「皆さん」と言った瞬間、私はどこかへ消えてしまう──ある呼びかけの考察
ある日ふと、動画の編集をしていると、
自分がカメラの前で「皆さん、こんにちは」と言っている場面に出くわした。
──そして思った。あ、これ、アカンやつや。
なぜダメなのか、理屈では説明しづらい。でも、感覚的に「自分が消えてしまう感じ」がある。
いや、正確には「誰でもない人」になってしまう。
一人ひとりに語りかけたいのに、気がつくと、僕の言葉は“どこかの群衆”に向かって空回りしている。
群衆って誰? あ、僕か。
呼びかけはラブレターか、拡声器か
そもそも「呼びかける」という行為には、二つのモードがあると思う。
1つは、特定の相手に手紙を書くように語りかけるラブレターモード。
もう1つは、道端でチラシを配るように訴えかける拡声器モード。
前者は“あなた”に語りかける。後者は“皆さん”に向けて放つ。
僕が感じていた違和感は、たぶんこのモード切替の不自然さだ。
「皆さん、こんにちは」と言った瞬間、自分が拡声器に飲み込まれたような気持ちになる。
しかもその拡声器、誰が電源入れたのかわからないし、音量がデカすぎて自分の声が聞こえない。
「皆さん」に僕もあなたも居ない
「皆さん」には、特定の顔がない。
もちろん、丁寧な呼びかけとして、また公の場では便利な言葉だ。
それはわかっている。
でも、「皆さん」に向かって話すとき、自分の中で「語る意味」がすこしずつ溶けていく感じがするのだ。
語りたいのは、「あなた」に向けてなのに。
たとえばこの文章も、僕は今ここまで文字を追いかけてきてくれたあなたに向けて書いているつもりだ。
ひとりでスマホを開いて、ちょっと寝る前に読んでる人かもしれない。
電車の中で、ちょっとだけ読み始めて、途中で通知に気を取られた人かもしれない。
でも、僕が語っているのは飽くまで「あなた」だ。
もし最初に「皆さん、今日はこんな話をしますね」なんて言っていたら、ここまで読んでないと思う。
あなたが消えてしまうからだ。
「皆さん」で始まる物語は、なぜか印象に残らない
人の心に届く言葉って、「あるひとり」に向かって話しかけるように紡がれている気がする。
あの日の詩人も、あの夜の歌手も、あの病室の手紙も。
もちろん、僕だって時々うっかり「皆さん」と言ってしまう。
でも、編集段階で「これは僕じゃない」と思ったら、ちゃんと撮り直すようにしている。
いや、むしろ「皆さん」と呼びかけているときの僕こそ、もっとも“よそよそしい自分”かもしれない。
知らんけど。
たった一人に語ることの、怖さと力
本当のところ、「皆さん」は便利だ。
距離を取れるし、傷つきにくい。
でも、それは同時に、伝わらない言葉にもなりやすい。
だからこそ僕は、できる限り「あなた」と言いたい。
たとえ、話しかけている相手が見えなくても。
たとえ、その声がどこかの誰かに届いているのかすらわからなくても。
その「わからなさ」こそが、言葉のスリルであり、語ることの原点だと思うのだ。
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そこにいるのは、たった一人の“ホスト”か“ゲスト”。
話しかけるのは、いつだってその“あなた”だけだ。
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