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Topic 31: 太平洋の「発見」と、200年間隠され続けたサンフランシスコ湾の入口

ヨーコがマディソン・スクールに転校して一ヶ月を過ぎ、放課後に一緒に遊ぶお友達もできたようです。最近はお友達に借りたローラースケートに夢中で、近所を走り回ってますね。果たしてヨーコはお母さんにローラースケートを買ってもらえるのでしょうか。

さて、学校生活については担任のケック先生の授業の様子が日記に綴られています。おそらく水曜日に歴史の授業があるようで、大航海時代の探検家やコンキスタドールたちの名前が登場します。彼らはアメリカの歴史、特にカルフォルニアとサンフランシスコの発見における歴史に深く結びつく人物たちです。

今回の記事では、これまでにヨーコの日記に登場したバルボアフランシス・ドレークポルトラを通じて、サンフランシスコの発見までの歴史を整理してみようと思います。

16世紀初頭、ヨーロッパ人は広大な太平洋を「発見」しました。その後200年以上にわたり、スペインのガリオン船やイギリスの海賊船が安全な港を求めてカリフォルニア沿岸を航行し続けました。しかし、彼らは世界屈指の天然の良港であるサンフランシスコ湾の入口ーゴールデンゲートを発見することができなかったのです。


1.バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア:太平洋の発見

Retrato de Vasco Nuñez de Balboa (1475-1517), 作者不詳 (スペイン)
マドリード海事博物館
https://g.co/arts/Y14EFAN7AUvHWJKdA

バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa)はスペインの探検家であり、コンキスタドール(征服者)です。彼はヨーロッパ人として初めて太平洋を「発見」した人物です。

借金から逃れるため、愛犬と共に樽に隠れて密航した男、バルボアは現在のコロンビアに到着しました。彼は卓越したリーダーシップでパナマ地峡の入植地サンタ・マリアの実権を握ります。先住民から「南にある黄金の国と海」の噂を聞いたバルボアは、1513年9月、190人の部下と共に過酷なジャングルへと足を踏み入れました。

いよいよパナマ地峡の頂上に立ったとき、果てしなく広がる海を視認し、この海を「Mar del Sur(南海)」と名付けます。これがヨーロッパ人が初めてアメリカ大陸側から太平洋を見た瞬間でした。しかし太平洋に抜ける海峡を発見することはできませんでした。

バルボアの栄光は短く、1519年に政敵によって斬首されますが、この「発見」が太平洋探検の幕開けとなりました。

2.フランシス・ドレーク:イギリスの台頭と「ノヴァ・アルビオン」

Sir Francis Drake, 1540-96,  Marcus Gheeraerts the Younger
イギリス国立海洋博物館
https://www.rmg.co.uk/collections/objects/rmgc-object-14136

16世紀後半、スペインの覇権に挑戦したのがイギリスの私掠船船長フランシス・ドレーク (Francis Drake)です。彼は1577年から1580年にかけて、マゼランに次ぐ2回目、イギリス人として初めて世界周航を成し遂げた人物です。

バルボアの太平洋発見から約60年後。パナマはペルーから運ばれた銀や黄金がスペイン本国へ送られるための重要な輸送拠点となっていました。ここを出入りするスペインの銀輸送隊をドレークは旗艦ゴールデン・ハイドン号で次々と略奪。追跡を逃れるため、南米大陸の南端を回って西進し未知の北米西海岸へ北上しました。

1579年6月、ドレイクは船の修理のため北カリフォルニア沿岸(現在のドレイクス湾)に6週間滞在し、「ノヴァ・アルビオン(新イングランド)」と名付け、エリザベス1世のために領有を宣言する真鍮のプレートを残しました。現在は【ドレイクス湾】と呼ばれる場所です。

しかし、ドレイクはすぐ南にあるサンフランシスコ湾の入口(ゴールデンゲート)には全く気づきませんでした。

3.太平洋発見から200年間、嶺と霧の向こうに隠されたサンフランシスコ湾

スペインもフィリピンとメキシコを結ぶマニラ・ガリオン船の寄港地として、北カリフォルニア沿岸に安全な港を渇望していました。しかし、世紀を代表する探検家たちが何度もこの海域を探索しながらも、真に巨大な港の存在は隠され続けたのです。

  • 1542年、フアン・ロドリゲス・カブリリョ:最初に沿岸を航行するも、岩礁を恐れて沖合を通過

  • 1595年、セバスディアン・ロドリゲス・ソロメニョ:嵐で座礁。ドレイクス湾を「Bahia de San Francisco」と命名してしまい、のちの歴史家を混乱させる。

  • 1602年、セバスディアン・ビスカイノ:沿岸を詳細に調査し、南の【モントレー湾】を賛美。しかし大湾の入口は発見できず。

ドレイクス湾とモントレー湾、ゴールデンゲートの奥に隠されたサンフランシスコ湾

1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達してから、スペインはアメリカ大陸の征服、太平洋への進出を果たしてきました。16世紀、太平洋にはスペイン船が往来するようになりましたが、その全貌は17世紀後半になっても明らかになっていませんでした。

