「シス女性」という言葉はどこから来たのか――「2ちゃんねるで言い始めた」に近い語源

「シス女性(cis woman)」という言葉を、昔から存在する女性の分類名のように受け取っている人もいる。

しかし、その歴史はかなり新しい。

乱暴に日本に置き換えて言えば、

「1990年代のネット掲示板で使われ始めた言葉が、その後、研究者や活動家に採用され、一般社会にまで広がった」

という経緯である。

感覚としては、「2ちゃんねるの特定板で誰かが言い始めた言葉が、何十年か後には大学やメディアでも使われるようになった」にかなり近い。

もちろん、実際の舞台は2ちゃんねるではない。

「cisgender」の最古級の用例は1994年のUsenet


Oxford English Dictionary が初期の用例として挙げ、American Historical Associationも紹介しているのが、1994年5月に Usenet のニュースグループ「alt.transgendered」に投稿された文章である。[1]

Usenetとは、現在のSNS以前に使われていたインターネット上の分散型掲示板システムである。

ミネソタ大学の大学院生だったDana Leland Defosseは、トランスジェンダーをめぐる研究について協力を求める投稿の中で、

attitudes of the queer community and cisgendered people

という表現を使っている。[2]

つまり、現在広く使われる cisgender の確認できる最古級の英語用例は、学会による定義でも、医学界による命名でも、法律用語でもない。

1990年代のトランスジェンダー関連のUsenetニュースグループへの投稿だった。

この意味で「ネット掲示板発祥」という説明は、単なる悪口ではなく、かなり実態に近い。

なぜ「cisgender」という言葉を作ったのか


Defosse本人は2023年、自分が1994年にこの言葉を作った経緯を説明している。[3]

当時、

* transgender
* normal
* non-transgender

などと分類すると、「transgenderではない側」を暗黙に「正常」と位置づけ、transgender側を「それ以外」にしてしまう。

そこで、trans に対して対称的な cis という語を置いたという。

cis- と trans- はもともとラテン語由来の対になる接頭辞で、化学などでも以前から使われていた。

したがって、

「cis」という接頭辞そのものが1994年に発明されたわけではない。

ここは区別しておく必要がある。

「cis」は昔からある。しかし「cisgender」は新しい


語源を整理すると、次のようになる。

cis- / trans-

ラテン語由来の古い接頭辞で、「こちら側」「向こう側・越えて」といった対立関係を表すため昔から使われてきた。



cissexual / zissexuell

ドイツの性科学者Volkmar Siguschが1991年の論文で使用したことが確認されている。[4]



cisgender / cisgendered

1994年、Dana Leland DefosseによるUsenetの「alt.transgendered」への投稿で確認される。[1][2]



cis woman / cisgender woman

cisgenderという分類を「woman」に適用した表現。

つまり、

「cisという語は古い」ことと、「cis womanという女性分類が古くから存在していた」ことは全く同じではない。

ここを一緒にしてはいけない。

「シス女性」は女性自身が歴史的に使ってきた名称ではない


「woman」「female」「女性」の歴史と、「cis woman」の歴史には大きな違いがある。

女性は、人類社会において昔から認識されてきた性別カテゴリーである。

一方で「cisgender」は、

transgenderというカテゴリーを基準に、その反対側にも名称を与える

という発想から生まれた言葉である。

つまり、「シス女性」は、

女性という既存カテゴリーの内部から自然発生した自己名称ではなく、transgender/cisgenderという新しい分類体系を女性に適用することで成立した名称


なのである。

これは語の善悪とは別の、単純な歴史の問題である。

「シス女性」という分類を使うこと自体が、ある理論を前提としている


ここでもう一つ重要な問題が出てくる。

「シス女性」という言葉は単なる「女性」の長い言い換えではない。

cisgenderを一般的な定義どおり、

「出生時に割り当てられた性別とジェンダーアイデンティティが一致している人」

という意味で使うなら、「cis woman」と呼ぶためには、その女性について、

1. 女性という生物学的性別とは別に「ジェンダーアイデンティティ」というものが存在する
2. その女性も何らかのジェンダーアイデンティティを持っている
3. それが女性という性別と「一致」している

という前提を置くことになる。


したがって、「シス女性」は完全に中立的な「女性」の同義語ではない。

特定のジェンダー分類体系の中で作られた言葉なのである。


「私は女性だが、自分を『シス女性』とはidentifyしない」という人がいても、それ自体は歴史的に何ら不思議なことではない。

女性という言葉のほうが、「シス女性」よりはるかに古いからである。

「2ちゃんねるで言い始めたようなもの」は、どこまで正しいか


もちろん、Usenetと2ちゃんねるは同じものではない。

また、cis-という接頭辞そのものにも、それ以前の長い歴史がある。

したがって、

「誰かが2ちゃんねるで突然cisという語を発明した」

という意味なら間違いである。

しかし、

「現在では学術文献やメディアでも使われている『cisgender』という英語表現の最古級の確認例は、1994年のトランスジェンダー関連ネット掲示板への投稿である」

という意味なら、かなり正確である。

むしろ興味深いのはここだろう。

今では、まるで最初から社会に存在した客観的な人口分類のように

「シス女性」
「シス男性」
「トランス女性」
「トランス男性」

という四分類が使われることがある。

しかし、その分類体系そのものに歴史がある。

言葉が広く使われるようになったことと、その言葉が表す分類体系まで自明の事実になったことは同じではない。

「シス女性」という言葉を見るときには、その言葉がいつ、どこで、何のために作られたのかまで遡って考える必要がある。


引用元・参考文献


[1] American Historical Association, “Tracing Terminology: Researching Early Uses of ‘Cisgender’,” Perspectives on History, May 22, 2017.
American Historical Associationの記事

[2] Dana Leland Defosse, “transgender research,” alt.transgendered, Usenet, May 1994.
1994年のUsenet投稿(Google Groups保存)

[3] Dana Defosse, “I Coined The Term ‘Cisgender’ 29 Years Ago. Here’s What This Controversial Word Really Means,” HuffPost, February 18, 2023.
Defosse本人による2023年の回顧記事

[4] Volkmar Sigusch, “Die Transsexuellen und unser nosomorpher Blick,” Zeitschrift für Sexualforschung, 1991, Teil I, Heft 3, p.225; Teil II, Heft 4, p.309.
Zeitschrift für Sexualforschung 総目次

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