休日の窓辺で、君はまだ地球にいる
休日の朝、鏡の前で
アンヌは、鏡の前で口紅を引き直していた。
一度引いた色を、ティッシュで軽く押さえ、もう一度重ねる。
それだけのことに、少し時間をかけている。
白い壁。簡素な宿舎の一室。
窓の外には、いつもと変わらない基地の空。
だが、その部屋の中にいるアンヌだけが、どこか違って見えた。
制服ではない。
肩のラインをやわらかく見せる薄手のニットに、落ち着いた色のスカート。
足元は低めのヒール。歩きやすさよりも、見え方を選んだ靴。
ベッドの上には、小さな箱がいくつも開いたままになっている。
化粧品、香水、アクセサリー。
どれも、ここ最近で増えたものだった。
ハンドバッグを手に取る。
革の感触を確かめるように、指先で軽くなぞる。
そのまま肩に掛け、もう一度鏡を見る。
ほんの少しだけ、口元が動いた。
それが笑顔なのかどうか、本人にもわからないまま、アンヌは部屋を出た。
外の空気は、軽い
基地の外に出ると、風が少し違った。
同じ空気のはずなのに、どこか軽い。
背中に何も背負っていないような、そんな感覚。
足取りは自然とゆっくりになる。
駅へ向かう道。
見慣れたはずの景色が、少しだけ遠く見える。
途中、ショーウィンドウに映る自分の姿を、横目で確認する。
すぐに視線を戻し、歩幅を整える。
休日だということを、身体がまだうまく理解していない。
改札を抜け、電車に乗る。
吊り革につかまる手元に、バッグの金具がわずかに触れて、乾いた音を立てる。
乗客の視線が一瞬、そこに集まって、すぐに離れていく。
アンヌは何も言わない。
窓の外を流れる景色に、視線を預ける。
駅前の喫茶店
電車を降りたとき、アンヌは行き先を決めていなかった。
雑貨店に入るつもりだったのかもしれない。
少し高めのレストランで昼食を取るつもりだったのかもしれない。
けれど、気がつくと、足は別の方向に向いていた。
駅前の、古い喫茶店。
ガラス戸を押すと、鈴の音が鳴る。
店内には、昼前の静かな時間が流れている。
アンヌは、迷わず窓際の席に向かった。
そこが空いているかどうか、確認する様子もない。
椅子を引き、座る。
バッグを膝に置き、少しだけ整える。
メニューは開かない。
代わりに、持ってきた文庫本を取り出す。
ページをめくる。
文字は目に入っているはずなのに、意味が続かない。
外を見る。
駅前の広場。
人の流れ。
少し古びた建物。
そして――
あの場所。
タバコの販売機。
まだ、そこにある。
色は新しくなっている。
ガラスも曇っていない。
普通の販売機だ。
誰かがコインを入れて、商品を取り出して、去っていく。
それだけの光景。
アンヌは、しばらくそれを見ていた。
ぼんやりとした記憶
カップが運ばれてきたとき、アンヌは少しだけ驚いた顔をした。
注文していたことを、忘れていた。
コーヒーの湯気が、ゆっくりと立ち上る。
スプーンで一度かき混ぜてから、口をつける。
温度が少し高い。
唇を離す。
そのまま、また外を見る。
あのときと同じ席。
同じ窓。
同じ駅前。
違うのは、隣に誰もいないことだけだった。
アンヌは、文庫本のページをめくる。
また一行も読まずに、閉じる。
指先で表紙をなぞる。
そして、もう一度、販売機の方を見る。
トラックが止まる
小さなトラックが、販売機の前に止まった。
特別なことではない。
補充の時間なのだろう。
運転席のドアが開く。
人影が降りてくる。
アンヌは、最初、それを何気なく見ていた。
作業服。
帽子。
段ボールを持つ手。
その仕草が、ほんの少しだけ、引っかかった。
目を細める。
もう一度見る。
段ボールを抱え直す動き。
販売機に近づく歩幅。
