【短編小説】神様、仏様
まずは四分、このライブ映像を浴びてくださいませ。それっ。
椎名林檎「神様、仏様」from百鬼夜行
この物語は、その音、言葉、映像から生まれました。
観終えたら、その余韻を抱え、
妖と色欲の淵へ――いざ。
しゃん、と鈴が鳴った。
大門の向こう、軒を連ねる遊女屋から、一斉に三味線の音が流れ出す。下駄が地を叩き、男たちの浮ついた声に女の笑いが重なった。
夜見世の始まり。
その賑わいから少し離れた柳の下。
枝と枝の間に、巣がぴんと張られている。幾重にも巡らされた糸は乱れひとつなく、郭から漏れる赤い灯を受けて、美しい紋様を夜の闇へ浮かび上がらせていた。
その中心に、一匹の蜘蛛がいる。
黄と黒の縞をまとう細長い脚。淡い黄と灰色に彩られた腹の裏には、紅を差したような鮮やかな斑が潜んでいる。
女郎蜘蛛。
恐ろしい姿のはずだった。
それなのに、目を逸らせない。
一匹の羽虫が、危うげに巣のまわりを飛んでいる。逃げればよいものを、糸の輝きに魅入られたように、近づいては離れ、また近づいていく。
蜘蛛は微動だにしない。
やがて羽虫の翅が、一本の糸に触れた。
逃れようともがくほど、細い糸は小さな身体へ絡みついていく。
愚かなものだ、と思った。
自ら近づき、自ら囚われた。
そのとき初めて、蜘蛛が脚を動かした。
けれど、この胸の高鳴りは何なのだ。
囚われの身となりゆく羽虫を、恍惚として見つめる己に、ぞっとした。
踵を返し、大門を見上げた。
郭に、男を喰らうと噂される女郎がいる。
無論、まことに肉を喰らうという話ではない。その女に魅入られた男は、財を失い、家を捨て、やがて姿を消す。そういう噂だった。
戯言だと思っていた。
その女の馴染みとなった甥が、姿を消すまでは。
甥の部屋には、女へ贈るつもりだった簪と反物が残されていた。
その傍らには、書きかけの恋文が一通。何度も書き直した跡があり、女の名と、そなたのためなら家も身分も捨てるとの言葉が記されていた。
我が甥ながら、なんとも情けない。
僧衣を脱ぎ、久方ぶりに侍の装いへ戻った。剃髪した頭は頭巾で隠し、腰には客を装うための脇差を差した。
――あの子を、連れ戻してください。
懐には、姉から預かった金が入っている。
夜の郭には、人ならぬものが棲むという。
男を惑わせ、その魂を抜く、女の姿をした魔性。
酔客たちが面白半分に囁く、ありふれた昔語りだった。
大門をくぐる。
人間様のお通りよ。
三味線の音が近くなる。
両側に連なる見世から、白粉の匂いと女たちの視線が流れてくる。すれ違う男たちは誰もが浮かれ、今宵ばかりは明日のことなど忘れた顔をしていた。
甥が馴染みにしていた引手茶屋へ入り、女郎の名を告げた。
腰の脇差をわずかに持ち上げ、黒塗りの鞘に描かれた家紋を男へ見せた。
茶屋の男の目が、その紋の上で止まった。
「この家の若侍から、よい女だと聞いた」
金を見せると、男はそれ以上何も訊かず、心得たように頭を下げた。
やがて男の案内で、女郎のいる見世へ向かった。
入口で脇差を預けると、腰もとが急に頼りなくなった。とうに刀を捨てた身でありながら、その感覚だけは身体に残っていた。
長い廊下の突き当たりで、女中が襖を開けた。
「お客人でございます」
女中は女のそばへ膝をつき、紹介者として甥の名を耳打ちした。
女は、座敷の奥に膝を崩して座り、長い煙管を手にしていた。
黒地の着物には、黄と灰白の模様が大胆に散らされている。裾から覗く裏地だけが、濡れたように紅い。
女中が襖を閉めると、煙管を置き、ゆっくりと顔を上げた。
美しい女なら、過去にいくらでも見てきた。抱いたこともある。女が男を誘う眼差しも、その先にあるものも知っている。
