「まどろみの時間が与えてくれた日」
僕の名前は久保康二。高校二年生。
隣の席には、坂田豊子さん。静かで、あまりしゃべらないけど、笑った顔がたまらなく印象に残る。
今日も午後の現代文は眠気との戦いだった。ふと目を閉じて、ほんの数秒、まどろみに落ちたはずだった。
——カタン。
軽い音に目を覚ますと、視界の端に、豊子さんの顔があった。
しかも、こっちを向いて、寝ていた。
その表情は、いつもの無表情とはまるで違っていた。まつ毛が長く、口元がほんのりゆるんでいて、なんだか……すごく無防備だった。
思わず、時間が止まったように感じた。こんな顔、誰にも見せてないんじゃないか。そんなことを思って見つめていたら——
ふいに、ぱち、と彼女の目が開いた。
「……」
「……」
見つめ合ったまま、ほんの一瞬の沈黙。
僕は、どんな顔をしていただろう。慌てて目を逸らそうとしたそのとき、彼女は、ふわりと笑った。
そして、照れくさそうに机に顔をうずめた。
その日から、僕たちは少しだけ話すようになった。
「昨日の英語、宿題やった?」
「ここ、ノート写していい?」
それは、本当にちょっとした会話。だけど、それまで一言も交わさなかった僕たちには、革命だった。
教室の窓から風が吹き込む午後。
ノートを貸すふりをして、彼女の指先に触れた瞬間、心臓が跳ねる。
お弁当の時間、偶然一緒になった購買列。
「このメロンパン、好きなんだ」
「僕も。最後のひとつだね」
ちょっとした笑顔、ちょっとした沈黙、ちょっとした偶然。
そういうものが積もって、気づけば僕は彼女にどっぷり恋をしていた。
ある日、僕は思い切って聞いてみた。
「ねえ、あの日さ、俺が見てたの、わかってた?」
彼女は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「うん。ちょっとだけ、起きてたから」
やっぱり。恥ずかしさと同時に、胸の奥があたたかくなった。
そして、彼女は続けた。
「久保くんが、あんなに真剣な顔で見てくれてたから……ちょっと、うれしかったんだ」
その言葉が、胸の奥にそっと灯る。
でも——その数日後。
「坂田さん、来週から転校するんだって」
クラスの誰かの言葉に、思考が止まった。
「お父さんの転勤で、急に決まったらしいよ」
まさか、そんな——。
僕は、その日の帰り、彼女に思わず声をかけた。
「……転校、本当なの?」
彼女は小さくうなずいた。
「うん、ごめんね。言おうと思ってたんだけど、なかなか言えなくて」
その週の金曜日が、彼女の最後の登校日だった。
僕は、手紙を書いた。告白、まではいかないけど、想いを込めた。
「最初に寝顔を見たあの日から、豊子さんのことがずっと気になってました。
またどこかで会えたら、今度は寝てないときの笑顔をもっと見せてほしいです」
帰り道、坂田さんに手渡した。彼女は少し涙ぐんで、でも笑ってこう言った。
「今度会ったら、こっちから話しかけるね。ちゃんと、起きてるときに」
それが、僕と彼女の別れだった。
教室の窓際の席は今も変わらずあるけれど、
隣に座っているのは、もう彼女じゃない。
だけど僕は、あの日のまどろみの中の笑顔を、ずっと忘れないでいる。
