AIが数学の難問を解決していいのか

「AI が数学の未解決問題を解いた」というニュースを頻繁に見かけるようになった。中でも、ナヴィエ・ストークス方程式の爆発解発見はひときわインパクトが大きい。これは「ミレニアム懸賞問題」として100万ドルの賞金がかけられていた7問のひとつだからだ。いわば21世紀の七大難問と言っていい。

しかし、多くの有名な数学者が、こうした事態に反感を持っているらしい。これは「我々の仕事を奪うな」などという単純な話ではない。「未解決問題は、解決よりも解く過程で生まれる新手法に意味があるので、AI で解かれてはその芽を摘んでしまう」という話だ。

ナヴィエ・ストークス方程式というのは、流体(水とか)の運動についての方程式だ。しかし「水の方程式に爆発解があった」は別に「水が爆発する危険性がある」という意味ではない。理論にはそれぞれ適用範囲というものがあり、この方程式も「水の圧縮は無視できる」といった仮定のもので立てられているため、爆発するよりも前に方程式の適用範囲をはみ出てしまうだろう。

もし「ナヴィエ・ストークス方程式の問題を早急に解かないと、気象予報や治水事業に差し支えがある」というようであれば、AI でも何でも使って可能なかぎり早く解くべきだ。ただ現時点でこれはそういう種類の問題ではなく、あくまで純粋に数学的な話である。もちろん将来的に実用性が見つかる可能性はあるが。

これが「新型コロナの特効薬がほしい」「気候変動を解決したい」「常温超伝導を作りたい」といった実用的な難問なら、「解く過程での発見が〜」などと悠長なことは言えない。自然界で偶然発見されようが、来球した宇宙人に教えてもらおうが、答えであれば何でも良い。しかし数学の問題は、答えよりも過程が重要なことが多い。らしい。

もちろん現代数学の話は僕にはわからないが、おそらく似たようなことは高校数学レベルでも見る。定期試験に出る「2¹⁰⁰は何桁か?」という問題だ。実際に2を100回かけるのは人間には困難なので、これは対数(log)という関数を使って解く。こんなふうに。

log 2 = 0.301 として
log 2¹⁰⁰ = 100 log 2 = 30.1
30 < log 2¹⁰⁰ < 31 なので 31桁

この対数はネイピアという16世紀の天文学者が考えたものだ。当時の天文学者はまさしく天文学的な数字の計算で人生を費やしていたため、ネイピアの発明は「天文学者の寿命を倍にした」とまで称賛された。

しかし、もしここに20世紀のコンピュータがあれば、

2¹⁰⁰ = 1,267,650,600,228,229,401,496,703,205,376
よって31桁 

と実際に計算できてしまう。これは答えは出るが、実りある成果が何もない。

つまり、もしネイピア以前にコンピュータが発明されていたら、対数の概念が生まれなかった可能性がある。これはかなり困る。対数は単なる計算道具ではなく、この世界のさまざまな構造を理解するのに使えるからだ。

たとえば「半導体の集積率は18ヶ月で2倍になる」というムーアの法則があるが、これを計算するには対数が必要になる。もしこうした概念がなければ、ムーアも「半導体はなんかすごい勢いで進歩する」としか言えなかっただろう。計算補助のツールは、理解補助のツールでもあるのだ。

これと同様の理屈で、AI が現代の未解決問題を解決してしまうと、人間に理解できたはずの秩序ある世界が、無機質なデータの山として埋もれてしまう危険性があるのだ。

なるほどそう言われると、AI による難問の解決は規制されるべきという気もしてくる。ただ一方で「AI が解いた後に、人間が理解できるように解き直す」というのも可能なのでは? という反論も思いつく。

たとえば群論という数学の分野がある。これは19世紀にガロアという数学者が五次方程式の問題を解決するために考えたが、この問題自体はガロア以前にアーベルが解決していた。ただアーベルの解決はやたら長くて面倒だったので、ガロアが大幅に簡略化したのである。

そしてこの群論が、対数と同様きわめて広範に使える理論となった。僕はこの理論を五次方程式とまったく関係ない化学の講義で習った。分子構造の対称性を分類するのに使えるのだ。

そう考えると、AI が解決した問題でも、人間にとっては相変わらず魅力的な問題であり続けるのでは? という見方もできる。AI が事前に解いてくれれば、間違った問題の解決に一生を潰すリスクも軽減できるし。

ボーヤイ・ファルカシュという数学者は「エウクレイデスの平行線公理を、他の公理から証明しよう」という問題に人生を費やしたが結局解けず、息子に「あの証明には手を出すな」と言い残して亡くなった。しかしこの息子が「証明は不可能、独立である」と示すことで解決してしまった。問題設定が間違っていたのである。そういう厄介を AI は改善しうる。

もちろん「未解決問題の一番乗りができる」はあらゆる分野の研究者に魅力だから、それが AI によって損なわれるという問題はある。ニュートンとライプニッツも微積分の先取権争いで一生揉めてたし。
(今回のナヴィエ・ストークス方程式に関しても「誰が解決したか」「盗用があったのでは」と揉めている。本題ではないので触れないが)

なんにせよ、AI はすでに人間より賢い。AI と人間の関係は、もはや大人と子供の関係に近い。しかしこの「大人」は「子供」のための健全な教育方針を作ってくれない。大人ではあるが親ではない。我々は急に孤児になった。これから大人に向かって「どう自分を教育させるか」を考えなくてはならない。


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柞刈湯葉 文章で生計を立てる身ですのでサポートをいただけるとたいへん嬉しいです。メッセージが思いつかない方は好きな食べ物を書いてください。