「あの春、君と桃の感触」
僕の名前は原田研。高校2年生だ。
西野さちは、同じクラスの隣の席。ちょっとクールで成績もよく、でもふとした瞬間に見せる笑顔が、たまらなく可愛い。そんな彼女に、僕はどうしようもなく惹かれていた。
春の午後。うとうとしそうな数学の授業中、ふとした拍子に、僕の消しゴムが机から転がり落ちた。運悪く、彼女の椅子の下へ。
「マジか……」
手を伸ばせば届くかもしれない。でも彼女のスカートがひらひらと邪魔して見えない。焦りと緊張が混じったその瞬間、先生の声が教室に響いた。
「西野、これ、どうだ?」
「はいっ!」と立ち上がるさち。
視界が開けた。今だ!
僕はすかさず体を低くして、消しゴムに向かって腕を伸ばした。指先が触れた。あとちょっと…あと――よし、取れた!
その時だった。突然の重みと、柔らかな衝撃。
「……んんっ!?」
彼女が、座ったのだ。僕の顔の上に――。
西野さちの身体と椅子に、顔をぴったり挟まれた僕は、瞬間的に時が止まった気がした。
「きゃっ!」
小さな声とともに、さちが飛びのいた。クラス中が何が起きたのか分からず、ぽかんとしている。
「ご、ごめん……!いや、違くて!あの、消しゴムが…」
「……もうっ、変態っ!」
真っ赤な顔で小声でそう言って、さちはそっぽを向いた。
…それが、僕らの始まりだった。
それからというもの、彼女はやたらと僕のことを「変態くん」と呼ぶようになった。けれども、なぜか話す機会は増えた。お弁当を一緒に食べたり、帰り道がたまたま同じだったり、文化祭の準備でふたりで遅くまで残ったり――。
夏が過ぎ、秋になって、やっと僕は勇気を出して言った。
「……あの時は本当に悪かった。でも、あれからずっと……君のことが好きだ」
彼女は、一瞬ぽかんとして、それから吹き出した。
「まさか、告白のきっかけが“顔面おしり事件”とはね」
その日、僕らは付き合い始めた。
あれから十年。
僕は今、キッチンでコーヒーを淹れながら、隣のソファに座る妻――さちと、朝のテレビをぼんやり見ている。
「ねぇ、覚えてる?あの時のこと」
「……どの時?」
「ほら、高2の春。私が座っちゃったやつ」
「……ああ。ええ、まぁ、忘れようとしても無理です」
さちはケラケラと笑う。
「たまに思うのよ。あれ、運命だったのかもって」
「……顔面を運命にするの、やめてくれない?」
「だって、そこから始まったじゃない、私たち」
コーヒーの香りと、窓の外から差し込むやわらかな光の中で、僕は思う。
きっかけがなんであれ、大切な人と出会って、今ここにいられること――それがどれだけ奇跡的なことか。
「ほんと、あのとき…ありがとうね、消しゴム」
「ねぇ、それ私より感謝してない?」
「まさか、そんなことないよ。……たぶん」
「ほら、またそうやって!」
彼女の小さな拳が僕の肩をコツンと叩く。僕はそれを受け止めながら、心の中でこっそりこう呟いた。
――やっぱり、君のおしりの感触は、今でも忘れられない。
