月が見えない夜の話
夜が好きだ。
正しく言うなら。
夜だけが、少しだけ優しかった。
昼の世界は忙しい。
誰かの期待に応えて。
ちゃんと働いて。
ちゃんと笑って。
ちゃんと生きる。
大人になるということは、きっとそういうことなんだと思っていた。
だから私もそうしていた。
大丈夫なふりをして。
平気なふりをして。
傷ついていないふりをして。
誰にも迷惑をかけないように生きていた。
だけど。
本当は少し苦しかった。
子どもの頃からだった。
泣くのが苦手だった。
泣けば誰かが助けてくれる。
そんなふうに思えなかった。
だから泣かない子になった。
悲しくても。
悔しくても。
寂しくても。
「大丈夫」
と言う子になった。
周りから見れば手のかからない子だったと思う。
先生にも。
親にも。
友達にも。
心配をかけなかった。
だけど本当は。
心配をかけられなかっただけだった。
人は不思議だ。
子どもの頃の生き方を。
そのまま大人になっても続けてしまう。
私もそうだった。
困った時は一人で抱える。
苦しい時は隠す。
寂しい時は笑う。
助けてほしい時ほど。
「大丈夫」
と言う。
いつからだろう。
誰かに頼ることが怖くなったのは。
期待することが怖くなったのは。
信じることが怖くなったのは。
たぶん。
何度か傷ついたからだ。
たぶん。
何度か裏切られたからだ。
たぶん。
何度か見捨てられた気がしたからだ。
だから学んだ。
期待しなければ傷つかない。
頼らなければ失望しない。
信じなければ裏切られない。
そうやって。
自分を守る方法を覚えた。
でも。
その代わりに失ったものがあった。
安心だった。
本当は。
誰かに寄りかかりたかった。
本当は。
弱音を吐きたかった。
本当は。
助けてと言いたかった。
だけど言えなかった。
言えないまま大人になった。
仕事帰りの夜だった。
特別な日じゃなかった。
嫌なことがあったわけでもない。
嬉しいことがあったわけでもない。
ただ。
少し疲れていた。
駅から家まで歩いていた時。
ふと空を見上げた。
月が出ていた。
丸くもない。
特別明るくもない。
どこにでもある普通の月だった。
だけどその日。
なぜか目が離せなかった。
月は不思議だ。
毎日形が変わる。
見える日もある。
見えない日もある。
雲に隠れる日もある。
それでも。
誰も月を心配しない。
「月がなくなった」
とは思わない。
見えていなくても。
そこにあると知っているからだ。
その時。
ふと思った。
人も同じじゃないだろうか。
私たちは。
うまくいかない時に。
自分の価値を見失う。
失恋した時。
否定された時。
仕事で失敗した時。
誰かに必要とされなかった時。
自分には価値がないと思ってしまう。
だけど本当は。
価値がなくなったんじゃない。
見えなくなっただけなんだ。
月が雲に隠れるように。
自分の価値も。
苦しみの雲に隠れているだけなんだ。
そのことに気づいた瞬間。
少しだけ涙が出た。
泣いた理由は分からない。
だけどたぶん。
ずっと誰かに言ってほしかったんだと思う。
「大丈夫」
じゃなくて。
「頑張ったね」
って。
人は。
大丈夫と言い続けると。
本当に大丈夫だと思われる。
苦しくても。
寂しくても。
平気な顔をしていると。
誰も気づけない。
当たり前だ。
自分で隠しているんだから。
だけど。
それは孤独だった。
とても孤独だった。
優しい人ほど孤独になる。
それは。
人の痛みに敏感だからだ。
誰かが落ち込んでいれば気づく。
誰かが無理をしていれば気づく。
誰かが寂しそうなら気づく。
だけど。
自分のことには鈍感になる。
自分の涙は後回し。
自分の苦しみも後回し。
自分の寂しさも後回し。
そしてある日。
心が限界を迎える。
もう頑張れない。
もう笑えない。
もう無理だ。
そう思う。
でも。
それは弱さじゃない。
むしろ逆だ。
強すぎた結果だ。
頑張りすぎた結果だ。
耐えすぎた結果だ。
人は弱いから泣くんじゃない。
限界まで頑張ったから泣くんだ。
だからもし今。
この文章を読んでいるあなたが苦しいなら。
自分を責めないでほしい。
うまく笑えなくてもいい。
前向きになれなくてもいい。
元気になれなくてもいい。
ただ。
今日を生きただけで十分だ。
朝起きたこと。
仕事へ行ったこと。
学校へ行ったこと。
ご飯を食べたこと。
呼吸していること。
それだけでも本当はすごい。
私たちは。
できなかったことばかり数える。
だけど。
今日できたこともたくさんある。
生きた。
耐えた。
頑張った。
それだけで十分なんだ。
夜になると。
街の灯りが増える。
マンションの窓。
コンビニの灯り。
信号機の光。
その灯りを見るたび思う。
あの窓の向こうにも。
眠れない人がいるんだろうなと。
笑っている人も。
成功しているように見える人も。
きっと誰にも言えない苦しさを抱えている。
だから。
あなただけじゃない。
孤独なのは。
あなただけじゃない。
苦しいのは。
あなただけじゃない。
泣きたい夜があるのも。
あなただけじゃない。
みんな。
少しずつ傷つきながら生きている。
みんな。
少しずつ不安を抱えながら生きている。
それでも朝は来る。
そしてまた。
生きていく。
私は思う。
人生は。
強くなる旅じゃない。
自分に優しくなる旅なんじゃないかと。
できない自分も認める。
弱い自分も認める。
泣いている自分も認める。
それが本当の強さなんじゃないかと思う。
だから。
もし今夜。
少しだけ苦しいなら。
空を見上げてほしい。
月が見えなくてもいい。
曇っていてもいい。
雨が降っていてもいい。
そこに月はある。
見えないだけだ。
あなたの価値も同じだ。
今は見えなくなっているだけ。
なくなったわけじゃない。
だから焦らなくていい。
急がなくていい。
誰かと比べなくていい。
あなたはあなたのままでいい。
月が誰かと比べないように。
静かに。
そのままで。
そこにいていい。
そして。
いつかまた。
雲が晴れる日が来る。
その時あなたは気づく。
自分が思っていたよりも。
ずっと価値のある人間だったことに。
今夜。
眠る前に。
ほんの少しだけ。
自分に優しい言葉をかけてあげてほしい。
「今日もよく頑張ったね」
と。
それだけで十分。
