隣に引っ越してきたお姉さん、距離感がおかしい。
隣の部屋に引っ越してきたのは、美人なお姉さんだった。
最初に会ったのは、引っ越し当日の夕方。
インターホンが鳴って扉を開けると、
「こんにちは。今日、隣に引っ越してきました」
そこに立っていたのが、玲奈さんだった。
27歳。
俺より少し年上で、背が高くて、スタイルもいい。
正直、最初に見た時からかなりタイプだった。
「これ、よかったら」
小さな紙袋を渡される。
「わざわざありがとうございます」
「隣同士だし、仲良くしてね」
「はい」
「何かあったら頼るかも」
「俺でよければ」
「じゃあ、頼りにしよ」
そう言って笑う。
最初は、それだけだった。
綺麗な人が隣に引っ越してきた。
ちょっと嬉しい。
その程度だった。
問題は、その後だった。
⸻
「おはよ」
朝、ゴミを出しに行けば会う。
「またコンビニ?」
夜、夕飯を買って帰れば会う。
宅配便を受け取ったり。
ベランダで鉢合わせたり。
とにかく、よく会った。
そして顔を合わせるたびに、少しずつ距離が縮まっていった。
「翔くん、それ夕飯?」
「そうです」
「またコンビニじゃん」
「楽なんで」
「ちゃんとしたもの食べなよ」
「玲奈さんに言われたくないです」
「なんで?」
「昨日カップ麺だったでしょう」
玲奈さんが止まる。
「……見てたの?」
「ゴミ捨て場で見えただけです」
「怖」
「隣人でしょうが」
「あはは」
最初は敬語だけだったのに。
いつの間にか、こんな会話をするようになっていた。
⸻
ある日の夜。
インターホンが鳴った。
扉を開ける。
玲奈さんが鍋を持って立っていた。
「ねえ、ご飯作りすぎた」
「はい?」
「食べる?」
「いいんですか?」
「一人じゃ多いし」
「じゃあ、もらいます」
「違う違う」
「え?」
「一緒に食べよってこと」
当たり前のように俺の部屋へ入ってくる。
「ちょっと待って、散らかってます」
「別に気にしない」
「俺が気にするんですよ」
「あ、これ翔くんの部屋?」
「今入ったでしょう」
「へえ」
「勝手に観察しないでください」
「男の一人暮らしって感じ」
「帰ってもらいますよ」
「あはは、ごめんごめん」
それが最初だった。
次は俺が玲奈さんの部屋へ呼ばれた。
その次は、
『今日ご飯どうする?』
そんなLINEが来た。
気づけば週に何度も一緒に夕飯を食べるようになっていた。
映画を見る日もあった。
酒を飲みながら夜中まで話すこともあった。
互いの部屋を行き来する。
隣人。
……というには、近すぎる。
⸻
困ったのは玲奈さんがあまりにも無防備だったことだ。
家だから当然なのかもしれない。
部屋着。
適当にまとめた髪。
すっぴんに近い顔。
俺がいるのに、まったく気にしている様子がない。
「翔くん、飲み物取って」
「自分で取ってください」
「近いじゃん」
「玲奈さんの方が近いですよ」
「お願い」
「……はい」
「優しいねえ」
「使われてるだけな気がする」
「気のせい」
ソファに座る距離だって近い。
最初は少し離れていたはずなのに。
最近は肩が触れそうなくらい。
でも。
玲奈さんは何も気にしていない。
俺だけが意識している。
そう思っていた。
だから、少しずつ距離を取るようになった。
変に期待したくなかった。
玲奈さんみたいな人と、俺が釣り合うわけがない。
仲のいい隣人。
それ以上だと思わない方がいい。
⸻
ある夜。
玲奈さんの部屋で映画を見ていた。
エンドロールが流れ始める。
「面白かったね」
「ですね」
「次何見る?」
「もう結構遅いですよ」
「明日休みじゃん」
「そうですけど」
「じゃあもう一本」
「玲奈さん映画好きすぎません?」
「一人で見るより楽しいから」
さらっと言う。
そういうところだ。
だから困る。
「……ねえ」
「はい?」
玲奈さんが俺を見る。
「最近さ」
「はい」
「私のこと避けてない?」
心臓が跳ねた。
「避けてませんよ」
「嘘」
「何でですか」
「前よりこっち見ない」
「気のせいです」
「あと、前より離れて座る」
「それも気のせいです」
「じゃあ」
玲奈さんが少し身体を寄せる。
「これでも平気?」
「……近いです」
「ほら」
「何がですか」
「やっぱり気にしてる」
楽しそうに笑っている。
「玲奈さんが近すぎるんですよ」
「嫌?」
「そういう意味じゃないです」
「じゃあどういう意味?」
「…………」
「翔くん?」
もう誤魔化せない気がした。
「俺が勝手に意識してるだけなんで」
玲奈さんの表情が止まった。
「……私のこと?」
「忘れてください」
「無理」
即答。
「なんでですか」
「なんでって」
玲奈さんが俺を見る。
「やっと言ってくれたから」
「……え?」
「遅いよ」
