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<Essay>「100分で名著」「ドラキュラ」に対する違和感

 2025年10月6日から27日までに放映された、NHKEテレ「100分で名著」の「吸血鬼ドラキュラ」の回は、第1回の放送から、私には違和感満載の感想となってしまった。

 まず、私はブラム・ストーカーの「吸血鬼ドラキュラ」を高校1年生のときに翻訳したものを読み、それから50年近く経った後に英語の原書を読んだ。そして、何よりもルーマニアのブカレストに3年近く滞在して、東欧の空気を吸った。こうして「ドラキュラの」舞台となるトランシルヴァニア地方の肌感覚を得た。また、これらの経験を踏まえて、noteに長文の書評を三回に分けて投稿した。

 以上の経緯から、「吸血鬼ドラキュラ」については、一般の読者よりは少しは多い知識を持っていると自負している。また私は、英文学の専門家でも学者でもないが、それなりに文芸書を乱読することで英文学に関する教養も得ている。従って、専門の英文学者と論争することはできないが、英文学に関心の高い読者の一人として、意見を述べることは可能だと考える。

 以上の観点から、「吸血鬼ドラキュラ」についての私見を述べたい。

 第1回の放送では、「吸血鬼ドラキュラ」に対して「新しい視点」であることを強調するあまり、絶対に外せない基本から大きく逸脱していると感じた。なお私は、ウラジミール・ナボコフ(『ロリータ』の作家)の文学論に共感するところが大きいのだが、それは「作家個人の来歴を研究するのではなく、作品そのものを研究すべきだ」ということである。この観点から見ると、解説者は大きく逸脱している。

 解説者は、作者ブラム・ストーカーがオスカー・ワイルドと友人関係であったことを強調して、彼が同性愛者であると見なし、そのマイノリティー(社会的弱者)としての意識が、ドラキュラというマイノリティー(怪物)に反映しているという。また、英国の帝国主義の道具である英語の威力が、ドラキュラの英語学習に表現されているという。

 さらに、ストーカーやシェリダン・レ・ファニュ「カーミラ」にあるように、吸血鬼小説がアイルランド人作家によって書かれたのは、英国によるアイルランド支配に対する抵抗であり、アングロアイリッシュ(カソリックのアイルランドに移住した英国教会の人間で、アイルランドが英国に併合された後に零落した。ストーカーはこの階層の人間)というマイノリティーの意識が反映しているからだという。そして、なによりもドラキュラは、ルーマニア(トランシルヴァニア)の物語ではなくアイルランドの物語であると強調するのだ。

 ここで、解説者が欠落あるいは省略した基本的な事項を列挙したい。まず吸血鬼小説が登場したのは、19世紀末という近代科学が著しく発達した時代である一方で、それに抵抗する力として錬金術などのヨーロッパの深層に隠れていた神秘思想(オカルティズム)が表層に登場した(ゴシックロマンが流行した)時代であったこと。また、ワイルドなどの同性愛が重罪となったのは、ピューリタン的道徳観及びヴィクトリア朝の過剰な厳格さの反映であり、その理由は政治的なものではなく宗教的な社会概念であること。

 当時のヨーロッパ世界では、世界帝国となった英国の文化人を筆頭に、ヨーロッパの文化人は東方(オリエント)への強い憧れを抱いていた、ルーマニアはその東方(オリエント、中東、インド、中国)へ近い場所であるとともに、イスラムのオスマン・トルコに支配された歴史がありながら中世スラブの文化を維持していること、さらにウィーンのハプスブルグ家の宮廷文化と言う、成金階層の英国人にはない「芳醇な歴史と文化を持っている東欧」というイメージがあること。

 また、主人公のジョナサン・ハーカーを「イギリス人」と言いきってしまうのは無謀である。なぜなら、「ジョナサン」とはアイルランド系の名前であり、ジョナサン・スイフトというアイルランド人の偉大な先達もいるくらい、「アイルランド人」の一般的な名前である。

 以上のことを全て省略してしまい、自らの主張する「新しい視点」のみを持ってドラキュラを解説することは、著しく偏向した、また一般的とは言えぬ解説であると言わざるを得ない。

