全校朝会の、壁際で
先日、部署の半期の報告会があった。いくつかのチームが、それぞれの半期の報告と、これからの方針を話す会だ。普段はオンラインだが、半期に一度のこれは、基本リアル参加になっている。
私は管理者の側にいるが、部下のいるチームは持っていない。部署を横断するようなテーマ——AIの活用を進めるとか、そういう役回りで、必要に応じて報告したり、意見を言ったりする。
三十人ちょっとが、ホールのような会場に集まる。正面に大きなスクリーン。メンバーはそれを見て、発表を聞く。マネージャー陣は、その横から眺めるように座っている。だから私の位置からは、彼らを、横から眺めることになる。
——これは、全校朝会だ。ふと、そう思った。
体育館で、正面の壇上を見つめる生徒たち。それを、壁際に一列に並んで見守る先生たち。あの光景。
発表のあと、質問を受け付ける。あまり手が挙がらないと、私があえて聞いたりする。本当にわからなくて教えてほしいこともあるが、それだけじゃない。三十人もいれば、すべての報告が誰にでも伝わるわけじゃないから、わざと噛み砕いて「こういうことですよね?」と確かめたり、「こういう観点で考えるといいかも」と添えたり。キャラもあるので、少し冗談っぽく、答えやすい空気にする。
上の立場の人間から質問されると、緊張度が上がるだろう。普通のメンバーからの質問より。
わかっていないことを聞かれて、「わからない」と言えずに、それらしいことをあれこれ並べるが、答えになっていない——そういう場面がある。本当は、まず「わからない」と言ってしまってから、「でも」と続ければいいのだ。でも、これが意外とできない。
わかっているのに、うまく言えない場面もある。緊張もあるだろう。質問した相手にだけ答えるのではなく、会場全体に向けて話す、というのは、即妙にはなかなかできない。
そういうのを越えて、場数を踏んでいくのも、彼らの経験なのだと思う。
——そう思っている時点で、私はもう、すっかり親心というか、先生の立ち位置で、彼らを俯瞰している。子どもと先生ほどの、歳の差はないのに。
その日、私はAIの話を少しした。
わかっている人、わかっていない人、興味のない人。いろいろいたと思う。喋りながら、ふと、校長先生の気分になっていた。「君たちが大人になる頃には」と語る、あの感じ。一方的に喋る大人と、反応のない生徒。どこまで届いているのか。当の本人は、早く終わらないかな、今日の給食は何かな、くらいに思っているのかもしれない。
私が伝えたかった——いや、伝えたかった、というほど整理されてもいなかったが——危機感は、たぶん昔の「これからはパソコンくらい使えないと」とか「ネットで仕事するのが当たり前になる」みたいな、十年二十年かけた変化の話ではない。コロナがそうだったように、どこかで戦争が起きたように、ある日、当たり前が当たり前でなくなる。前提そのものが、変わる。準備が間に合わないどころか、した準備すら無駄になるかもしれない。そういう、落ち着かなさだ。
ここで、ひっかかる。
彼らは、生徒じゃない。大人だ。自分で考えて、自分で人生を決められる大人だ。人生なんて、運や、出会いや、どんなコミュニティにいたかや、いろんなものでできていく。仕事は、その材料のひとつにすぎない。——そういうことを、本当は言いたかったのかもしれない。AIの話に、かこつけて。いや、かこつけていた、と気づいたのは、あとからだが。
でも、それは言えない。立場上、人生の訓示みたいなことは。校長先生なら、言えるのか。いや、会社のこの関係で、そこまで言う必要はない。言えば、おせっかいだ。
でも、大人なら、そこまで読み取ってほしい、とも思う。
その沈黙が、わからない。「会社の上司が、また何か言ってるな」なのか。「これは、たぶん会社の話じゃないぞ」と聞けているのか。わかっていての沈黙なのか、ただの仕事上のアドバイスとして聞き流しているのか。横から眺めていても、判別がつかない。小学生の沈黙と、何が違うのか。
もどかしい。と思いつつ、知ったこっちゃない、とも思う。
そもそも、私が偉そうに言える立場なのか、という話でもある。
部署の中では、たしかに私はAIがわかっている方だ。でも一歩外に出れば、私くらいの感覚の人なんて、いくらでもいる。
それに——これは書いていて気づくのだが——行き急いでも仕方ない、とも思う。不確実な未来に、ある意味、鈍感でいるほうが、結果的に正しかったりする。慌てた人ほど、無駄な準備をして消耗するのかもしれない。
ただ、その鈍感さが、意図して選んだものなら、いい。そうじゃなく、ただ何も考えていないだけなら、それは結果論だ。——でも、それも、外からは見分けがつかない。わかっていての沈黙か、上の空か、判別がつかないのと、同じだ。
で、もうひとつ思ったのは、カルチャーのことだ。
朱に交われば、という言葉がある。素養がある人は、たぶんいる。でも、周りの鈍感さに、寄せられて、薄まっていく。場の空気が、個人の解像度を、上書きしていく。
手を挙げる人は、だいたい決まっている。その人たちがAIに詳しいかというと、必ずしもそうじゃない。でも、何か意識のようなものは、ある気がする。詳しいかどうかじゃなくて、突っ込まれることを引き受けられるかどうか、なのかもしれない。
人は、突っ込まれることで、強くなる。自分で口に出すことで、自分の言葉に責任を持つ。普段の会議でも、意識があって、ちゃんと考えている人ほど、大勢の前ではかえって話さなかったりする。——まあ、私も人のことは言えないのだが。
朱に交わって、流される。あるいは、引き受けて、自分の言葉を持つ。その昔ながらの分かれ道が、AIなんていう、得体の知れない大きなものの前でも、何も変わらずに、同じように起きている。
こうして書いていると、いかにも何か深く考えていたみたいだが、その場で、こんなことを順序立てて思っていたわけじゃない。あとから振り返ると、そういう整理も「できる」というだけだ。先生と生徒の構図も、朱に交わればの話も、たぶん半分は後付けで、いろんな思いが、繋がっているような、いないような感じで、ただ錯綜していた。
それでも、ひとつだけ。
三十人ちょっと。世の中の、AIに敏感な層とは、少し違う人たち。だから、たぶん、刺さらない。
でも、この中の数人くらいは、わかっているのかもしれない。
そう思って、私はまた、壁際から、彼らを眺める。