俗世を離れ、色恋などとうに捨てたはずだった。
それなのに、仏に仕えるこの身が、女から目を離せずにいた。
頬には、少女のような柔らかな丸みが残っている。細く伏せられた瞼の奥では、黒い瞳が濡れたように光っていた。あどけなくも見える顔立ちに、熟れた紅い唇だけが、ひどく生々しい。
けれど、ひとたび目が合うと、足首へ見えない糸でも絡みついたように、身動きが取れなくなった。
襟元から覗く白い首筋が、息をするたびかすかに動く。その程度のことからさえ、目が離せなかった。
女は頭巾の陰にある顔を探るように見つめ、紅い唇を妖艶にほころばせた。
「おやまあ。そんな怖いお顔をなすって。幽霊退治にでもおいでなんしたか」
女は目元だけで笑う。
「――うらめしや」
口ぶりこそおどけていたが、その声に滲む色香に、息を詰めた。
あどけなさに覆い隠された妖気に呑まれまいと、袖の内でそっと数珠を握った。
女はこちらの動揺など知らぬ顔で、盃へ酒を注いだ。
「あのお方は、とんと姿を見せないと思うておりんしたら……」
伏せていた目が、再びこちらを捉える。
「あらまあ。ご自分の身代わりに、これほど上等な殿方を寄越すとは」
女は盃を差し出し、艶やかに笑った。
「ずいぶんと罪なお方でありんすねぇ」
盃には手を伸ばさなかった。
「あの男は、どこにいる」
女は小さく首をかしげた。
「来なくなった男の行き先まで、女郎が知っているとお思いで?」
懐から書きかけの恋文を取り出し、女の名が見えるよう畳の上へ広げた。
「これは、あの男の部屋に残されていた」
女は恋文にちらりと目を落としただけで、驚きもしなかった。
「客が勝手に身を持ち崩すことまで、わっちの罪でござんすか」
「そなたが惑わせたのではないのか」
「さて」
女は差し出したままの盃を自らの唇へ運び、ゆっくりと飲み干した。
「男はいつでも、自分の欲を女のせいになさいんす」
空になった盃を置くと、女は音もなく膝を進めた。
甘い香が近づく。
反射的に身を引こうとしたが、それより先に手を取られた。
「戯れはよせ」
「まあ。お客のお手に触れることまで、戯れでござんすか」
指の付け根には、刀を握り続けた者に特有の硬い跡が残っている。掌を走る古い傷を、女の爪がゆっくりとなぞった。
「その手を、どれほどの血で染めてきなんした?」
白木の扇が、脳裏に浮かんだ。
剣の腕を買われ、藩から幾度も介錯を命じられていた。
畳に膝をつき、頭を垂れる男たち。
振り下ろすたび、手首へ返ってきた肉と骨の重み。
一人、二人。
いつから数えることをやめたのか。
「もの足りないのう、と――」
女の声に、記憶から引き戻された。
その爪は、まだ掌の傷をなぞっている。
「太刀を振るうたび、そう思うておいでだったのでありんしょう?」
答えられなかった。
苦しませぬために果たしてきた務めだった。
そう己へ言い聞かせながら、いつしか刃が首へ入る瞬間を待ち望むようになっていた。
恐ろしかったのは、流れる血ではない。
次の一太刀を欲する、この手だった。
「一等恐ろしいのは、自らの内に潜むものよ」
それは、誰にも明かしたことのない懺悔であったはずだ。
だというのに、それを口にしたのは女だった。
女は、胸の内をすべて見ていたかのように微笑んでいる。
「刀は捨てた」
低く、それだけを答えた。
「おやおや、笑止千万」
女は紅い唇を歪めた。
「お前様とわっちは――似たもの同士でありんすねぇ」
その意味を問うより先に、女がこちらの手首を持ち上げた。
鼻先を袖へ寄せ、かすかに息を吸う。
「線香を纏えば、血の匂いまで隠せるとお思いで?」
