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<書評>『変身』他

 『変身Die Verwandlung』フランツ・カフカFranz Kafka著 中井正文訳 角川文庫 1952年初版 1968年改版初版 1976年18刷 原著は、1915年 ライプツィヒ、ドイツ。書名となった短編の他に、「ある戦いの描写 Beschreibung eines Kampfres」1936年プラハで出版を含む。

『変身』


 カフカについては、本書の解説によれば、「1883年にチェコ・スロバキアの古い都プラハで生まれて、ドイツ語でいっぷう変わった小説を書きつづけ、かなり多くの未刊の作品を原稿のまま残して、1924年に持病の肺結核で死んだ。・・・この作家のいつまでもくみつくせそうにない無限の深淵さと永続する新鮮な魅力にいまさらながら驚嘆の思いをあらたにさせられる。」とある。

 また、「戦後の実存主義文学流行の、上げ潮の時流にのせられて、連中の守護神のひとりに祭り上げられた」、「フランツ・カフカをぬきにして、二十世紀文学を、そして、今日の新しい世界文学を語ることはいよいよ不可能になっていることを、だれしも否定しえないところだろう。」と絶賛している。なお、カフカは生前「変身」など数作を発表し、それなりの評価を受けてきたが、死後に未完で残された作品が世に出ることができた理由は、カフカが全ての原稿を死後に寄贈した友人のマックス・ブロートが出版したためである。ブロートがいなかったから、カフカの作品を私たちが読むことはできなかった。

 これらのことを極端な下世話なレベルで言い換えれば、「生きているときは、ほとんど相手にされていなかったある変わった文学青年の残した原稿が、偶然友人の尽力で出版され、それが時代の風潮にマッチして、世界的な名声を得ることになった。」となる。つまり、絵画芸術のフィンセント・ファンゴッホや、音楽のエリック・サティのようなものだろう。

 この文庫本に収められた二つの作品についての感想を記す。


『変身Die Verwandlung』

(序言)

 カフカの名前とともに世界中に知られる代表的な作品である。そして、主人公のグレゴール・ザムザが、ある朝目覚めたとき、自分の身体が巨大なカブトムシ・ゴキブリ・マグソムシ(ウラジミール・ナボコフによれば、「自分に羽根があることに気づかないカブトムシ」)になっていることを発見するという、衝撃的な書き出しが有名だ。

 物語は、このカブトムシと化したグレゴールが、「変身」前は仕事をしない父親・母親・妹と女中のいる家族の家計を一手に支えていることを説明し、その稼ぎ手が一瞬でカブトムシになったことの驚きと同時に、「稼げなくなった」ための経済問題を中心に展開する。つまり、「カブトムシになったやっかいな息子・兄の扱い」と同時に「働き手が不在となった家計をいかに維持するか」という二つのことが、このウィーンのユダヤ人家族にとっての関心事となる。

 その後物語は、最初は兄に対して同情的だった妹が、やむを得ず洋品店で仕事を始めるころには、兄という概念からカブトムシ=害虫という概念に変換(変身)していく(「グレゴール」と呼ばずに「虫」と呼ぶようになる)心の動きが丁寧に描かれる。そしてこれを契機として、当初から害虫扱いをする父と狼狽するだけの母も、グレゴール=邪魔者というイメージを強く家族で共有することとなる。そうした家族の意向を察ししたグレゴールは、「家族の平和のために」死んでいくが、家族三人は死骸の処理を女中に任せて、自分たちはピクニックに行き、乏しい家計に見合った家へ転居してく(そもそも、グレゴール一人の献身により、分不相応の家に家族3人は暮らしていたのだ)。そこにはもうグレゴールという人間や、カブトムシがいたという記憶も遠い彼方に消え去っている(家族3人の心は「変心」している)。

 そう、この作品は、家族のために聖職者の如く献身しているグレゴールという青年が、突然カブトムシに変身し、家族への献身ができなくなったということよりも、グレゴールにとって最も大切な存在である家族のグレゴールへの認識が、献身できなくなったことを理由に自己中心的に変心していく物語である。グレゴールがどんなに家族を愛し、献身していても、家族にとってグレゴールは単なる「金の運び手」でしかない。つまりグレゴールが過信していた一方的な家族愛の物語なのだ。そして家族とは、人間とは、生きるとは、なんと冷酷で残酷なことか。

