姉と弟だった時間は消えない 岸惠子主演『おとうと』
家族を愛するということは、いつも優しくすることではないのかもしれません。腹を立てることもある。憎らしいと思うこともある。激しく言い争い、もう知らないと思うことさえある。
それでも、本当にその人が苦しんでいるときには放っておけない。市川崑監督の『おとうと』(1960年)を観ると、私はそんな家族の愛について考えてしまいます。
この映画で描かれるのは、仲睦まじい理想の家族ではありません。その中心にいるのが、姉のげんと弟の碧郎です。
二人は喧嘩をします。憎まれ口を叩きます。取っ組み合いにまでなる。それでもげんは、最後まで碧郎の姉であり続けます。そして碧郎もまた、最後の最後まで、げんの弟でいたかったのではないでしょうか。
《スタッフ》
◎監督:市川崑
◎原作:幸田文
◎脚本:水木洋子
◎撮影:宮川一夫
◎音楽:芥川也寸志
《キャスト》
◎げん:岸惠子
◎碧郎:川口浩
◎父:森雅之
◎母:田中絹代
原作は幸田文の自伝的小説です。大正時代末期の東京。げんは、小説家の父、継母、弟の碧郎と暮らしています。
父は書斎にこもって小説を書き、家庭のことにはほとんど関わりません。継母はリウマチを患い、信仰に心を傾け、家事の多くはげんに任されています。
そんな家庭で、げんはいつの間にか弟の母親代わりのような存在になっていました。ところが碧郎は、そんな姉の苦労など知らぬ顔で問題ばかり起こします。万引きをしたり、喧嘩をしたり、馬に乗って無茶をしたり。
げんはそのたびに弟を叱ります。けれど、碧郎も黙ってはいません。ついには姉弟で取っ組み合いの大喧嘩。
「バカヤロ! 弟やらの分際で姉さんにむかって。これでもか!」弟に馬乗りになって怒るげんを見ていると、この姉弟が本当におかしい。でも、だからこそ二人が愛おしくなります。
げんは何でも許してくれる優しい姉ではありません。碧郎も姉の言うことを素直に聞く可愛い弟ではありません。喧嘩をして、腹を立て、それでも次の日にはまた一緒にいる。家族というものは案外、そんなものなのかもしれません。
そして、このげんを演じる岸惠子が実に魅力的です。
男勝りで勝ち気なのに、どこか抜けたところもある。弟には遠慮なく怒鳴り、時には取っ組み合いの喧嘩までしてしまう。それでいて、困っている人を見ると放っておけない。
そして何より、あの柔らかな声があります。強い言葉で碧郎を叱っていても、岸惠子の声にはどこか温かさが残る。そのため、げんの怒りが弟を突き放すものではなく、心配しているからこその怒りなのだということが自然に伝わってきます。岸惠子が演じることで、げんの中にある勝ち気な強さと、人を放っておけない優しさが無理なく一人の女性の中に息づいているのです。
ただ、『おとうと』がこれほど胸に残るのは、岸惠子の魅力だけではありません。
碧郎を演じた川口浩がとてもいい。最初の碧郎は、本当に困った弟です。乱暴で、生意気で、姉の言うことにも反発する。けれど川口浩が演じると、どうしても憎めません。その乱暴さの奥から、まだ大人になりきれない少年の寂しさが見えてくるからです。
馬を死なせてしまったあと、碧郎は自分を責めます。「俺は馬より役に立たない……」この言葉が、私はとても気になります。
碧郎はただ好き勝手に生きている少年ではないのでしょう。父は家庭から距離を置き、継母との間にも温かな親子関係があるとは言い難い。そして自分の面倒を見てくれる姉も、いつか結婚すれば家を出ていく。
碧郎の反抗の奥には、自分の居場所を見つけられない少年の不安があったのではないでしょうか。
そんな碧郎が、やがて結核に倒れます。ここから映画の空気は変わっていきます。あれほど反抗的だった少年の身体が少しずつ弱っていく。そして、それまでどこかバラバラだった家族が、碧郎の病床を中心に少しずつ近づいていきます。
父と息子の間に釣りの思い出が甦り、継母との関係にも、それまでとは違った感情が見えてくる。碧郎が死に近づいていくことで、皮肉にも冷え切っていた家族の中に、わずかな温もりが戻ってくるのです。
その中でも、私が忘れることのできない場面があります。