女の指が腕を伝い、頭巾の結び目に触れた。
止める間もなく、するりと解かれる。
頭巾が肩へ滑り落ち、剃り上げた頭へ女の視線が注がれる。
女は少しも驚かない。
「やはり、お坊様でござんしたか」
「いつから気づいていた」
「お会いしたときから」
目元に、初めて見せたあの笑みが戻る。
「ここは、地獄と隣り合わせの郭。お坊様など、珍しゅうもありんせん」
袖の内で握りしめていた手に、女の指が触れた。
「わっちが極楽を見せて差し上げんしょう」
親指。
人差し指。
中指。
固く握っていた指が、一本ずつゆっくりとほどかれていく。
止めようと思えば、止められた。
それなのに、手は動かなかった。
「仏様も、染みついた血までは洗ってくださらなんだようで」
薬指が開く。
最後に、小指。
数珠が畳へ落ちた。
「極楽へ参るのに、こんなものは無用でござんしょう?」
細い指が頬をなぞり、唇へ触れた。
刀とともに封じたはずの獣の衝動が、身体の奥底で目を覚ました。
女は立ち上がると、こちらの手を引き、奥の寝床へ誘った。
垂れた帳の向こうには、白い夜具が敷かれている。
越えてはならぬ境に見えた。
――行ってはいけない。
甥の声が聞こえた気がした。
行ってはならぬ。
行ってはならぬ。
胸の内が、激しく騒いだ。
それでも、女の手を振りほどくことはできなかった。
女が夜具へ身を沈め、手招くように指を曲げた。
「わっちも、たまには好いお方と遊びとうござんす」
女の唇が、首筋をゆっくりと這った。
「女は欲深い生き物よ。さあ、もっと善がらせておくんなまし」
女の爪が背へ食い込み、唇が耳もとへ近づいた。
「極楽などいりませぬ。地獄の淵へ、突き落としておくんなさいな」
抗うべきだと知りながら、女の身体を引き寄せた。
女は待っていたかのように腕を首へ絡ませ、喉の奥で笑った。
白い肌に溺れ、甘い吐息ばかりを追っていた。うなじを撫でられ、柔らかな肌が淫靡にまとわりつく。とうに理性は焼け落ち、身体の内では消しようのない火が燃え盛っていた。
ふと、妙なことに気づいた。
女の両腕は、いまも首に絡んでいる。
では、背骨を一本ずつ数えるように這い下りている、この手は誰のものだ。
腰を抱く腕がある。
胸を撫でる指がある。
足首には、ひやりとした何かが巻きついている。
一つ、二つ。
数えようとするたび、白い手足は増えていった。
それがまことなのか。それとも、全身を駆け巡る快楽が見せる幻なのか。
もはや、わからなかった。
「南無……阿弥陀仏」
ようやく絞り出した声は、女の笑いに呑まれた。
「神様、仏様。今さら、どちらをお呼びで?」
女がゆっくりと顔を離した。間近にある唇は、ひどく紅かった。
行燈の火がゆらりと揺れ、女の背後の障子に細長い影を幾本も映し出した。
影は障子いっぱいに広がり、獲物を抱き込むようにうごめいていた。
「坊主を味わうのは、格別じゃ」
唇が耳へ触れた。
「五臓六腑まで沁みわたるのう」
門前で見た巣が、脳裏によみがえった。
赤い灯に照らされた、美しい蜘蛛。
一本の糸に触れ、逃れようともがくほど囚われていった羽虫。
あのとき、愚かなものだと思った。
自ら近づき、自ら囚われたのだと。
女の手足が、逃げ場のないほど強く身体へ絡みつく。
愚かだったのは、あの羽虫ではない。
遠のく意識の底で、ようやく思い知った。
門前で女郎蜘蛛に捕らわれたあの羽虫こそ、己だったのだと。
了
本作は、コトバフェス「この1曲」参加作品です。
椎名林檎「神様、仏様」から着想を得て執筆しました。
作詞・作曲:椎名林檎

🍀スキやコメントいただけたら励みに致します。 お気軽にご感想などお待ちしております。
