パクチーを食べた。


   暖色の音色が私の体を包み込んだ。優しく優しく、包み込んだ。それは、まだ見ぬ異国の情緒と懐かしき故郷の思い出、その2つを内包するような不思議な音色だった。
  繁華街の一画、薄暗い路地裏に佇むな小さな南国。緑の絨毯が一面に敷かれたその皿は、そこにいる者全てを魅了する。
   不思議な体験であった。まず口に入れた瞬間、舌触り、風味、食感、それら全てが私に違和感のナイフを突きつけてくる。今すぐ吐き出してしまえばどんなに楽だろうか。そんな焦燥に駆られる。否、意志とは裏腹に、私の手はその緑の異物を口に運ぶ行為を止めることができない。一口、また一口と私の体の中を緑が覆っていく。するとどうだろう。それまで突きつけていたその手は、気づくと懐かしい母親の手に変わっていた。まどろみの中で微かに覚えている、母親のその手の温もりは、私達をまだ見ぬ故郷へと誘う。腹の中の緑の異物は、人類が生まれた故郷の森へと姿を変える。そしてその森の中で私は、心地よい南国の音色と共にうたた寝の続きを始めるのである。


   最近SNSなどで見かける文学を謳った文章は、こういうとにかく長ったらしく回りくどい表現を用いてばかりだと思います。ただパクチーを食べたということを伝えるためだけでも、やろうと思えばこれだけ回りくどく胡散臭く書くことができるのです。難しい言葉や表現を使っておけば良い文章に見えるだろうという浅はかさが私は大嫌いです。良い文章とは、難しい表現をただ使った文章ではなく、その時伝えたい感情や情景を的確に伝えられる文章だと常々思っています。


   宇多田ヒカルの曲に、「パクチーの唄」という曲があります。「パクチーぱくぱく」という歌詞が曲の大部分を占めている、彼女の楽曲の中では随分と異質な雰囲気を持つ作品です。この曲には、その裏に何かメッセージ性とか、そういった大層なものが内包されているわけではは全くなく、ただただ宇多田ヒカルがパクチーが好きすぎて思わず作ってしまった曲だと言われています。
   私は、この「パクチーの唄」の歌詞はとても良い文章だと思います。「最後のキスはタバコのflavorがした」なんて洒落た歌詞を書くことができる宇多田ヒカルが、パクチーの前ではひたすらにパクチーぱくぱくを連呼することができないという様が、彼女がどれだけパクチーに夢中になっているかを簡単に私たちに想像させてくれるからです。小洒落たフレーズも、回りくどい表現も使われていませんが、その歌詞は間違いなく私たちにパクチーの魅力を存分に伝えてくれています。


  私は、パクチーがどちらかといえば嫌いです。別にこの世になくてもいいからです。なくても美味しい料理に不必要なものをぶっかけて微妙な味にするという、南国のアホが考えたアレンジレシピだと思っています。しかし、「パクチーの唄」を聞いてみると、たまにはパクチーでも食べてみようかな、という気分になるから不思議です。良い文章とは大抵こういうもので、文章としてではなく、自分自身の心情に直接入り込んでくるのです。
   数日経って私は、結局タイ料理屋に足を運んでしまいました。その店は、パクチーを無料でいくらでも頼み放題でした。好きでもないのにあえてカオマンガイの上に山盛りで乗っけてみました。いつも通り微妙な味でした。ぱくぱくなんて出来ませんでした。ただ、いつもよりもほんの少しだけ良い気分になったような気がしました。


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