 第2回の放送を観たが、今度は女性差別問題に無理矢理こじつけていることに飽きれてしまった。

 特にドラキュラ城に棲む三人の女性吸血鬼がその象徴であるような主張は、結論を決めた上で使い勝手のよい理由を探し出す「ためにする理屈」そのものでしかなく、これは英文学研究というよりも社会学及び政治学研究としての利用でしかない。そもそも、吸血鬼(怪物)と女性とはギリシア神話の時代から関係が深いものだ。

 例えば、旅人に謎かけ(最初は四本足、次は二本足、最後は三本足の生き物は何か?=人間)をして、負けた人間を食い殺していたスフィンクスは、若い女である。また人類共通の古典『オデッセイアー』には、キルケーなとの魔女が沢山登場する。ルーマニアを代表とする東欧に残る吸血鬼伝説の主人公は女性が大半であり、これは巫女や魔女という概念が女性であることと共通している。

 つまり、ユング心理学や神話学の観点から見れば、女性は豊穣や出産という、より自然の脅威に近い存在であるために、古代から魔性と関係づけられていただけであり、そこに社会学的なまた政治的な女性差別思想を無理矢理に読み取ることは、自分の主張に都合の良い部分を探し求める行為でしかない。これは文学研究ではなく、社会学(女性学)における恣意的な引用である。

 また、ドラキュラの大英帝国における最初の被害者であり吸血鬼に変身した人間であるルーシーについて、その杭を打ち込む殺され方に性的なイメージを強く主張し、また、差別された女性のイメージを重ねることは、上述した「ためにする理屈」そのものである。まず杭を打ち込むのは、女性だからではない。杭を打ち込むのは魔物の心臓であり、心臓が生命の中心であるという当時の意識の反映に起因している。

 もしここに性的なイメージを見るとすれば、何よりも首筋から血を吸う行為であり、ドラキュラという中世ヨーロッパの古い民衆文化を体現している存在が、世界で最も早く近代化した工業文明を発達させた大英帝国の女性(大英帝国は、ヴィクトリア女王ばかりでなく、ブリタリアという女神でイメージされている)から、生命力(国力、政治力、経済力、文化力)を「吸血」することに例えるべきである。

 ここには、急激に発達した大英帝国が、旧態依然とした東欧の文化からの反撃を受けることが表現されている。また、吸血鬼退治の権威であるヴァン・ヘルシング(オランダ語原音に近い表記なら、ファン・ヘルシング)が、古いヨーロッパ文化を代表してオランダから来ることにも強調されている。つまり(ゴシックロマンの流行という)文化の反動現象である。

 第3回の放送では、益々「ドラキュラ」というゴシックロマンの本筋から遠のいてしまい、フェミニズムに無理矢理関連付けられるところを部分的に抜き出して、てんでわからない理屈を述べるという主張をしていた。この主張は、本人以外は誰も理解できない論理以前のもので、聞いていてなぜそうなるのかがまったく理解できなかった。

 「ドラキュラ」の後半に登場するレンフィールドという精神病患者についての解説も、フェミニズムに関連した社会的弱者として扱っていたが、実際に作品を読んでいれば、彼はドラキュラがロンドンで必要とする手下に選ばれただけであり、精神病者という弱い存在故にドラキュラに利用される可能性が高かっただけであることがわかる。

 また、ジョナサン・ハーカーの妻であるミーナを、フェミニズムの先駆者のように見なすのも全く論外である。ドラキュラ退治グループからミーナが排除されたことを、ミーナが「騎士道精神」と揶揄したように説明していたが、「騎士道」という用語を使った理由は、ドラキュラという中世のイメージと対決するための、同じ中世としてのイメージの用語として使用しただけである。中世の騎士道物語や伝説では、魔物と対決するのは騎士と決まっている。

 また、作者のブラム・ストーカーが、フェミニズムを意識していたというのは、まったくのお門違いでしかない。ストーカーは、アイルランドという妖精の国に生れたことから、アーサー王と円卓の騎士、そして魔法使いマーリンという中世の伝説を身近に感じていた作家である。一方、19世紀末ロンドンは、科学と進化に対する信仰に基づく近代科学文明万能の世界であった。