アンヌの手が、文庫本の上で止まる。
次の瞬間、椅子がわずかに鳴った。
「ダン!」
喫茶店の扉が、勢いよく開いた。
外の光が一瞬、強く差し込む。
アンヌは、ほとんど走るようにして、販売機の方へ向かう。
ヒールの音が、舗装された地面に軽く響く。
距離はそれほど遠くない。
けれど、やけに長く感じる。
トラックの横に立つ男が、振り返る。
アンヌは、足を止めることなく、その前まで行く。
そして――
「ダン!」
声は、思っていたよりもはっきり出た。
再会
男は、目を見開いた。
その表情が、ほんの少し遅れて変わる。
驚きと、困惑と、少しの苦笑。
「……アンヌ?」
声は、以前と変わらなかった。
アンヌは、一歩近づく。
言葉が続かない。
代わりに、相手の顔をじっと見る。
日焼けした肌。
少しだけやつれた頬。
けれど、確かに――
「……どうして」
その一言だけが、やっと出る。
ダンは、段ボールを地面に置いた。
少しだけ肩を回す。
「見ての通りだよ」
軽く言う。
アンヌは、納得しない顔のまま、もう一歩近づく。
「帰ったんじゃなかったの」
ダンは、視線を一度、販売機に向ける。
鍵を取り出しながら、口を開く。
「帰ろうとはしたよ」
鍵穴に差し込む手が、少しだけ止まる。
「でも、途中で無理だってわかった」
アンヌは黙っている。
ダンは、販売機を開ける。
中の棚を確認しながら、続ける。
「体がもたなかったんだ。あのままじゃ、たどり着く前に……」
言葉が途中で止まる。
代わりに、新しい箱を取り出す。
アンヌは、その動きを見ている。
地球に戻ってきた理由
「それで、戻ってきたの」
アンヌの声は、低くなっていた。
ダンは、うなずく。
「地球なら、まだなんとかなると思って」
タバコを補充する手つきは、慣れている。
一つ一つを丁寧に並べていく。
「住むところは?」
「なんとかなったよ。身分証、まだ使えたから」
アンヌの視線が、少しだけ鋭くなる。
「それ、大丈夫なの」
「さあね」
軽く笑う。
「でも、追い出されるまでは平気だろ」
アンヌは、何も言わない。
代わりに、トラックを見る。
古びた車体。
荷台の段ボール。
その光景が、妙に現実的だった。
メトロン星人の仕事
「その仕事は?」
アンヌの問いに、ダンは一瞬だけ手を止める。
「紹介してもらった」
「誰に」
「メトロン星人」
アンヌの眉が、わずかに動く。
「……あの?」
ダンは、うなずく。
「心配しなくていいよ。今は普通に商売してる」
新しい箱を開ける。
中身を確認し、並べる。
「仕入れから販売まで、全部やってるらしい」
アンヌは、少しだけ近づく。
「怪しいものじゃないの」
ダンは、笑う。
「ただのタバコだよ」
一本取り出して、軽く振る。
「地球でも、働かないと生きていけないのは同じだ」
アンヌは、その手元を見つめる。
しばらくして、視線を上げる。
「……そう」
それ以上は言わない。
戻らない理由
補充が終わる。
ダンは、販売機の扉を閉める。
鍵をかける音が、やけに大きく響く。
アンヌは、少しだけ間を置いてから言う。
「戻ればいいのに」
ダンは、トラックの方へ歩きながら、肩をすくめる。
「どこに」
「ウルトラ警備隊」
足が止まる。
振り返らない。
「もう無理だよ」
静かな声だった。
「普通の体しか残ってない。変身もできない」
アンヌは、何も言わない。
ダンは、ゆっくりと振り返る。
「役に立たない」
その言葉は、軽く言ったようでいて、少しだけ重かった。
電話番号
トラックのドアに手をかける。
アンヌは、急に言う。
「連絡先」
ダンが振り向く。
「教えて」
少しだけ、間がある。
ダンは、ポケットを探る。