18世紀になると、スペインの海上での権力は衰退し、太平洋にはイギリス、オランダ、フランスの船が往来するようになります。

一方、大陸側での探検も続いていました。イエズス会宣教師エウセビオ・フランシスコ・キノが1698〜1701年にかけて行った探検に基づいて作成したカリフォルニアの地図があります。当時は独立した島だと思われていたバハ・カリフォルニアが、この地図ではメキシコの北端で繋がる半島として示されています。陸路の探検からも、サンフランシスコ湾含め、その周辺から北方が認識されていないことがわかります。

Carte du passage pour terre à la Californie, découvert en 1701 par le R. P. Kino Jésuite avec les nlles. missions des P.P. de la Compagnie donnée en 1705 dans le tome 5 des Lettres édifiantes
https://dbc.library.uu.nl/handle/1874/430808

4.ガスパル・デ・ポルトラ:サンフランシスコ湾の「偶然」の発見

Portrait of Gaspar de Portolà, Institut d'Estudis Ilerdencs
https://www.iei.cat/ca/administracio/fpiei

バルボアの太平洋発見から250年後、北米大陸では植民地をめぐるイギリス・フランスの対立が激化し戦争が起こっています。西海岸まで英仏の勢いは届いておらずとも、北方アラスカからは、南下するロシアの毛皮商人たちが迫っていました。海から大陸からの脅威に焦ったスペイン王室は、アルタ・カリフォルニア(現在のカリフォルニア州)の支配を固めることを決断します。

ガスパル・デ・ポルトラ総督に下された命令は陸路を北上し、かつてビスカイノが「最高の港」と報告した【モントレー湾】を発見し、要塞を築くことでした。

1769年7月、サンディエゴから北上を開始した74名の陸上部隊(兵士、神父、先住民など)は、海路からの補給船「サン・ホセ号」(海難で消失)と合流する望みを絶たれ、壊血病で多くの仲間が倒れる極限状態の中で未知の荒野を進みました。

9月30日、探検隊は目的地のモントレー湾に到着します。しかし、ビスカイノが残した「世界最高の港」という大げさな記録と眼の前の平凡な湾があまりにも食い違っていたため、ポルトラたちは「モントレーはもっと北にあるはずだ」と誤認しました。絶望と飢えの中、ペリカンを食いつなぎながら、さらに北へと行軍を続けてしまいます。

迷った陸路探検隊が見つけた「サンフランシスコ湾」

さらに北上していくといつしか正体不明の広大な湾の入口によって、北への前進が阻まれていることに気づきました。それは飢えた探検隊のために丘へ鹿狩りに出た数名の兵士たちが、偶然、尾根の向こう側に信じられないほど巨大な水面を発見したことがきっかけでした。1769年11月4日、これが200年以上隠され続けてきたサンフランシスコ湾が発見された瞬間でした。

Portola' Discovers San Francisco Bay by Mort Künstler © 1970, Mort Künstler, Inc
https://www.mortkunstler.com/

世紀の大発見をしたにもかかわらず、ポルトラ探検隊は自分たちが何を見つけたのか全く理解していませんでした。彼らの目的地【モントレー湾】を見つけられなかったことに落胆し、巨大な湾の真の価値に気づかぬまま、失意のうちにサンディエゴに引き返しました。

当初はポルトラの探検の評価が低かったため、スペインが実際にこの湾の沿岸に入植を開始するまでには、発見から7年もの歳月を要することになりました。この湾が世界屈指の良港であり、モントレーよりも遥かに優れていることが正式に認められたのは、1775年のアヤラによる海上調査を待つ必要がありました。

しかし、この発見によりアルタ・カリフォルニア(現在のカリフォルニア州)におけるスペインの支配とミッション(伝道所)システムの確立に向けた大きな転換点となったのです。



Yoko's DIARY March 10, 1930 "Portola wanted to find Monterey Bay"

アメリカ西海岸の歴史において、バルボアは太平洋という広大な海の存在をヨーロッパに知らしめ、ドレークは北米西海岸におけるイングランドの関与を示しました。そして、ポルトラによるサンフランシスコ湾の「偶然の発見」が、最終的にこの地域への本格的なヨーロッパ人の入植と、現代のサンフランシスコの発展へとつながったのです。

一方でこのヨーロッパ探検家による「発見」は、もともとその土地に暮らし故郷としてきた先住民たちにとって何を意味したのでしょうか。先住民たちにとって、彼らは「侵略者」でした。ヨーロッパによる植民地化は先住民族たちの文化を終焉に至らしめました。

ヨーコの日記では「ポルトラはモントレー湾を探して、道をつくるために木を切り倒した」とありますが、その道はサンフランシスコ湾まで無事に辿り着いたのでしょうか。

ポルトラがサンフランシスコ湾を発見してから160年後、サンフランシスコの小学校の歴史の授業の日記です。

参考リソース:


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