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『花と嵐』のこと

 分厚いなあ、と思う、我ながら。
 このお話を書き始めたのは二十代後半だった。だいたい完成かといったん終わりにしたのが三十代だ。
 どこかで書いたことがあるけれど、わたしの三十代は少し病んでいた。
 わたしはあまり賢くないのでちゃんと病むこともできず病んだふりになってしまう人間だ。心の病を得てしまうのはときとして、繊細な神経と鋭利な知性があるゆえなのだろうと思う。愚鈍なわたしはなにごとにつけ中途半端だが、三十代はその中途半端がよっぽどひどかった。

 振り返れば当時はどうにもならないいかりに支配されていた。他者に向けられた瞋りが翻って自分を攻撃する直前まで、周囲に対していびつな撒菱まきびしを投げつけていた。しかしそれは弱く、ふわふわとして透明な撒菱で、ほとんどの人は気づかない。特に最もわかって欲しいひとには完全無効な攻撃だった。カサンドラの声のように無視される言動の数々に、いつしかわたしは弱っていった。こんなに訴えているのに、という思いは、自分が悪いという思いに変わった。自分を攻撃し始めたら闇は目の前だ。
 わたしは未熟だった。でもしかたがない。若さに成熟を求めてどうするのだと最近思う。若さには若さの利点がある。それは失われてはじめて気づく。あの頃わたしは、なにか別の決心をすればよかった。いまならそう思う。できなくなってからそう思う。

 『花と嵐』は、自分を持て余していた時期に書いた物語だ。現実の自分が軽んじられ、無視されて、存在が希薄になっていく中で、全く反対の人物像だったらどうなるのだろうと思って書いた。どんな逆境に陥っても、注目され、愛され、大切にされる女。特別な美貌ではないのに(とはいえある程度綺麗な人じゃないと自分が納得できないから可愛い容貌には設定した)、ちやほやされている女性。幸せなのだろうか。不幸なのだろうか。
 当時のわたしには、幸か不幸か、そんな尺度しかなかった。自分が考えていた理想と違う現実を、どう受け止め、どう人生に落とし込んでいくか模索する中で、逃げ込むようにこの物語を書いた。

 この物語を書いたことがセラピーとなり、わたしは癒されました、という話は単純明快でいい。現実はそんなに簡単なものではないけれど、それでもたぶん、これを書いたことでわたしは多少なりとも救われたのだと思う。

 恋愛とは「囚われる」ということなんだと思う。自分が自分に罪を着せ、牢獄にぶち込む行為。それは「執着」という罪で、執着しているものはつねにはっきりしない。たいていは恋愛対象の「相手」だと思っているけれど、違う。それは相手に投影した「なにか」なのだ。執着と幻想がリアルに影響するほどにまでなると、丑の刻参りとか、ストーカーとか、そういった極端な行動になってしまうのだと思うが、大なり小なり多くの人がそういった体験をするから、恋愛小説というのはつねになんらかのさざ波を心に起こすのだろう。

 その「なにか」を、わたしはこれを書くことでおぼろげに感得した。少し楽になった。こうして今五十代になり、自認する性から少し距離を置けるようになって、すがすがしくこの物語を読むことができる。書いた当時は自分から遠いと感じていた主人公は、人生に悩むひとりの女の子としてひどく愛しい。

 「囚われ」は、わたしの書く物語全般の中核をなすテーマになっている。わたしは小説を書くことで、自分自身を発見した。

 自分のために小説をかくことを自慰行為というひともいる。「読まれない小説、他人の目に触れず、他人を楽しませることができない小説などただの自慰」。しかしそう言う人は「本当に」小説を書いたことがあるのだろうか。「だれかのため」「読者のため」「社会のため」「多くの人に読まれ共感される物語」。それは確かに必要な目線ではある。でも、絵を描く、物語を書く、音楽を作る、歌う、踊る、それらは自分を慰めもするが、なによりもプリミティブでクリエイティブな自己表現だし、他人がいいというかどうかは関係がない。

 だからもちろん、この物語を人に押し付ける気は、毛頭ない。
 本という形にして、共同書店に置きはする。手に取って読んでくれたら幸せだと思うけれども、最終的には自分の手元に置き、老後を楽しむために作っている。

 少し前までは、もっと知って欲しい、もっと読んで欲しい、と思っていた。でも今は、わかってくれる人が少しでもいたらそれでいいと思うようになった。銀河のような書店に行けば星の数ほど本はあり、その本でさえ、読みたくても読めない本が多いという現実がある中で、わたしの本には宇宙のデブリほどの価値もない。

 読んでみたら面白いですよ、意外とさっくり楽しく読めますよ、と、これまでは宣伝してきた。わたしの本が、いくばくかの小さなさざ波を、読んだ人の心に届けられればいいなと思っていた。
 でも、もうそういうのはいいかなと思っている。

 誰かに何かを届けるなんて、おこがましい。
 自分以外の誰かの心を動かそうなんて、傲慢もいいところだ。
 感動とは、相手にお願いしたり、届けたりしなくても、相手の心が勝手に「動いてしまう」ものなのだから。動く人は動くし、動かない人は動かない。自分が能動的にどうにかできるものではない。

 時々、ぱらぱらとめくって読む。
 主人公の幼馴染が、主人公にかける言葉に肩の力が抜ける。

「花だって咲けば散る。どんな激しい嵐だって終わらないことはないんだ。恋だって同じ自然現象なんだから仕方がないよ。始まりがあれば終わりがある。でもまた季節がめぐれば花が咲くし、予告なくまた嵐もくるんだ。それをどうのこうの言っても仕方がない」

 彼は、来年の今頃には今悩んでることなんてどうでもよくなって別のことに気を取られてるよと言う。小説の中では、現実と同じようにもちろんそうは問屋が卸さず(笑)、登場人物たちは右往左往するのだが、わたしは結構ここが好きで、何回も読む。

 ここで諦めていればよかったのにね、と思ったりしながら。
 でもどういうわけか、諦められない。
 諦められないから、苦しむんだよね。

 シリーズを第一世代からのクロニクルとして読みたい、というかたには、それぞれの世代が独立していて、なおかつリンクしているというのは、謎かもしれない。こういう形式を、サーガ、と言ってくださるかたもいるし、形式に関係なく、ひとつひとつの作品をそれぞれに楽しんでくださるかたもいる。
 デブリ以下の私の本を、こんなふうに愛してくださったかたがたがいたことが、人生の終わりにはきっと誇りになるだろう。無為で無謀で無駄な今の自分の行動に、感謝しながら人生を終えられるのは、幸せなことじゃないかと今から思っている。

 次回の青音色に寄稿する物語を書くにあたって、四十万字ほどのこの物語でも『春告鳥(全六巻)』でもやっている「物語イン物語」を二万字以下の短編で挑戦したいと思っていた。短篇でも行けるな、と思ったのは『花と嵐』でやっていたからだと、改めて思う。そうした構造的な部分でも、『花と嵐』は私にとってはエポックメーキングな物語だった(白鉛筆さん、ターニングポイントはこれだったかもしれません)。