「何がですか」
「翔くんが私のこと意識してるの、結構前から気づいてた」
頭が真っ白になる。
「いつから?」
「いつだろ」
少し考えて、
「私が部屋着でゴミ出し行った時くらい?」
「そんな前から?」
「分かりやすかったよ」
「だったら言ってくださいよ」
「なんで?」
「恥ずかしいでしょう」
「私は嬉しかったけど」
言葉が止まった。
「……嬉しかった?」
「うん」
いつもの余裕のある笑顔。
でも。
少しだけ頬が赤い。
「それ、どういう意味ですか」
「そのまま」
「分からないです」
「鈍いなあ」
玲奈さんが小さく息を吐く。
「じゃあ聞くけど」
「はい」
「隣だからって、毎週男の人を自分の部屋に呼ぶと思う?」
「…………」
「ご飯も?」
「……はい」
「映画も?」
「…………」
「夜中まで二人で話すのも?」
何も言えない。
「私、一人でもご飯食べられるよ」
「それはそうですけど」
「映画だって一人で見られる」
「はい」
「なのに、なんで毎回翔くん呼んでると思ってたの?」
「……暇なのかなって」
「ひど」
玲奈さんが笑う。
「違うよ」
「じゃあ」
「翔くんと一緒にいたかったから」
初めてだった。
玲奈さんの方が先に目を逸らした。
⸻
「……いつからですか」
「何が?」
「俺のこと」
「それ聞く?」
「聞きますよ」
「恥ずかしいから嫌」
「俺は言わされたじゃないですか」
「言わせてないよ」
「ほぼ言わせたでしょう」
「あはは」
笑って誤魔化そうとする。
でも今回は逃がしたくなかった。
「玲奈さん」
「……多分」
少し考える。
「最初の頃から、ちょっと気になってた」
「最初?」
「うん」
「何で俺なんですか」
「またそれ?」
「だって玲奈さんなら、もっと――」
「それやめて」
珍しく強い声だった。
「え?」
「翔くん、自分と私が釣り合わないって勝手に思ってるでしょ」
図星だった。
「……まあ」
「私が誰を好きになるかまで、翔くんが決めないで」
何も返せなかった。
「私は」
少し間を置く。
「翔くんだから一緒にいたいって思ったの」
真っ直ぐ言われる。
今までで一番、目を逸らしたくなった。
でも今度は逸らさなかった。
「じゃあ俺も言います」
「なに?」
「玲奈さんが好きです」
今度は玲奈さんが固まった。
「……急だなあ」
「散々言わせようとしたでしょう」
「そこまでは言わせるつもりなかった」
「じゃあ忘れてください」
「それは絶対嫌」
また即答。
思わず二人で笑った。
「玲奈さんは?」
「何が?」
「俺だけ言うのおかしいでしょう」
「言わなきゃダメ?」
「ダメです」
「面倒くさい男」
そう言いながら、
玲奈さんが俺を見る。
「好きだよ」
今まで聞いた中で、一番小さな声だった。
⸻
時計を見る。
もう日付が変わりそうだった。
「……そろそろ帰ります」
立ち上がろうとする。
「え?」
玲奈さんが意外そうな顔をする。
「何ですか」
「帰るの?」
「帰りますよ。隣ですし」
「……そっか」
明らかに何か言いたそうだった。
「何ですか」
「別に」
「絶対何かあるでしょう」
「ない」
「さっきから俺には全部言わせたのに」
「うるさいなあ」
少し沈黙する。
そして。
「じゃあ、一個お願いしていい?」
「何ですか」
「もうちょっといて」
「…………」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど」
「じゃあ、いて」
いつもの玲奈さんなら、もっと軽く言うはずなのに。
今は少し緊張しているように見えた。
「映画の続きですか?」
聞くと、
「映画でもいいよ」
「でも?」
「……何でもない」
また目を逸らす。
「玲奈さん」
「なに?」
「今日、距離近くないですか」
「今日だけ?」
「いつも近いです」
「じゃあいいじゃん」
「よくないですよ」
「なんで?」
俺を見る。
「もう、お互い分かってるのに」
その一言で何も言えなくなった。
今までなら、
俺が勝手に意識しているだけ。
そう言い訳できた。
もうできない。
「ねえ、翔くん」
「はい」
「今日だけじゃなくて」
少しだけ笑う。
「これからも、普通に私の部屋来てよ」
「いいんですか」
「むしろ来てほしい」
「じゃあ玲奈さんも俺の部屋来てください」
「行く」
「即答ですね」
「隣だもん」
玲奈さんが笑う。
そして少し間を置いて、
「……もう、ただの隣人じゃないけどね」
隣の部屋まで、たった数メートル。
いつでも帰れる距離。
それなのにその夜は、
帰る理由が見つからなかった。
隣に引っ越してきた綺麗なお姉さん。
俺だけが勝手に意識していると思っていた。
でも。
距離感がおかしかったのには、
最初からちゃんと理由があった。
