日本語は、人間観察の記録だったのかもしれない
「腹が立つ」
「胸が痛む」
「足がすくむ」
昔の人は、なんてうまい比喩を考えたんだろう。
私はずっと、そう思っていた。
でもある時、考えが180度変わった。
これ、比喩でもなんでもない。ただの人間観察の積み重ねではないか、と。
昔の人は、脳科学も神経科学も知らなかった。
それでも、人の心が身体に容赦なく現れる様を、毎日の暮らしの中で見続けていたのだ。
だから、「感情」を身体の生々しい言葉でダイレクトに表した。
もしかしたら日本語とは、いにしえの人間観察の記録なのかもしれない。
比喩ではなかった
みなさん。
ちょっと今、その場で空を見上げてみて欲しい。
そのまま、後ろを振り返るように、首をぐーっと反らせてみる。
できる?
できない?
私はある時期、これがミリ単位もできなかった。
首に完全にロックがかかっていたのだ。
中学校で支援員として働き始めた頃のことである。
私にやたらと懐いていた男の子が、よくふざけて私の頭を後ろへぐいっと押してきた。
成長期特有のスピードで先生の背を瞬く間に追い抜き、自分より低い位置にある私の頭をオモチャにするのが面白かったのだろう。
そのたびに私は、
「痛い!!!」
と絶叫していた。
首が、とにかく硬い。笑えないくらい回らない。
当時は「ストレートネックかな?スマホの見過ぎ?」くらいに思って、理由なんて深く考えもしなかった。
でも、今ならわかる。
あの頃の私は、お金に猛烈に追われていたのだ。
カードの引き落とし日が近づくたびに、アプリで口座の残高を1日に何度も確認する生活。
「足りるだろうか。」
脳内のメモリは常にその心配事で占拠されていた。
「首が回らない」という言葉は、借金で身動きが取れない状態をスマートに例えた比喩だと思っていた。
大きな勘違いだ。
私は比喩ではなく、リアルに、物理的に、首が回らなくなっていたのだ。
言葉より先に、身体が叫んでいる
不登校支援をしていた頃も、同じような場面を何度も見てきた。
やっとの思いで学校までたどり着いたものの、送ってもらった車から出られなくなってしまう子。
話したくても、喉の奥でつかえたように声を発せなくなってしまう子。
そして、我が子が学校へ行けなくなった時。
そっと触れると、石のように身体が固まっていた。
泥のように、眠り続けていた。
朝になると、世界中の重力が集中したかのように起き上がれなかった。
どうにもできない現実を前に、私はただ立ち尽くしていた。
学校へ行けなくなる時、子どもたちの身体には、本当にさまざまな反応が現れる。
身体が重くなり、硬くなる。
お腹や頭が痛くなる。
病院へ行けば、何らかの診断名がつくこともある。
診断名という「ラベル」があることで、本人も家族も、底なしの不安から救われることはあるかもしれない。それはとても大切なことだ。
でも私は、子どもたちと向き合う中で、何度も思った。
身体は、心より先に、何かを語っているのではないか、と。
言葉にならない苦しさを、身体が代わりに表現しているように見える瞬間が、確かにあった。
辞書ではなく、積み重ねられた記憶
「腰がひける」
「肝が据わる」
「肩の荷が下りる」
昔の人が、これらの表現に行き着いたのは、日々、目の前の人間をただひたすらに見つめ続けた結果なのだろう。
心が動くと、身体も動く。
その事実を、昔の人たちは経験として知っていたから、感じたままを言葉に残した。
日本語は、机の上で考え出されたものではなく、泥臭い人間観察の積み重ねなのではないか。
最近、自分の身体は、何と言っているだろう。
肩は重くないか。
呼吸は浅くなっていないか。
首は固くなっていないだろうか。
もしかすると、私たちは頭で事態を理解するよりずっと先に、身体で何かを感じ取っているのかもしれない。
もし日本語が、気の遠くなるような時間をかけた人間観察の記録なのだとしたら。
今日、自分の身体が語っていることに、少しだけ耳を澄ませてみてもいいのかもしれない。
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