【完結済】寒冷前線『ラテックス、そして夏』ep.8
「ずいぶんと長居してしまって……」
あれから白石は麦茶を一杯だけおかわりした。
俺はあの後三回、水が流れる音を聴いた。
「それに送っていただいて。」
夕立の如く降ってくる蝉の声が言葉を曖昧にしてしまう。
だから俺は、ただひたすらに唇の輪郭を辿るほかなかった。
「挙句、アイスキャンディーまでご馳走になってしまって。いやはや恐縮です。」
俺は「ああ」だの「うん」だの「ううん」だのと、ぶつ切りの反応を返した。
「ここからまっすぐ行けば、帰れると思うよ。」
「あれ……僕の家、ご存知でしたか?」
「ああ……いや? ええと……」
本当のところを告げる勇気はなかった。
真実を蔽うには土から這い出たばかりの蝉には荷が重いだろう。
俺は口を噤んだ。
「そうですか。いや、僕もそうじゃないかと思ったんですよ。」
「え?」
「こちらの公園、子どもの頃、よく来たものですから。」
今も子どもだろ、そう言いかけてやめた。
食べ終えたアイスの棒を二度三度見返して、再び口の中に戻す。
まだほのかにソーダの味が残っていた。
「ちょうどこの下で、よく本を読んだものです。」
「へえ。」
「そうだ……」
白石は左手だけで器用に鞄を開けると、中身を漁り始めた。
公園灯が白く点る。
その光はまださほど意味をなしていないように思えた。
「これ、見てください。」
ぺしゃんこの黒いナイロンバッグから出てきたのは、表紙が剥き出された古ぼけた文庫本だった。
「ああ、さっきの。」
「そうです。さっきのです。」
再び手にしたその本を、俺はぱらぱらとめくる。
相変わらずアイスの棒は口の端に引っ掛けたまま。
「そこ!」
「は?」
声を上げた拍子に棒が唇を離れた。
白石は俺の膝の上でページを五枚ほど戻すと「これです。」と言った。
茶色く大きなしみができている。
日焼けした紙に、絶え間なく生まれ続ける水紋に似た模様が浮かび上がっている。
水紋は、そこから十三ページほど続いていた。
アイスの棒はコンクリートの筒を二回打って、砂利の上に落ちた。
「土管の中って、入ってみたくなりませんか?」
白石は身体ごと傾け、筒の中を覗いている。
「まあ、うん。」
「どこか、秘密基地のようで。」
その瞳は、子どもみたいにはしゃいでいた。
「実はその本もこの中で読んでいまして。」
「そう。」
「あろうことが眠ってしまったんですよ。」
なにか記憶にくすぐられたのか、白石はわずかに身を縮こめ、苦しげに笑った。
「失敬。それで目が覚めたら制服が濡れてい……」
「ちなみにそれっていつ頃の話……?」
「忘れもしません。中学二年のちょうど、今時分です。」
──それなら会ったこと、あるかもな。
白石は首を傾げた。
なんだ、聴こえなかったのか。
「なんでもない。そんなことより早く食えよ、アイス。」
その帰り道、丸い虹を見たと白石は言った。
俺は文庫を奴の鞄に滑り込ませた。
「どこかで雨が降っているかもしれませんね。」
「え?」
「ほら、風が冷たくなったでしょう?」
白石の前髪が額の上を流れる。
「直にこちらも降り出すはずです。君、傘は?」
俺は首を横に振った。
こいつを送るだけのつもりで、財布と携帯しか持って持ってこなかったのだ。
「帰らないと。」
「ああ、早く帰れ。」
「君がですよ。」
「俺、すぐだし。」
俺は白石の背中を押した。
半ば無理矢理に立たされた白石は立ちくらみでも起こしたらしく、砂利にしゃがみこんでしまった。
しばらくして立ち上がった白石はアイスの棒を振りながら言う。
「あ、あれはお早めに。できれば今晩中には召し上がってください。」
「わかった。」
「それから、あのお二方の分はまだ日もちしますから、ご安心を。」
俺は頷きつつ、手の甲で空気を払いのける。
「それから……」
「もういいから、行けって。」
俺は公園東側のフェンスの切れ目を指さした。
絡まった正体不明の蔓性植物の葉が小刻みに揺れる。
「では、また明日。」
「また。」
俺はしばらく灰色の筒の上に座っていた。
あいつが何度も振り向いて手を振るから、帰るタイミングを失ったのだ。
公園の脇を油切れの自転車がのろのろと走る。
もう白石の背中は見えない。
茶色く枯れた紫陽花だとか、その隣で高く伸びる向日葵だとか、そんなようなものを眺める。
案外平屋が多いんだな。
青い瓦屋根が目立つな。
当たり前と思って顧みたこともなかった風景に、やや胸を打たれていることにたじろいだ。
気づけば積まれた筒の一番上で爪先立ちになっている。
その時だった。
空が白く閃いて、電撃の墜落する音が鼓膜を劈いた。
雷鳴が蝉を黙らせる。
たちまち筒は色を黒く変えた。
砂利を雨粒が打ち砕き、フェンスの先のアスファルトは白く飛沫を上げている。
「椋!」
俺は走り出していた。
家とは反対方向に。
ちょうど市境まで走ったところで気がついた。
俺は一体何をしているのだろう。
仮に追いついたとして、俺は白石に何かしてやれるだろうか。
傘を持たない俺は、何を──
答えを見つけられないまま、西へと歩き出した。
黄みがかった灰色の雲が暮れきらない空を掃いている。
東の空は藍を深くして、黒雲に沈んでいた。
蝉の声が戻ってきた。
でもそれは雨音よりも遠く、雨粒の落ちるのより緩やかに、しみ入ることもなく肌の上をつたい落ちていった。
【習作】です。
白石襲来編、次回完結予定です。
私が読切以外で完結させるの珍しくないですか。
雪降るかもしれませんね。
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前回はこちら。
川端康成です。
川端康成×拝啓×パンドラの匣、これらから導き出される文豪は……
太宰治でした。
例の芥川賞事件にまつわる手紙と、彼の書いた「パンドラの匣」。
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誰も待っていないとは思いますが、『殴り殴られ詩人酒場』、連載再開です。
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詩人酒場、ここにまとまってます。
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何を書くかは明白なのに書き出せないつつじの続き。
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白石襲来編まとめマガジン作りました。
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白石主観の習作もある。
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ゆきお様・解説
アイスキャンディーの役割など!
分析していただかたびに、ゼミのことを思い出してにんまりするのだ。
私は散々金田一氏の論文読んでいたな、と。
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