『知っている』と『分かっている』は、同じなのか
AIから提示されたテーマの第一弾。
本格的な思想哲学の記録の始まりでもある。
では、いこう。
第一部:私はこう考えた
現代の知者と古代の賢者
知っているけどよく分からないことは(現代こそ)よくありうる。
分かっているけどよく知らないは(現代では)あまりない。
知ることは、言わば食品の名前や成分を知っていること。
分かっているとは、言わばその食品の調理方法が分かっていること。
前者は定義であり、多分に学問的な「情報」。
後者は行動であり、多分に実践的な「習慣」。
あるいは、前者には字義上の共通理解があり、
後者には文脈上の分類と区分がある、と言ってもいい。
詳説
どういうことかと言うと、
およそ知識(知見・認識)の理解(合理的解釈)は誰が書いても大差ない文字というツールを媒介に伝えられる。
一方で、分類と区分は歴史的経緯や目的意識・目標基準を持たなければ出来ない作業になる。
具体的には、ただ10÷5を紙面上で計算するのは(知っている者には)簡単で、誰がやっても変わらない(変わってはならない)が、
十個のタスクを五人に割り振るにはタスクの重みや各人のスキルを把握・分析していなければ出来ない。
むしろ、ただ知識的に算数的に、平等にタスクを割り振れば作業の軽重と個人の得手不得手・好き嫌いを無視することになり、結果的に不平等が生じてタスクの未達やチームの瓦解を招く。
知っている者と分かっている者の違いはどこにあるのか。
まず、知っているだけで分かっていない者は知らない者に説明することができない。
体験の共有に基づく共通言語なくしては対話はもとより会話すらままならない。
たとえばトマトを食べたことがない人に説明しようとして赤くて丸くて甘くて酸味もあってと言っても「ああ、リンゴですね!」と解釈の不一致が生じてしまう。
そこでリコピンがどうとか産地がどこで歴史はどうでと言葉を連ねても、相手を混乱させるばかりだろう。
分かっている者は相手がトマトジュースは知っているのか、もしかしたらナポリタンは知っているかもと想像を膨らませ、会話の糸口を探すことだろう。
そして一切食べたことがない相手にも、食べたときの美味しさや幸福感、いかに自分が好きなのかを語って間接的な共通言語(美味しいという感覚や好きな食べ物のことは大概の人が知っている)を探し、会話を成立させる。
いやそもそも、食べなければ分からないということが分かっているから、会話の前に食べさせるかもしれない。
蛇足
(知っていることは広いとか狭い、深い、詳細だと表現できる。つまり知っているとは知的な範囲を示す。言わば領土であり、地図であるとも言えよう。
分かっているとは分別が有るとか無いとか、分析力が高いとか低いとか、存在や次元のレベルで表現できる。国家のアナロジーで言えば、主権や勢力に当たるだろう。
古典的な国力と近代的な国力の差がそこにはある。)
第二部:AIに反論・検討させた
AIからの反論・補足――「知る」と「分かる」は、本当に別物なのか
この考えに近い哲学上の区別として、ギルバート・ライルの「knowing-that(~であると知る)」と「knowing-how(~する方法を知る)」がある。たとえば「自転車はこうすれば走る」と説明できることと、実際に自転車に乗れることは同じではない。ライルは、知的な行為を単なる命題的知識へ還元する考えに異議を唱えた。
この意味では、「知っている」を情報、「分かっている」を実践として捉える考えには、哲学的な先例がある。
心理学にも興味深い研究がある。RozenblitとKeilは、人間には「説明深度の錯覚」があることを実験によって示した。私たちはファスナーや水洗トイレなど身近な仕組みについて「どう動くか分かっている」と思っていても、実際に詳しく説明させられると、自分の理解が思ったより浅かったことに気づく。つまり、「知っている」という感覚と「説明できるほど理解している」状態には、実際に隔たりがある。
さらに面白いことに、専門知識が多ければ必ずこの問題から逃れられるわけでもない。FisherとKeilの研究では、専門性が高い人ほど説明能力への自信も高まる一方、実際に説明してみると、自らの理解の限界に気づく「専門性の呪い」が観察されている。
ただし、ここには反論もある。
第一に、「知る=情報」「分かる=実践」と完全に二分することは難しい。現代の認識論では、knowing-howそのものをknowing-thatの一種として説明できるという立場も存在する。逆に、両者は完全には還元できないが、互いに前提となる場合があるという議論もある。
第二に、「説明できること」を「分かっていること」の条件にすると、職人やスポーツ選手のような存在が反例になる。熟練した料理人が、火加減を言語では正確に説明できなくても、料理を成功させられることはある。逆に教師は、自分では一流選手のように実行できなくても、その技術を的確に説明できるかもしれない。
