誰もいないバス停
Instagramで流れてくる様な勉強アカウントなどを眺めていると、その字体がどこを切り取っても、皆まで同じに見えて気味が悪かった。だからそっと閉じた。
いつも含みのあるような薄い言葉をちらつかせて、それっぽい文章を作るのだが、今日ばかりはそういうのが気に食わなくて、したがってありのままに書きたいと思っている。
レッテルというのは相当つらい。自分はよく頭がいいような印象をもたれるようだし、実際そういう時代もあったんだが、それを今までずっと引き継いでいると思われているのは心外でしかない。
すなわち何かのトップであるということは、その印象をずっと周りにずっと抱かれ続けるということなんだと知った。お笑いのダウンタウンも、野球の大谷翔平も、勉学の河野玄斗も、すべて分野におけるトップといってよいと思うのだが、それをそのまま捉えるべきではない。私にはわからないけれど、彼らにもいつか終わりが来る。松本人志が面白くなくなるときも来るかもしれないし、大谷翔平が思うように動けなくなる日も来るだろうし、河野玄斗がその名をそのころの勉強界から消される可能性も、きっとある。
10年以上前に始まった妖怪ウォッチは、一部ではオワコンと言われている。YouTubeのヒカキンもはじめしゃちょーも東海オンエアも、昔の方が面白かったという意見がある。
環境は常に変化していく。10年前算数を学んでいた教室はいまは広いキャンパスに見え、去年見た空き地には家が連なっていた。ましてや、昨夜沈んでいた陽は今朝のぼっている。
そういう変化の中で、トップをトップとして見守るのはもうやめよう。
あのときの伝説として、心の中にとどめておいてほしい。そして、在りし日には、それを思い出として懐かしく語っておいてほしい。私としては、それだけである。
私は結局小さな世界の小さな物事でトップであり続けただけに過ぎず、人に自慢できることですらないから恥ずかしいのだけど、でも、その小さい世界の小さい住人からすれば讃えられることなのだ。そういう人たちがいつか、大きな世界に行ったときに、未だに私の話をしていたら、と想像すると、いつまで経っても身震いするのである。
人はレッテルとして他人の印象を張り付けることもあれば、単なる印象として記憶に焼き付いていることもある。そういう何気ない悪気が嫌いだ。嫌いの矛先はその記憶の持ち主ではなく、その記憶自身だ。
だから、噂とかも好きじゃない。人の単なる記憶違いが、聞き間違いが、徐々に伝言ゲームとして伝っていき、やがてその話が自分に回ってきたとき、それは輪として私のもとに巡ってきたのではなく、上方に渦を巻くように飛躍していたものを下にいる私が見ているだけなんだ、と気づく。
おっと、もう少し直接的な話をする日だったね。
まあ兎にも角にも、立場によって人の見方は変わる。トップにいる者と、それ以外の価値観は全くもって異なる。
私だって、やっぱり大谷翔平がどんな心情でそこにいるのかはわからない。ずっとトップであり続けたいのか、トップにいることが嬉しいことなのか、そういう話は分野によっても人によっても違うわけだし、広げようがないのだけど。
でも、だからこそ、相手には敬う心をもってして話を振らなければならないな、と思う瞬間があった。安易にあいつは「頭がいい」と付箋を貼っておいて、後で見返してやっぱそうだよな、とひとり合点するのは恐ろしい。それを人におすそわけすることはもっと怖い。
トップであり続けることは、個人的には苦しい。エンジョイ勢とガチ勢という区分けはある。別に好きでトップでいるわけでもないことだってあるのだから、自分のモチベーションが下がればそれは終わるし、でも終わったとて周りから原因を追究されて、身ぐるみをはがされて、骨だけしゃぶらないでやつらは帰っていく。
いわゆる野次馬ということだ。そのときになった瞬間だけ私に近づいていき、用件が済めば帰っていく。こういう人間は嫌いだ。私はそれを表には出さないけれど。
一旦すべてをリセットしたくなるんだ。今まで積み上げてきた、邪悪な過去の栄光を、すべて捨てて、それも他の人間も同じようにして、誰も私のことを知らないようにしてほしい。そして私も誰のことも知らないような世界にしておいてほしい。
エンジョイ勢とガチ勢。前者は逃げ道か?
すべてのことに真剣に取り組むことがすべてでしょうか?
会話のエラーが喧嘩を起こしそうだからと、停止するのは逃げだろうか
自分に出せる言葉がないといい、メッセージを見送るのは全うだろうか
今日は疲れているからと、寝て明日に期待するのは自分に対し正解だろうか
朽ちない花は可憐だろうか。という話がどこかにあったけれど、まあそれはいま関係ないのだけど、
ある種の「仕方ない」という理由が通るのなら、私はいずれ無に帰すると思っている。きっとその「仕方ない」にはどこかからヤジが飛んできて、それが鋭くて、いつかぼろぼろになるはずだから、つまりそこまで頑丈ではないものと信じているから、それに気づける日が自分に来ることもまた信じている。
結局自分が書く文章は拙い。でも、いまの自分にしか書けないものがあると信じていて、それを残すことで、どこかの誰かが救われるといい。その誰かはおそらく私だろう。
というのも、逃げなんでしょう
