「女性のジェンダーアイデンティティ」「男性のジェンダーアイデンティティ」は証明されていない
ジェンダーアイデンティティをめぐる議論には、しばしば一つの大きな前提が置かれている。
それは、
「すべての人にはジェンダーアイデンティティがあり、女性には“女性のジェンダーアイデンティティ”、男性には“男性のジェンダーアイデンティティ”がある」
という前提である。
しかし、ここで区別しなければならないことがある。
ジェンダーアイデンティティという概念を「定義すること」と、そのような心理的属性がすべての女性・男性に存在することを「実証すること」は、まったく別である。
「定義」は「証明」ではない
米国心理学会(APA)は、ジェンダーアイデンティティを、自分自身のジェンダーについての内的な感覚として説明している。たとえばAPAの用語集では、「男性、女性、その他であるという内的な感覚」と説明されている。[1] (アメリカ心理学会)
またAPAのInclusive Language Guidelinesでは、ジェンダーアイデンティティはすべての人に適用される概念である、と明示している。[2] (アメリカ心理学会)
しかし、ここで重要なのは、
「APAがそのように定義している」ことは、「すべての人の中にその心理的実体が存在することが実験や観察によって証明された」という意味ではない
ということである。
辞書にある概念の定義と、その概念が人間に普遍的に存在するという経験的命題の証明は別問題だ。
「私は女性だと知っている」と「女性という内的感覚を持っている」は同じなのか
女性が自分を女性だと認識していること自体は不思議ではない。
自分の生物学的性別を知っているからである。
しかし、
「私は女性であると知っている」
という認識から、
「私の内部には“女性であるというジェンダーアイデンティティ”という、生物学的性別とは独立した心理的属性が存在する」
という結論が自動的に導かれるわけではない。
この二つは別の命題である。
2026年に Acta Paediatrica に掲載されたMikael Landénの論考も、この概念上の問題を指摘している。Landénは、ジェンダーアイデンティティが法的・臨床的に大きな意味を持つようになっている一方で、その定義はなお不明瞭であり、「gender」そのものを独立に定義しないまま「自分のgenderについての内的感覚」と定義されることが多いため、操作的に扱いにくいと論じている。[3] (Wiley Online Library)
さらにLandénは、多くの人は自分が男性または女性であることを知っていても、それを独立した「アイデンティティ」として経験しているわけではない、と論じている。[3] (Wiley Online Library)
これは非常に重要な指摘である。
実際の自己申告にも大きなばらつきがある
「出生時の性別とジェンダーアイデンティティが一致している」と分類された人々が、全員同じような「男性としての感覚」「女性としての感覚」を報告しているわけでもない。
JacobsonとJoelが4,756人を対象に行った2018年の研究では、いわゆるcisgenderと分類された参加者についても、ジェンダーに関する自己申告にはかなり広いばらつきが確認された。[4]
たとえば参加者の38%が何らかの程度で「反対のgenderのように感じる」と回答し、39%が反対のgenderでありたいと感じた経験を報告し、35%が反対の生物学的性別の身体を望んだ経験を報告している。[4] (PubMed)
別の研究でも、cisgender、transgender、gender-diverseと分類された各集団の内部に幅広いジェンダー経験があり、集団間にも重なりがあることが報告されている。[5] (PubMed)
もちろん、これらの研究だけから「ジェンダーアイデンティティは存在しない」と結論することもできない。
しかし少なくとも、
「女性には一様な“女性のジェンダーアイデンティティ”があり、男性には一様な“男性のジェンダーアイデンティティ”がある」
という単純なモデルを、そのまま実証済みの事実として扱うことには慎重であるべきだろう。
「トランスジェンダーの人が経験する」ことから「全員が持っている」は導けない
ここにはもう一つ論理的な飛躍がある。
ある人が、
「私は女性だという強い内的感覚を持っている」
と語ることはあり得る。
その経験を本人が「ジェンダーアイデンティティ」と呼ぶこともできる。
しかし、
一部の人がそのような内的感覚を経験すると報告することと、すべての人間に同じ種類の心理的属性が存在することは別である。
Aという経験を持つ人が存在することから、
「Aは全人類に存在し、自覚していない人にも必ず存在する」
とは証明できない。
ところが現在のジェンダーアイデンティティ理論では、ここが逆転することがある。
女性が、
「私は“女性という内的感覚”なんて特に感じたことはない。単に自分が女性だと知っているだけだ」
と言っても、
「あなたにもジェンダーアイデンティティはあります。それが生物学的性別と一致しているから意識しないだけです」
と説明できてしまう。
しかし、それでは反証が非常に難しい。