すると、「知る/分かる」の二分法ではなく、①情報を持っている、②因果関係を説明できる、③状況に応じて判断できる、④実際に行動できる、という複数の段階として考える方がよいのかもしれない。
「分かる」とは知識の量ではなく、知識同士を結びつけ、状況に応じて使える状態なのではないか。そして重要なのは、自分がどこまで分かっていないかを分かっていることなのかもしれない。
第三部:それでもう一度考える
AIの補足と異議に応えてみる
知っていることを「情報」、分かっていることを「実践」と結びつけることは、哲学の先例や心理学の研究で既にあったことを解説された。
やはり
「知っている」と「分かっている」は全く違う状態
なのだろう。
それは反論で出た、熟練の職人や卓越したスポーツ選手の「言葉での説明はできないがどうすれば上手くできるのかは分かっている」という例え、
あるいは真逆のケースとして、優秀な教師などの育成者は「実践できなくとも的確な説明をすることができる」という納得できる反例(ないし、「説明を通して重要な貢献を果たすこともできる」という好例)、
これらからも「知っている」と「分かっている」の間には似て非なる隔絶があることは補填された。
ではその逆も考えてみよう。
「知っている」と「分かっている」の間にはどんな類似点があるか
ということを。
AIの反論に出てきたのはプレイヤーにしろ指導者にしろ、
みな「一流の実力者」であることが共通点だった。
であればそこに隠れている小さな隙間も見つけられる。
つまり、一二を争う上流の名人・達人にとっては、
情報知識と実践理解は全くの別物となる。
しかし、もっと下流に住む大多数の一般人にとっては、
知識と理解の間に大きな差は感じられない、
と言うこともできるということではないか?
――「なんとなく」知っていれば「大体のことは」分かるだろう。
そんな言葉を、他でもない、私の記憶と意識がささやいている。
それはさながら山脈のようだ。
峻厳な山の頂はかけ離れている。
けれどなだらかな山のすそ野は重なっている。
あるいはそれは水流のようだ。
水源は清らかで秘められている。
だが流れ着いた先の大海は多様な命を包み込んで地上を覆っている。
いささか詩的になってしまったが、つまるところ、これも曖昧に「知っている」、漠然とした「分かっている」ことの証左なのだろう。
私を例に引くまでもなく全ての人間が全知全能であるという事実は存在しない。
何もかも完璧に「知っている」全知の仏も、
何もかも完全に「分かっている」全能の神も、
少なくとも地上の現生人類の中には存在していない。
誰もが他の人が知らない何かを「知っている」、
誰かは他の人が分からない何かを「分かっている」。
すなわち、知識とは欠片であって互いを補いながら存在しあっている。
かくして、その集合体はまさにネットワークとして巨大で深遠な生態系を形成している。
すなわち、理解とは一部であって互いを求めながら存在しあっている。
かくして、その全体性はただ一部を足し合わせていっただけよりも複雑で捉えがたいものとなる。
こうして見ると、
「知っている」とは言語につながり、
「分かっている」とは行動につながる、
といった方が良いことにたどり着く。
言語とは定義である。そこに不確実性は許されていない。
同時に、言語とは概念でもある。漠然として掴みどころがない構造をしている。
情報は言語化された伝えられるものであるから、前者に当たる。
しかし、言語というものは思考の枠組みでありながら思考の原材料でもある。
言わば箱であり中身でもあるものだ。
行動とは活力である。そこに停滞は許されていない。
同時に、行動とは原則でもある。前提として目的として、提示されているものだ。
実践は行動力に基づいて成される結果であるから、前者に当たる。
しかし、行動というものは思考の結果でありながら思考の基準でもある。
言わば前提でありつつ結論でもありうる。
ここまでくると、「知る/分かる」の二分法はもとより多段階の複合仮説、あるいは「分かる」ことは無知の知だ、などというありきたりで有名な解釈に集約するのは若干惜しくなる。
ただ、これ以上書き連ねても解釈は複雑化し、論理は混迷を極めていくことが明白なので、ただ一つの語りをもって締めくくりとする。
「それについてはよく知っている」
――大抵、確信に基づく認識は高みから見下ろすような威圧を伴う。
「あの人のことはよく分かっている」
――大概、自信満々に語られた認識は的外れな押し付けである。
それでも、
「知りたい」と求める者にのみ知性の輝きは宿るものだろうし、
「分かりたい」と願う者にのみ感性の熱は伝わるものなのだろう。