病床の碧郎が、げんとリボンでお互いの手首をつなぐ場面です。手を握るのではありません。細いリボンで、姉と弟の手首を結ぶ。私はあのとき、碧郎は自分の命がもう長くないことを、どこかで感じていたのではないかと思います。
姉に反抗し、憎まれ口を叩き、取っ組み合いの喧嘩までしてきた少年です。
そんな碧郎が、最後には細いリボンで自分と姉をつなぎ止めようとする。
そして碧郎の目から涙がこぼれます。川口浩がここで見せる涙が、本当に悲しい。大げさに泣き叫ぶわけではありません。それまで強がっていた碧郎の中から、まだ17歳の少年が顔を出すのです。
死ぬのが怖い。姉さんと別れたくない。まだ生きていたい。そして、もう少しこの人の弟でいたい。
私には、あの涙の中にそんな言葉にならない気持ちまで見えるような気がします。だからこそ、映画の題名が『おとうと』であることが、ここへ来て胸に迫ってきます。
げんにとって碧郎は、手のかかる弟でした。何度叱っても言うことを聞かず、心配ばかりかける。でも、それでも「おとうと」なのです。理由などない。弟だから放っておけない。そして碧郎にとっても、げんは最後に自分をつないでおきたい人だったのでしょう。
この姉弟を包んでいるのが、市川崑と撮影の宮川一夫が作り上げた独特の映像です。『おとうと』はカラー映画でありながら、色彩が極端に抑えられています。いわゆる「銀残し」と呼ばれる現像処理によって、黒が深く沈み込み、その中にわずかな色だけが残る。
市川崑は大正という時代を、明治と昭和の間にある暗い「無風状態」のように捉えていたといいます。その感覚が、この映画の画面から伝わってきます。
家の中は昼間でも薄暗く、壁や柱、家具までが重く沈んで見える。しかし、その暗い家の中をげんだけは忙しく動き回ります。
父が書斎へ閉じこもり、継母が自分の内側へ閉じこもり、碧郎が反抗する。
その中で、げんだけが家族と家族の間を行ったり来たりしているのです。だから私は、銀残しによって色を失った世界の中で、かえってげんという女性の生命力が浮かび上がっているように感じます。
一方、継母を演じる田中絹代も忘れられません。冷たく、陰鬱で、げんに対して時に驚くほど厳しい。しかし単純な意地悪な継母では終わらないところが、田中絹代の凄さでしょう。
病を抱え、信仰にすがり、自分自身の感情をうまく表へ出すことのできない女性の孤独まで感じさせます。
森雅之の父も同じです。家庭を顧みない冷たい父親に見えながら、息子が病に倒れることで、その奥に隠れていた父親としての感情が少しずつ姿を現します。
この家には、分かりやすい悪人はいません。ただ、それぞれが自分のことで精いっぱいで、家族を愛する方法をうまく知らない。そして、その隙間を埋めるように動き続けていたのが、げんだったのだと思います。
やがて碧郎は息を引き取ります。
げんも、その悲しみに耐えきれなかったのでしょう。脳貧血を起こして倒れてしまいます。ところが、目を覚ましたげんはエプロンをつけます。
映画はそこで終わります。私はこの幕切れがたまらなく好きです。弟を失った姉が、泣き崩れるところで終わらない。大きな台詞もありません。げんには、明日も生きていかなければならない日常があるのです。
でも、あのエプロン姿を「強い女性だから立ち直った」とだけ受け取ることは、私にはできません。あれほど愛した弟を失って、すぐに立ち直れるはずなどないでしょう。
それでも、げんは日常へ戻っていく。
悲しくても、生きていかなければならないから。
そして私は、あの姿を見ると、病床で一本のリボンによって結ばれた二人の手首を思い出します。
碧郎はもういません。二人をつないでいたリボンも、もうありません。けれど、姉と弟として過ごした時間まで消えてしまうわけではないのでしょう。
喧嘩したことも、怒鳴ったことも、笑ったことも、心配したことも、そして最後に手首と手首を結んだことも、すべてげんの中に残っていく。
だからこそ、『おとうと』という、とても短く素朴な題名が、映画を観終えたあとにはたまらなく切なく、そして温かく響いてきます。
愛する人はいなくなっても、その人を愛した時間まで失われるわけではない。エプロンをつけて日常へ戻っていくげんの姿を見ながら、私はそんなことを思うのです。
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