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【短編】夏の音

 朝、蝉の声で目が覚めた。

 時計を見ると、午前六時半。

 まだ眠っていたかったけれど、窓の外から聞こえる鳴き声は、もう眠ることを許してくれそうになかった。

 布団から起き上がり、カーテンを開ける。眩しい。
 朝の光が部屋いっぱいに入り込んできて、思わず目を細めた。

 窓を開けると、熱を含んだ空気が入ってくる。

 蝉の声。遠くを走る車の音。
 どこかの家から聞こえる掃除機の音。

 いつもの朝なのに、夏になると少しだけ違って聞こえる。
 台所へ行き、冷蔵庫を開ける。
 麦茶の入ったボトルを取り出し、グラスに注ぐ。

 氷を二つ入れる。カラン、と音がした。
 一気に飲む。

 冷たさが喉を通っていく。

「うまい……」

 誰もいない部屋で呟いた。朝食は簡単に済ませた。

 トーストと目玉焼き。
 食べ終わった皿を洗い、洗濯機を回す。

 窓の外を見ると、雲一つない空が広がっていた。

 今日はどこかへ出かけよう。そう思った。

 特に目的はない。
 ただ、家にいるのがもったいない気がした。

 午前九時。

 自転車に乗って家を出る。
 アスファルトの照り返しが強い。

 日陰を選んで走っていると、道路脇の田んぼから蝉の声が一斉に飛び出してくる。

 青々とした稲が、風に合わせて揺れていた。
 少し走るだけで汗が出る。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。

 夏は、暑いことまで含めて夏なのだと思う。
 途中の自動販売機でスポーツドリンクを買った。
 冷たい缶を首に当てる。

「生き返る……」

 また独り言が出た。
 誰もいない田舎道だから、気にする必要もない。

 午前十一時。

 小さな川に架かる橋の上で自転車を止めた。
 川の水は透き通っている。

 浅瀬を小さな魚が泳いでいた。
 橋の下では、子供たちが網を持って何かを探している。

「いた!」

 声が響く。夏休みなのだろう。

 僕にも、あんな頃があった。
 虫取り網を持って走り回って、家に帰ると母親に怒られた。
 そんなことを思い出して、少し笑った。

 昼前には家へ戻った。
 暑さに耐えられず、エアコンをつける。
 冷たい風が部屋に広がっていく。

 昼食はそうめんにした。
 氷を浮かべたつゆに、薬味を少し。
 窓の外では、蝉がまだ鳴いている。

 昼寝をしようと思った。
 ソファに横になる。

 扇風機がゆっくり首を振っている。
 蝉の声が遠くなったり近くなったりする。

 いつの間にか眠っていた。
 目を覚ますと、午後三時。

 窓の外を見る。
 空が少しだけ暗くなっている。

 遠くで雷が鳴った。
 夏の夕立が来るかもしれない。

 洗濯物を取り込む。
 まだ少し熱を持ったタオルから、太陽の匂いがした。

 午後四時。

 雨が降り始めた。
 さっきまで晴れていた空が、一気に暗くなる。

 屋根を叩く雨の音。
 その向こうで鳴く蝉。雷の音。

 夏の音が、全部混ざっている。
 僕は窓辺に椅子を置いて、しばらく外を眺めていた。
 やがて雨は止んだ。

 午後六時。

 外へ出る。
 まだ道路は濡れていた。

 西の空が、夕焼けに染まっている。
 水たまりが空の色を映していた。

 近所の子供たちが、濡れた道路を走っていく。

「また明日!」

 声が聞こえた。
 夏休みは、まだ始まったばかりなのだろう。

 僕はその声を聞きながら、ゆっくり歩いた。

 夜。窓を開ける。

 昼間の暑さが少しだけ和らいでいる。
 風鈴が鳴った。

 チリン。

 少し間を置いて、また鳴る。
 冷蔵庫から麦茶を取り出し、グラスに注ぐ。

 昼間と同じ音。
 カラン、と氷が鳴った。

 ベランダへ出る。
 空には、いくつか星が見えていた。

 昼間はあんなに騒がしかった蝉も、今は静かだ。
 代わりに、どこか遠くで虫の声がしている。

 今日一日を思い返す。
 自転車に乗って。

 川を見て。

 そうめんを食べて。

 昼寝をして。

 夕立を眺めた。

 特別なことは何もしていない。
 それでも、なぜか満たされていた。

 夏は、何かをしなくても思い出になる。
 暑かったこと。蝉がうるさかったこと。
 冷たい麦茶がおいしかったこと。
 夕立のあと、空がきれいだったこと。

 きっと何年か経ったとき、今日のことを細かく思い出すことはないだろう。

 でも、夏の匂いを感じたとき。
 蝉の声を聞いたとき。
 氷の入った麦茶を飲んだとき。

 今日という一日が、ふと戻ってくるのかもしれない。

 僕は空を見上げた。
 夏の夜は、まだ始まったばかりだった。

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