YouTubeに奪われた味覚〜空っぽの皿と消えた記憶〜
YouTubeとお茶碗の共犯関係、ついに解明される。
あなたも経験があるだろう。
動画を見ながら食事をして、気がついたら食器が空になっている現象を。
食べた記憶はない。
味わった実感もない。
ただ、確実に食べ物は消失している。
これは一体何なのか?
現代人の新たな特技:味覚記憶の消去
スマートフォンが普及してから、人類は新しい能力を身につけた。
それは「食べているのに食べていない状態」を作り出すことである。
私も例外ではない。
先日、推しのYouTuberの新作動画を見ながらカレーライスを食べていたのだが、動画が終わったとき、目の前にあったのは綺麗に空になったお皿だった。
カレーはどこへ消えたのか。
私の口の中を通過したはずなのに、その味は記憶の彼方である。
これは単なるうっかりではない。
現代社会が生み出した、新種の食事体験なのだ。
「ながら食事」の恐るべきメカニズム
脳科学的に説明すると、人間の注意力は分散すると各タスクの処理能力が著しく低下する。
動画視聴という視覚・聴覚を総動員する作業と、食事という味覚・嗅覚・触覚を使う作業を同時に行うと、脳は優先順位をつけざるを得ない。
そして現代人の脳は、圧倒的に動画コンテンツを優先する。
つまり、私たちは食べ物を「燃料補給」程度にしか認識していないということだ。
車にガソリンを入れるように、体に栄養を流し込んでいるだけなのである。
食事界のゾンビ、それが私たち
考えてみてほしい。
私たちは食べることに対して、いつからこんなに雑になったのだろうか。
江戸時代の人が見たら、きっとこう言うに違いない。
「その者、食べ物を口に運びながら、魂はどこか遠くを彷徨っておる…まさにゾンビではないか」と。
実際、ながら食事をしている私たちの姿は、確かにゾンビに似ている。
機械的に手を動かし、咀嚼し、嚥下する。しかし意識はスマホの画面の向こう側にある。
YouTubeという最強の調味料
しかし、皮肉なことに、私たちはながら食事なしには生きていけなくなった。
なぜなら、動画というコンテンツが、どんな料理よりも強力な「調味料」として機能するからだ。
面白い動画さえあれば、コンビニ弁当でも高級レストランの料理のように感じられる。
正確には、「感じた気になる」のだが。
友人の話だが、彼は毎食必ずアニメを見ながら食事をする。
アニメなしでは食事が進まないという。
「アニメがないと、食べ物の味しか感じられなくて退屈」だそうだ。
この発言、よく考えると恐ろしくないだろうか。
食べ物の味を「退屈」と表現する時代になったのである。
記憶に残らない食事の価値とは
ここで一つの疑問が浮かぶ。
記憶に残らない食事に、果たして意味はあるのだろうか。
栄養学的には問題ない。
カロリーは摂取されているし、ビタミンもミネラルも体に入っている。
しかし、人間的な豊かさという観点では、何かが決定的に欠けている。
それは「食事の時間」という概念の消失である。
私たちは食事の時間を、動画視聴時間に変換してしまった。
30分の動画を3本見れば、気づけば90分が経過している。
その間に何を食べたかは覚えていないが、動画の内容は鮮明に記憶している。
つまり、食事という行為が、完全に「ついで」になってしまったのだ。
解決策?それとも進化?
では、この現象をどう捉えるべきか。
問題として解決すべきなのか、それとも人類の新たな進化として受け入れるべきなのか。
効率至上主義の観点では、ながら食事は革命的である。
食事時間を他の活動に有効活用できるのだから、時間という有限資源の最適化に成功している。
一方で、食事の本来の価値—味わう喜び、家族や友人との会話、食材への感謝—これらがすべて犠牲になっている。
空っぽの食器が教えてくれること
結局のところ、空っぽの食器は私たちに大切なことを教えてくれている。
それは、現代人がいかに「今この瞬間」から逃避しているかということだ。食事という、本来最も原始的で基本的な行為ですら、他のことに意識を向けてしまう。
私たちは便利さと引き換えに、何か大切なものを失っているのかもしれない。それが何なのかは、空っぽになった食器だけが知っている。
でも、だからといって悲観する必要はない。気づくことができれば、変えることもできる。明日の食事では、たまには動画を止めて、一口だけでも味わってみよう。
案外、忘れていた味覚の記憶が蘇るかもしれない。そして、その一口が、失いかけていた「食べる喜び」を思い出させてくれるかもしれない。
あなたの最後の食事、何を食べたか覚えているだろうか?
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