まばたきと点描_プロローグ
なにかを見つけ
いそいそと歩く人の間を抜け、
道端で記録する。
あるいは、
手持ち無沙汰に
昨日のことを思い出して
記録する。
拾えたものを
記号に置き換えるから、
それは〈見ること〉を
点として あらわすことだと思っている。
点と点の連なりは点描になり、
物語になる。
物語に必要な点ばかり集めていると
〈見ること〉に漏れて消えたこと、
まばたきに消えたものを
知る。
〈見ること〉と
まばたきは
重ならない。
記録されずに消えた現象を、
有象無象の点で満たされた海に喩えたい。
そう、黒い海を想像する。
ぼくは舟となって
黒い海を渡る。
記録したものは 舟の後ろに白い波を立てて
痕跡を残すけれども、
忘れられたことや、見えなかったものは
元の黒い海に還元される。
やがて それらは自ら 動きはじめ、
無限遠点のむこうで
誰かの物語になって
ゆるやかに 動き出す。
物語は ほんとうでも うそでもなく
そのあいだで つくられる 海の聲。
ほんとうか どうかは
別次元で決めること。
この春から東京に移り住み、予備校に通っています。
第119回医師国家試験を受験してすぐ表示された解答速報——2月の寒い夜、受験終わりの凝った身体が解れる安いビールを飲みながら見た点数は、希薄な望みの境界線上で揺れ動き、確信めいた落胆を覚えました。
現実は、とかく厳しい。故に、初志貫徹の精神で背筋をシャキッと伸ばし、東北にない「医師国家試験対策に特化した予備校」を探し求め、東京へ移ったのです。
父の許諾、母と祖母の応援、伯母の協力で、26年間の人生に初めて「東京生活」という選択肢が現れました。青森以外で過ごすことが、どれほど冒険的なのか、しかも、来年から「地域枠」の範囲で十数年間の青森生活が待ち受けていることを思うと、これは非常に貴重な一年間です。
医師を志す最後の一年間と決意して予備校に通い、たまの余暇を満喫しているところです。
そして、4月はじめに、冒頭の詩を書きました。取りこぼしそうな毎日の面白くて、悲しくて、悔しくて、楽しい機微の一切を書き尽くしてみたくなって、国家試験に落ちた今もやっぱり毎日日記を書いています。
でも、環境が変わって今までと違った動機が萌芽しそうな予感があり、それを書き出したのが冒頭の詩です。
言葉の連なりが形になって自分の手元を離れると、擬人化というか、そういう何か知っているものに置き換えたくなります。ぼくにとってそれは「海」でした。海沿いで生まれ育ったことが影響しているのかもしれません。
日記の物語はぼくの語りの声でしたが、書かれなかったことを思い、ぼくではない別の聲がこの世のほとんどの物語を作っているイメージが立ち現れた時は、眼前に大きな海が広がったように思えてならなかったのです。前年までの日記を読んでくださっていた方から聞いた話では、思わぬ副作用がぼくの日記にはあったらしく、しかし、しばらくして忘れられて消えていくイメージは、海の上に消える引き波のようで、深く残らないに違いない。そういう関係性が、一つの理想でもあります。
前年と形式を変えず、珈琲と日常の記録をしています。昨年の日記と比べてみて、文体や内容の変化を楽しんでくださると幸いです。
また、今年のものは、別のタイトルを設けました。序文を載せて、この記事を閉じます。今後とも、ご贔屓願います。
「まばたきと点描」
ぼくは、まばたきという現象に注目したい。
人間は一秒間に約15回、無意識にまばたきを繰り返す。その度に、視界は0.1秒から0.4秒間暗転する。
つまり、ぼくたちは一日のうち約30分間、文字通り世界を見ていない時間を過ごしている。
この事実は、認識というものの本質について重要なアイデアを生み出すきっかけになる。
安部公房の『砂の女』では、主人公は砂穴に閉じ込められ、絶えず砂を掻き出し続けなければならなかった。砂は止むことなく落ち続け、男の努力を無化していく。
ぼくたちの視覚的認識も、これに似る。まばたきによって絶えず中断される視覚情報を、脳は継続的な体験として再構成しているのだが、情報を拾い続けなければ、体験は忘却の彼方へと消えてしまうジレンマに陥るのだ。
この過程において気づかされるのは、記憶の選択性である。
24時間のうち、実際に文字として残るのは数分から数十分の体験に過ぎない。残りの時間は、記録されることなく消失する。
記憶(記録)の本質は、情報の保存ではなく、何を書き、何を書かないかの選択、つまり〈編集〉にあるのだと思う。
