鼻を鍛える。 ー 働かなくていい時代
「えっ!?」
声にできない吹き出しが、車内を満杯にしていた。
マグロ級のでかい鼻、血合いの赤、横綱級。
片手スマホの視線の先は、私の目の前に立っている男。
羨望の眼差しを受け続けている。
大きないちご鼻、完熟前の赤、小結級。
小さい頃は、こいつがコンプレックスだったが、人生わからないものだ。
みんな口にはしないが、私のモノなら、余裕だと思っているのだろう。
だけど、昨年の選挙では、ものの1秒で白票を投じてしまった。
彼もそうかもしれないと、見上げては、私は視線を落とした。
お金の価値が下がり、身体的痛みが価値をもつ時代。
勤労の義務がなくなり、洗濯ばさみを鼻に挟むという義務が国民に課された。
働かなくていい、学歴もいらない、幸せな人生に必要なのは鼻の強さだ。
昨年、国会では、洗濯ばさみ業者との癒着問題で紛糾。
与党は一転、「洗濯ばさみのバネの強さを見直す」公約を掲げ、急な解散に打って出た。
国会前では「NO MORE NO NOSE」のデモ。
最高裁では、都道府県による、洗濯ばさみの痛み格差の訴えを却下。
投票率90%超え確実。
鼻、鼻、鼻。
そんなニュース一色。
社会に緊張感が走る。
ティッシュを突っ込んでる、学生たちの鼻
ゴリゴリの跡がついた、コンビニ店員の鼻
厚塗りしている、後輩女性の鼻
カサカサの、見知らぬおじいちゃんの鼻
友人はジムで、鼻フックで1リットルのペットボトルを持ち上げている
すごデキ上司は、毎朝ジョギングで、鼻でタイヤを引きずっている
どこかでいつも鼻が語っている。
私は、家族にトイレに行くことを宣言し、トイレの扉を閉めた。
便座に腰を下ろし、戒めの瞑想をする。
ー12月
寒い冬空のもと、近くの小学校にある投票所に足を運ぶと、
赤い鼻のトナカイの行列ができていた。
最後尾に並んで、少しずつ進む中、
時折聞こえる「ゔぁ〜」といった叫び声、
「痛い!痛い!」という甲高い声、
近づくにつれて、大きくなり、緊張感が増してくる。
ようやく順番が来て、投票用紙を受け取り、記載台に向かう。
向こうの箱から、一人の男性らしき人のうめき声がはじまった。
私はそれを聞きながら、「チーム鼻腔」と書いて、投票箱に入れた。
次に、最高裁判官の国民審査の用紙を受け取った。
まだ、うめき声が続いている。
長いな。
痛みの格差を却下した、裁判官に×をつけようと思ったが、
その裁判官の名前が思い出せなかった。
「ふぅ、やったぞ」
箱から出てきた男性の安堵と満足が混じった声が聞こえた。
「おつかれさまでした」
立会人が声をかけている。
次は私の番だ。
焦って、もうどうでもよくなり、ぱっと目に入った「伊丹苦留蔵」に×をつけた。
審査用紙を投票箱に入れ、いよいよ洗濯ばさみを受け取った。
頑強な作りのそれを見て、緊張がさらに高まる。
私は箱に入り、洗濯ばさみを、はさみ人に渡した。
「よろしいですか」
「ちょ、ちょっと待ってください」
テンポの速さに戸惑い、気を取り直す時間が欲しかった。
立会人が静かに私を見つめている。
一呼吸おいて「お願いします」と伝えた。
はさみ人は、立会人と目を合わせた後、
私に目を合わせないまま、私の鼻に洗濯ばさみをはさんだ。
「0.86秒です」
一瞬だった。
痛いと思った瞬間、反射的に洗濯ばさみを外してしまい、
自慢の鼻の見せ場もなく、情けない気持ちでいっぱいだった。
「おつかれさまでした」
少しの沈黙の後、立会人が事務的にそう言った。
ー 立ち上がって、ポケットから、洗濯ばさみとハンカチを取り出した。
鼻にハンカチをあてながら、洗濯ばさみで何度も挟んだ。
執拗に挟んだ、いきんで挟んだ、リズムをつけて挟んだ。
気を紛らすために、スクワットもしながら、変化をつけて。
繰り返し、繰り返し、繰り返し。
スマホのカメラで、完熟度合いを確かめて、
ゔっ、ゔっ、ゔっ
「ご飯できたよー」
「パパ遅いね」
妻と息子の声が聞こえる。
もう行かなくては。
いつものように、トイレットペーパーを3回カラカラさせて、
大のつまみを2度跳ね上げて、鍵をひねった。
赤い鼻をさすりながら、私はドアを開けた。