「感じる」と答えればジェンダーアイデンティティの証拠。
「感じない」と答えても、「一致しているから感じない」というジェンダーアイデンティティの証拠。
これでは、理論の前提そのものを検証することが難しくなる。
「女性のジェンダーアイデンティティ」を先に仮定してはいけない
さらに、
1. 女性には「女性のジェンダーアイデンティティ」があると定義する
2. 女性を「女性のジェンダーアイデンティティを持つ人」と分類する
3. その分類を根拠に「女性には女性のジェンダーアイデンティティがある」と説明する
のであれば、これは実証ではない。
最初に置いた前提を、後から証拠として使っているだけである。
「出生時の性別とジェンダーアイデンティティが一致する人」というカテゴリーを作るためには、まず「その人には、生物学的性別とは別にジェンダーアイデンティティが存在する」という前提が必要になる。
だからこそ、
「cisgenderというカテゴリーが存在する」こと自体を、「すべての女性・男性にジェンダーアイデンティティが存在する証拠」として使うことはできない。
カテゴリーの定義の中に、すでに結論が含まれているからである。
問うべきなのは「何と定義されているか」ではなく「何が実証されたのか」
ジェンダーアイデンティティという概念を、自分自身の経験を説明するために使う自由と、
「すべての人間には必ずジェンダーアイデンティティが存在する」
という一般命題を社会全体の前提にすることは、分けて考える必要がある。
現時点で慎重に言えるのは、
ジェンダーアイデンティティと呼ばれる内的経験を報告する人がいることは研究対象になっている。
しかし、
「すべての女性には“女性のジェンダーアイデンティティ”があり、すべての男性には“男性のジェンダーアイデンティティ”がある」という普遍的命題までが、それによって証明されたわけではない。
ということである。
ジェンダーアイデンティティを社会制度の基礎概念として使用するのであれば、まず必要なのは、
「ジェンダーアイデンティティとは何か」
だけではない。
「それがすべての人に存在すると、どのような方法で確認したのか」
という問いである。
定義を繰り返すことは、証明にはならない。
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引用元・参考文献
[1]American Psychological Association, “Defining transgender terms,” Monitor on Psychology, 2018.
https://www.apa.org/monitor/2018/09/ce-corner-glossary
[2]American Psychological Association, Inclusive Language Guidelines, “gender identity.”
https://www.apa.org/about/apa/equity-diversity-inclusion/language-guidelines
[3]Mikael Landén, “Sex, Gender and Gender Identity: A Case for Conceptual Clarity,” Acta Paediatrica, First published 13 July 2026. DOI: 10.1111/apa.70686.
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1111/apa.70686
[4]Roi Jacobson & Daphna Joel, “An Exploration of the Relations Between Self-Reported Gender Identity and Sexual Orientation in an Online Sample of Cisgender Individuals,” Archives of Sexual Behavior, 47(8), 2407–2426, 2018. DOI: 10.1007/s10508-018-1239-y.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/29971652/
[5]Roi Jacobson & Daphna Joel, “Self-Reported Gender Identity and Sexuality in an Online Sample of Cisgender, Transgender, and Gender-Diverse Individuals: An Exploratory Study,” 2018.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/30332297/
注
本稿は、「ジェンダーアイデンティティという経験を語る人が存在しない」と主張するものではない。論点は、個々人の自己報告の存在と、「すべての女性・男性がそれぞれ固有のジェンダーアイデンティティを必ず持つ」という普遍的命題の実証とは別である、という点にある。