 ナボコフは、大学での文学講義で、このグレゴール以外の人物を「フローベール的登場人物」と表している。つまり、『ボヴァリイ夫人』に登場するような俗悪で自分の欲得しか考えていない人物である。少なくとも、二十世紀初頭のプラハのカフカの周囲には、十九世紀中頃の南フランスと同様の俗悪な人物が充満していたのだろう。

 ところで、この作品中に、いろいろと私のアンテナにひっかかる項目があったので、それを紹介したい。

(1)グレゴール・ザムザの性癖

 自分の部屋に唯一飾ってある絵で、しかも絶対に片付けられて欲しくないものである絵がある(P.6とP.57)。それは、毛皮の帽子・襟巻・マフ(手を温めるもの)姿の女性を描いた広告の絵だ。同時代の作家ハンス・ザッヘル・マゾッホの『毛皮を着たビーナス』は、マゾヒズムという精神病理学用語が出来る題材となった有名な小説だが、マゾッホ自身は自らの性癖を自覚していなかったようだ。

 しかし、精神分析学の始祖ジグムンド・フロイドによれば、これは完全な性的コンプレックス(複合概念)と見なされることになった。『変身』において、主人公グレゴールが「毛皮の女」を好むということは、どこかマゾヒズムの臭いがする。カフカの代弁者でもあるグレゴールは、家族が安穏と暮らすために自分一人が辛い労働を我慢してしており、さらにカブトムシになってからも家族の幸せのために、自ら犠牲になる(死ぬ)ことを願うように、グレゴールはマゾヒズムの傾向を見せている。

 また、家族を養うためにやむを得ず独身生活をしているグレゴールが、一度だけ恋愛を告白した女性がいたことが知らされる(P.67)。その女性は帽子屋のレジ担当の店員と説明されて、年齢や容姿については言及がない。また、グレゴールは「間の抜けた求婚の仕方をやった」と回想されている。しかし、グレゴールが部屋に飾っている絵から推測すれば、おそらくその帽子屋の店員は毛皮の帽子を扱っていたと思われる。

 また、その女性はたくましいビーナス型の体系であったと想像できる。もっと「帽子屋」のイメージを膨らせれば、ルイス・キャロルの「気違い帽子屋」であり、彼が参加する無限連鎖の「気違いお茶会」では、意味のない(ノンセンス)な会話が延々と続く。もちろん、そこには「求婚」などという建設的な言辞はどこにもなく、恋愛は失恋で終わることで無限連鎖が続くのだ。

(2)「3」という数字

 グレゴールを囲む家族は父・母。妹の3人である。グレゴールが働けなくなった家計を支えるために始めた間借人は3人であり、しかも口髭が立派で居丈高いリーダー格の男と随臣のような2人からなる。家で雇っている女中は、グレゴールがカブトムシに変身した後逃げ出し、2人目の女中は台所に籠ってグレゴールを避け続けた後に辞める。3人目にきた屈強な老婆は、グレゴールをまるで蛇蝎の如くに見なし、サーカスの猛獣遣いのように椅子で戦おうとする。ここには、「3」という神話的数字の繰り返しが見られる。

(3)グレゴール・害虫・家族

 この3人目の女中となった老婆は、父親の投げたリンゴによる傷と妹が食事を世話しなくなったことによる衰弱で死んだグレゴールを、最後に発見する役割を担う。そして、「さあ、行ってごらんなさいましよ、あれが往生しとりますぞ!すっかりくたばって、のびておりますわい」と家族に報告する(P.85)。それに対する家族の反応は、父親の「さあ、わしらは神様へお礼を言わなくちゃなるまい」(P.86)という安堵のものであり、息子・兄が死んだことの悲しみはどこにもない。そこには害虫がいなくなったことの、単純な喜びだけがある。