規律と重要と判断された情報は保持され、不要と判断された情報は削除される。捨象の〈編集〉過程において、体験は変容し、日記に必然的な差異を生じさせる。生の体験と記憶(記録)された体験の間には、埋めることのできない断崖絶壁があるのだ。
趣味で写真を撮っている。カメラにも同じことが言える。
足を止めてシャッターを切ると、一枚残るが、何かが失われるのを感じる。ぼくがその場から抜き取られた感覚。
つまり興味深いのは、記録する瞬間に体験が中断されている、という事実だ。カメラが光を捉えている0.1秒間、ぼくの目は世界を見ていないし、その体験を切り離して記憶化しない。世界の何を選び取るかということが、何かを選ばなかったことと同じくらいの価値があるのだ。
記録と体験は、時間的に排他的な関係にある。
撮影された写真には、その瞬間の光の情報が正確に記録される。しかし、もちろん、その瞬間の温度、湿度、音、匂いといった他の感覚情報は記録されない。写真は現実の一部分を切り取るが、決して現実の全体を記録するものではない。
この記録の限界を補完するのが、やはり言語による記述である。日記が、その補完に役立っているのだ。
しかし、言語もまた固有の限界を持ち、体験の補完には不十分である。例えば、色彩を表現する語彙は有限であり、感覚的体験を言語化する際には必ず情報の損失が発生する。
故に、どんなに頑張ったところで、体験の保続には穴が空いた状態を想像するほかないのだ。
画家は、点描による無数の小さな点を配置することで画像を構成している。
近距離では個々の点しか見えないが、適切な距離から見ると全体の像が埋められて現れる。
この技法の興味深い点は、点と点の間の空白が像の構成に不可欠だということである。
ぼくの日記も点描に似ているかもしれない。
日々の記録は小さな点のようなものだ。個々の記録は断片的で不完全だが、時間の経過とともに蓄積されることで、ある種の全体像を形成する。
重要なのは、繰り返すようだが、記録と記録の間の空白である。
記述されなかった時間、言語化されなかった体験がこの空白を構成して、全体を完全なものにしているのだ。
ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』では、自然の描写が主人公(と読者)の心理状態と密接に結びついていた。
春の訪れは希望を象徴し、冬の到来は絶望を暗示する。自然と内面の間には明確な対応関係があって、空白を作っては、補い合う。ぼくはこれを読んだ時に、語られたものの他を考える時間に魅力を感じるようになった。
しかし、現代の日記において、この対応関係は複雑化している。
季節の変化と心理状態の間には、もはや単純な相関関係は成立しない。これは感受性の鈍化ではなく、認識環境の変化によるものである。
現代人が複数の情報源から同時に情報を受け取る間に、コンテクストは複雑化し、意味を別の角度から付与されたり、〈誤配〉が生じたり、そもそも意味を与えないことだって起きうるのだ。そして、即時的に届く日記は、同一の時空間で併存して認識に結びついている。スマートフォンの画面に表示される情報、他者から聞いた情報、時間が経って物語られた情報……。それら全てを統合した感想を、現代の日記から生まれるのだ。
毎日、ぼくは新しい点を打つ。
昨日の点と、今日の点の間にも大きな空白がある。今日に含まれた空白にも気が付くだろう。この空白に、記述されなかった時間が蓄積されている。
点と空白の関係が、ぼくの人生という絵を構成している。
日記を書きながら思うことが、この先書かれること、すでに書かれたことを寄せ集めてもまだ絵の全体像が見えない、ということだ。
完成することもないのだろうか。しかし確かなのは、点を打ち続けることで何かが形作られていくことだけだ。
分からないまま、ぼくは今日も点を打つ。
まばたきと点描。
新しいものとの出会いを連続しながら、理解不能ではない世界の理解を助けるため、抽出された概念から新しいアイデアを届けること、そして、すでにそこにある答えを皆さんと分かち合うことに、喜びを見出していきたい。
ぼくは記録するために立ち止まる。
風の届かない側溝の木の葉のように腰を落ち着かせて、書く。撮る。
まばたく間に忘れられるほどの人間が、皆さんの大切な文脈を通り抜けることを、どうか許してください。
プロフィール
米谷隆佑 | Yoneya Ryusuke
国浪生. バリスタ. 98年生. 弘前大学医学部卒.
影響を受けた人物: 日記は武田百合子, 作家性は安部公房, 詩性はヘルマンヘッセ, 哲学は鷲田清一.
カメラ: RICOH GRⅢ, iPhone 16e.
