今朝、パンツがなかった
今朝、大変なことに気づいた、パンツがない。
パンツ、そう大事なところを保護する、あれだ。
困った、パンツがないと、家を出られない。
昨日、不覚にもお漏らしをして、汚れたパンツは洗面所に置かれている。
残りのパンツがあるはずなのに、ない。
あるあるだ。
いつもと違うことが起きると、いつもと違うことをしてしまうやつ。
スマホがない!
スマホどこ行った!
とひとりごとを言っては、家中探して、見つかった場所が、なぜか普段は置きもしない食器棚の上だった、みたいな。
食器棚の上の埃がたまたま気になって、拭いたときに、そこにスマホを置いてしまっていたとか。そんなオチだ。
そう、予期せぬ行動をすると、それにつられて、ルーティンが崩される。
きっと、昨日のお漏らし事件があったことで、明日履いていくパンツについて考えた結果、何かいつもと違うことを考えて行動に移し、パンツの置き場所を変えてしまったに違いない。
パンツを家中探したのだが、どうしても見つからない。
いつものクローゼット、いつもの引き出し。
洗面所、寝室、トイレと、君の姿を探してみた。
冷蔵庫の中、そんなとこにいるはずもないのに。
あと10分もしたら、家を出ないといけない、本当に困った。
もう、これはノーパンおでかけするしかない。
そもそもパンツは必要なのか。パンツはなんで存在するのか。
そもそもパンツがなくたって、ズボンを履いていれば、誰もわかりやしない。
もし、排泄物が染み出すような事態になれば一大事だが、すでに昨日やらかしているではないか。
そんなコロナみたいなパンデミックは連日起きない。
ティッシュだ、ティッシュを前と後ろに挟もう。
そうすれば安心安全、ナプキン的、ワクチン的、ラクチン的な感覚で。
機能的なことはそれで足りても、そんな自分を許せるのかって。
そもそもパンツなんか、そこまで重要じゃない。
日常生活で、誰もお前のパンツを見やしないし、想像もしない。
人はパンツという概念に縛られているだけなのだ。
そう考えれば、 私はもう半分、履いていると言える。
そう、世の中からパンツがなくなっても、死にやしない。考えてみてほしい、むしろ。
——もし本当に、この世からパンツが消えたら、どうなるのかを。
おそらく、こんな世の中だ。
巷では昔のヒット曲「もしもパンツが履けたなら」がリバイバルヒットし、街では、パンツが履けないなら、いっそのこと食べてしまえと、「食べられそうで、食べられやしない、少し食べられそうなパンツ」や「香ばし旨い! おかずパンツ」が飛ぶように売れている。そんな世の中だ。
テレビをつければ、「朝まで生ふんどし」で、存在意義を問うている。
パンツとはなんなのか、下着とはなんなのか。ふんどしはOKなのかと。
司会者がふんどしで登場し、「これはパンツではない!」と怒鳴っている。
パンツ=下着と考えるなら、ふんどしもパンツの一種と考えるべきだろうと、若き論客たちが司会者のふんどしを剥ぎとろうと必死だ。
司会者は頑として、ふんどしだけは譲らない。
司会者のパンツ観は、もはやテレビの尺にも、ふんどしにも、収まりきっていない。
そして、ついに「生成パンツ」なるものが登場し、人間のパンツを超えるとも言われている。
膨大なパンツのデータをもとに、業務改善から人生の悩みまで答え、あたかもそこにパンツがいるかのように振る舞い、いずれパンツも人格を持つという。
そして人格を持ったパンツは、自分でパンツを生成しはじめる。
生成されたパンツもまた、パンツを生成する。
やがてパンツはパンツを履くようになり、人間の出る幕はない。
そうなれば、我々はもう、パンツを履くことを考えることすらなくなるのかもしれない。
いや、いや、いや、いや、
違うんだ、そういうことじゃない。
こんな妄想をしたところで、やっぱり君が必要なことには変わりはない。
でも、君はいない。
わかっているんだ、次に進むしかないってことを。
旅立ちの時は来た。
僕はおもむろにティッシュを挟む。
前に、後ろに。