 それでも妹のグレーテが「ねえ、ごらんなさい。兄さんはなんてまあ、やせていたんでしょうね。(以下省略)」(P.87)と、一時的に害虫というイメージから肉親というイメージを持つ時がある。それは、「実際、グレゴールのからだはすっかり平べったくなって、乾からびている。彼はもう小さな足で立ってはいなかったし、他人の視線をそむけさせるようなものも無くなっていたから、いまになってはじめて人々はそれに気がついたわけだ。」と地の文で説明されているが、この描写を忠実に解釈すれば、死体となったグレゴールは、カブトムシから元の人間の姿に戻っていたのではないかと想像できる。

 それも「乾からびた」身体となっていることからイメージされるのは、カブトムシになってからの人為的な飢餓によるものに加えて、家族からあらゆる搾取をされた末の末期状態でもあることがわかる。グレゴールは、家族の稼ぎ手としてまるで奴隷のように搾取され続け、最後に搾取されるものが無くなったため、干乾びて死んでいくのだ。それを看取したグレーテに気づいた母親は、自分たちの「罪」を忘却するべく、グレーテと二人きりになって、彼女の同情心を払拭しようとする。父と母にとって息子グレゴールは、例え元の身体に戻ったとしても、稼ぐことができないのであれば「用済み」の「害虫」でしかないのだ。

 この作品は、グレゴール・ザムザというマゾヒズム的性向を持った青年が、家族に搾取された末のカブトムシへの「変身」を扱った物語ではなく、グレゴールに対する家族の心が、グレゴールの有用性が喪失することによって、容易に「変心」していく物語である。

「ある戦いの描写Beschreibung eines Kampfres」

 このまるでボードレール風の散文詩は、カフカが小説を書きだした頃の作品ということだが、シュールレアリスト達が絶賛したその脈絡のない文章は、非常に読み辛く、物語の展開はなく、さらに錯綜しながら出現する登場人物のキャラクターもまったく不明なままで終わる内容となっている。その中で狂言回し的な役割をしているのが「私」であるが、これはカフカ自身の投影である。

 その中で、「祈禱者」と称される人物と「私」との間でなされた会話における、「私」の主張は、二十世紀に盛んになった記号論や言語学のテーマと一致しているのが、かなり興味深い(下記に引用)。そこには、シュールレアリズムよりも言語学的記号論の陰が強くある。そして、「私」が問いかけている相手は「祈祷者」であるとともに、この会話中で言及している「バベルの塔」や「ノア」という固有名詞から、旧訳聖書(つまりユダヤ教)における神=ヤハウェであると推測できる。ここまで来ると、本作品は実存主義哲学的小説の先駆けと見なすこともできるだろう。しかし、そうした面を評価しても、この作品は面白くない。

P.139「Ⅱ楽しみごと または 生存不可能性の証明 3肥大漢 b祈禱者となされた対話」

「じっさい、あなたはなにを言ってるんですか。あなたがどんな状態にいるか、私が最初から見抜いていたことは、やっぱり、ほんとうでしたよ。そいつは、このような熱病、陸地にいて感じる船酔い、あるいは一種の業病じゃありませんか。あなたはすっかり熱にうかされて、物のほんとうの名前では満足できなくなったものだから、いろんな物の上へ大急ぎで偶然の名前をばらまこうというじゃありませんか。

 さあ、急いだり、急いだり!だが、あなたがそれらの物からちょっとでも走り去ろうものなら、すぐまた、それらの名前を忘れてしまうことでしょうな。それがポプラだということも知りたくないもんだから、あなたが『バベルの塔』なんて名前をつけてやられた、あの野っぱらのポプラの樹はまた名前がなくなって、風がふらふら揺れていたりするんで、あなたは『酔っぱらったノア』とでも今度は名前をつけてやらなきゃならない」

 この引用した箇所や、巻末の解説から推測すれば、「私」が戦っている相手は、自分の別の人格であるように読める。しかし、その人格はどこか「神」にもつながっている部分もあるので、矮小な人間の二つ目の人格とは言い切れない。もっと大きな、カバラ的な小宇宙(ミクロコスモス)と大宇宙(マクロコスモス)との照応を表現しているのかも知れない。それはまた、ユング的用語を使えば、表層の自意識と深層の集合的無意識とも言える。しかし、それらはあくまでも読み手の勝手な推測でしかない。この非常に難解な散文詩的短編は、永遠に読解することを拒否しているというのが、私の正直な感想だ。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、自由律俳句集です。>




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きーやん(木下裕治) しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。