小さな紙を取り出す。
鉛筆で、数字を書く。
それをアンヌに渡す。
「アパートの電話だ」
アンヌは、それを受け取る。
指先が、ほんの一瞬だけ触れる。
すぐに離れる。
「でも――」
ダンが言いかける。
アンヌは顔を上げる。
「今日のことは、内緒にしてくれ」
短い言葉。
アンヌは、少しだけ考える。
それから、うなずく。
「言わない」
紙をバッグにしまう。
「誰にも」
再び動き出す日常
ダンは、トラックに乗り込む。
エンジンがかかる。
小さな振動が、地面に伝わる。
窓越しに、軽く手を上げる。
アンヌは、それに応えない。
ただ、立っている。
トラックが動き出す。
ゆっくりと、角を曲がる。
姿が見えなくなる。
音だけが、少し遅れて消える。
アンヌは、その場にしばらく立っていた。
販売機の前。
何も変わっていないような場所。
けれど、さっきまでとは違う空気。
やがて、踵を返す。
喫茶店の方へ戻る。
窓辺に戻る
席に戻ると、コーヒーは少し冷めていた。
アンヌは、バッグを椅子に置く。
ゆっくりと座る。
カップを手に取る。
一口だけ飲む。
温度は、ちょうどよくなっている。
文庫本を開く。
今度は、少しだけ読む。
一行、二行。
ふと、ページの途中で止まる。
視線が、また外に向く。
販売機。
変わらない。
誰かが、タバコを買っている。
それだけの光景。
アンヌは、カップを置く。
指先で、バッグの中の紙に触れる。
取り出さない。
ただ、その存在を確かめる。
夕方へ
店を出るころには、空の色が少し変わっていた。
昼と夜の間の、曖昧な時間。
駅前の人の流れも、少しだけ変わる。
アンヌは、歩く。
来たときよりも、少しゆっくりと。
途中、ショーウィンドウに映る自分を見る。
朝と同じ服装。
同じ顔。
けれど、ほんの少しだけ違う。
何が違うのかは、わからない。
アンヌは、視線を外す。
駅へ向かう。
帰り道
電車の中は、少し混んでいた。
座席には座れない。
吊り革につかまる。
バッグが、腕に軽く当たる。
中の紙のことを、思い出す。
取り出すことはしない。
窓の外は、もう暗い。
街の灯りが、流れていく。
アンヌは、目を閉じる。
短い時間。
すぐに開ける。
宿舎の夜
部屋に戻る。
灯りをつける。
朝と同じ空間。
変わっていないはずの場所。
バッグを机の上に置く。
ゆっくりと開ける。
中から、紙を取り出す。
数字が並んでいる。
見覚えのない番号。
アンヌは、それをしばらく見ている。
電話の方へ視線を移す。
少しだけ、近づく。
手を伸ばしかけて、止める。
そのまま、紙を折る。
引き出しに入れる。
閉める。
窓の外
窓を開ける。
夜の空気が入ってくる。
遠くで、車の音がする。
静かな夜。
アンヌは、窓枠に手を置く。
空を見上げる。
星は、あまり見えない。
それでも、どこかにあるはずの光を探すように、視線を動かす。
やがて、目を閉じる。
短い時間。
風が、髪を揺らす。
アンヌは、何も言わない。
ただ、そこに立っている。
終わらない余韻
引き出しの中の紙。
駅前の販売機。
小さなトラック。
あの声。
すべてが、同じ一日の中に収まっている。
アンヌは、窓を閉める。
カーテンを少しだけ引く。
部屋の灯りが、やわらかくなる。
ベッドに座る。
靴を脱ぐ。
そのまま、横になる。
天井を見上げる。
何もない白い面。
そこに、何かが映るわけではない。
それでも、視線を動かさない。
やがて、目を閉じる。
静かな夜が、部屋を満たす。
どこかで、電話が鳴るかもしれない。
鳴らないかもしれない。
アンヌは、それを確かめようとはしない。
ただ、眠りに落ちる。
その手の届く場所に、まだ触れていない番号を残したまま。

