
聞き慣れた音たちが、朝の光の中で束になって鳴る。
広場を抜けるまで、わたしは石を数えつづけた。十七、十八。
数え終わる前に涙が出ないでくれて、よかったと思った。
◇
村はずれの木工小屋は、村でいちばん静かな場所だ。
「リィナ。来ると思った」
テオは削りかけの木のスプーンから顔を上げて、隣の丸椅子をあごで示した。
同い年の幼馴染。この村でわたしを名前で呼ぶのは、もう、テオだけだ。
「水、汲めなかったんでしょ。さっき水汲みのおばさんたちが、すごい早口で通ってったから」
「……うん」
「はい」
差し出された水差しは、よく冷えていた。ひと口ぶんの冷たさが、喉を通って胸まで落ちる。
土の匂い。木くずの匂い。開けた窓から風が入って、床の削りくずを少し転がしていく。
テオの声は、いつも、底の音と言葉が同じ高さで鳴っている。
裏がない、というのとも違う。あたたかい音が、あたたかい言葉のまま出てくる。
ただそれだけのことが、この村では、もうめったにない。
みんながわたしを雑音持ちと呼ぶようになったあとも、テオだけは呼び方を変えなかった。
理由を聞いたことがある。テオは手元の木を見たまま、言った。
だってリィナはリィナじゃん。
それだけだった。それだけのことを、わたしはたぶん、一生忘れない。
だからきっと、わたしの世界は、この小屋と、それ以外のぜんぶで、できている。
「今日はスプーンを六本つくる。隣村から注文が来たんだ」
「六本も?」
「多いでしょ。だから手伝って。……嘘。座って見てるだけでいいよ。リィナがいると、なんか手が進むから」
ここでは、黙っていても大丈夫だった。
話したければ話して、話したくなければ、小刀の音を聞いていればいい。
黙っていることを変に思われない場所は、わたしにはここしかない。
テオの手が動く。小刀が木をうすく削る。
しゅ、しゅ、と規則正しい音がして、その下で、テオの音が静かに鳴っている。
まるい音。暖炉の残り火みたいな音。近くにいると、かじかんだ指がゆっくりほどけていくような音。
わたしはそれを、世界でいちばんきれいな音だと思っている。
言ったことは、ないけれど。
言ったら、テオはどんな顔をするだろう。たまにそこまで考えて、そのたびにやめる。
この小屋の静けさは、たぶん、そういう言葉をひとつ足さないことで、できている。
◇
風が、止んだ。
床の削りくずが転がるのをやめて、小屋の光が一段だけ暗くなった。
雲が太陽を渡っただけ。それだけの、はずだった。
「――でさ、来月、隣村でお祭りがあるんだって。スプーンを届けるついでに」
テオはしゃべりつづけている。声も、言葉も、さっきの続きのまま。
なのに。
底の音が、しない。
しゅ、と小刀の音がする。窓の外で鳥が鳴く。テオの声も、ちゃんと聞こえる。
なにひとつ欠けていないのに、いちばん奥のあの音だけが、すっぽりと抜け落ちている。
「テオ」
「ん?」
「いま……なんか、変じゃなかった?」
「なにが? ああ、風やんだね。今日は蒸すなあ」
違う。そうじゃない。
わたしはひざの上で、水差しを両手で持ち直した。冷たさが、さっきより遠い。
「お祭り、行くの?」
「行くよ。届け物のついでだし。屋台も出るらしいよ」
「そう、なんだ」
「なに、リィナも行きたい?」
言葉は返ってくる。ちゃんと、会話になっている。
テオはテオの話し方で、テオの言いそうなことを言う。
なのに、井戸の底に石を落としたときみたいに、いつまで待っても、いちばん下から何も上がってこない。
もう一度、耳をすます。
テオの声。テオの言葉。テオの笑い方。ぜんぶ、いつも通りにそこにある。
あるのに、返ってこない。
呼びかければ当たり前に返ってきた、あのまるい音だけが、どこにもない。
「ねえ、テオ。あのね」
「ん?」
「……ううん。なんでもない」
名前の先が、続けられなかった。
あなたの音が消えてる――言ってしまったら、それがほんとうになる気がした。
「変なリィナ」
テオは笑って、スプーン削りに戻った。
その笑顔は、前とまったく同じかたちをしていた。
同じかたちのまま、空っぽだった。
小屋を出るとき、戸口で一度だけ振り返った。
「またね、リィナ」
言葉は、届いた。
音は、返ってこなかった。
◇
日が落ちるまで、小屋の近くを何度も行ったり来たりした。
夕方にもう一度だけ声をかけて、返ってくるのが言葉だけなのを確かめて、それでも認めたくなくて。
結局その夜、わたしは村長の家の戸を叩いた。
「テオの様子が、変なんです」
出てきた村長の奥さんは、ろうそくを持ったまま眉を寄せた。
「変って、なにが。夕方、うちにスプーンの見本を届けに来たよ。元気そうだったけどね」
「声が……声の奥の音が。テオの音が、消えてて」
「音?」
奥さんの底で、うんざりした音が鳴った。ああ、はいはい、いつものあれ、という音。
「あんたのその話は、もういいから。テオはなんともないの。ね、帰って寝なさい」
戸が閉まる。
閉まった戸の前で、しばらく動けなかった。
叩き直すことも、大声を出すことも、できたはずなのに、しなかった。
したところで、と考える自分がいちばん嫌だった。
分かっていた。ずっとそうだった。
わたしの聴いている音は、この村では最初から、ないことになっている。
テオのことだって、雑音持ちのたわごとがひとつ増えただけ。そういうふうに、片づけられていく。
帰り道、村は夕飯どきの声で満ちていた。
窓の明かり。笑い声。子どもを呼ぶ母親の声。
立ち止まって、耳をすます。
――薄い。
気のせいだと思おうとした。でも、聴き分けてしまう。
パン屋のおばさんの音も、井戸端の奥さんの音も、今朝より少しだけ、遠い。
誰かが灯りを、ひとつずつ消していくみたいに。
消えたのは、テオだけじゃないのかもしれない。
夜空は晴れていた。星のあいだで、風が鳴っていた。
虫の声がして、遠くで犬が吠えて、どこかの家の戸が閉まる。
世界はこんなに音でいっぱいなのに、いちばん大事な音から順番に、静かになっていく。
朝、パン屋の前で思ったことを、思い出す。
この村の色は、いつも少しだけ薄い。ずっとそうだった気もするし、そうじゃなかった気もする。
――あれは「気のせい」じゃないのかもしれない。
音が遠くなるのと同じ速さで、色も、少しずつ薄くなっているのだとしたら。
テオの、あのまるい音。
わたしだけが知っていて、わたしだけが、なくなったことを知っている音。
返してほしい。ううん、違う。
戻したい。
でも、どうやって?
問いだけが、夜の中に残った。
星は、音を立てなかった。
そのとき。
遠くの家から、笑い声が聞こえた。にぎやかで、楽しそうな、いつもの夜の声。
その底で、ふつり、と糸の切れる感じがした。
いま。いま、また一つ、消えた。
テオだけじゃ、ない。もう、始まっている。
わたしは夜の下で、あの音を、何度も思い出した。
忘れないように。
わたしまで、忘れてしまわないように。
(第1話・了)