 これに対して、旧大陸ヨーロッパのさらに中世のイメージを維持していた東欧のドラキュラを、アンチテーゼとして提示したというのが、「ドラキュラ」の本筋である。それを、フェミニズムの観点からのみ見るというのは、例えば『源氏物語』を女性差別の物語と批判するのと同様のものでしかない。

 最終回を見たが、やはり初回から一貫してテーマにしているジェンダー論、しかも現代社会を分析したジェンダー論を、19世紀末ヴィクトリア朝大英帝国のゴシックロマンの世界というまったくお門違いの分野に、無理矢理当てはめていることに閉口するしかなかった。そもそも、この小説の主人公はドラキュラであり、そのドラキュラと最初に対峙するジョナサン・ハーカーとの物語である。そして、脇役として妻のミーナや吸血鬼研究者のヴァン・ヘルシングが登場するのであって、それをあたかも差別された階級の代表者(弱者)として強調することは、牽強付会の際たるものでしかない。

 さらに、ドラキュラを怪物とだけみなし、女性差別、精神障害者差別、同性愛者差別と同列に社会的弱者として論じている観点は、最初から結論を決めておき、それを補強するための「ためにする理屈」にしか見えない。ドラキュラはたんなる怪物ではない。また怪物と称していること自体が、解説者が強調する「差別」である。もともとは普通の人間であったドラキュラが、最後に微笑しながら死んでいったのは、決して階級差別を逃れたからではない。彼の、何百年にもわたる吸血鬼としての死ねない生活が終わったからだ。

 吸血鬼と一般に称されているが、ドイツ語圏や東欧では「ノスフェラトウ:不死の者=死ねない者」と称されているのが「ドラキュラ」である。これは「不死身」であると同時に「死」という終わりを迎えられず、永遠の(他人の血を吸い続けるという)苦難の生活を続ける存在である。こうした生活を終えたかったのは、誰よりもドラキュラ本人である。なぜなら、彼はもともと普通の人間であったが、ドラキュラになった後も人間であるからだ。従って、ドラキュラを「怪物」と称し人間でない存在と見るのは、間違っている。ドラキュラは我々と同じ人間であり、ただ死ねない人間=ノスフェラトウであるだけなのだ。

 一方、作者ブラム・ストーカーがアングロアイリッシュの同性愛者であったことを強調し、最初と最後の舞台がルーマニア(トランシルヴァニア)であることを、敢えて軽視していることは疑問でしかない。また、最初と最後にオリエント急行でルーマニアに向かう場面があるのは、単なる近代文明の象徴として鉄道を使用しているのではない。妖精と魔法使いの国アイルランドから、テープレコーダー(蝋管蓄音機)・タイプライター・催眠術などで近代化したヴィクトリア朝大英帝国を挟んだ大陸の東にある、妖精と魔法使いと魔女の国ルーマニアに、ヨーロッパ文化の深層に閉じ込められたユング的な集合的無意識の声を聞きに行くことの表現である。

 いわばオルフェのような冥界への道筋が、西から東へと向かうオリエント急行の旅に表現されているのである。特に最初にジョナサン・ハーカーがドラキュラ城に向かう場面は、アイルランドの妖精の棲む辺境の地へ向かうのと同じベクトルで語られている。ハーカーは、ドラキュラに象徴されるルーマニアに残っていたヨーロッパの集合的無意識に会いに行ったのだ。そこはまた、イスラムのオスマン・トルコとの最前線であるため、より一層深いオリエント(東方)の文化との接点でもあったことから、その集合的無意識はヨーロッパからアジアまで広がるものになっている。

 つまり、ジョナサン・ハーカーたちは、ドラキュラを葬り去るためだけではなく、自らの集合的無意識に出会うための旅をしたのであり、ルーマニアというオリエントとの接点において、死ねずにいたドラキュラに終わりを迎えさせることによって、ようやくヴィクトリア朝の近代と対峙できることになったのだ。

 こうしたドラキュラ解釈の本筋を無理矢理排除して、現代のジェンダー論や社会学的差別論に使えるところだけをピックアップし、そうしたことをテーマにした小説だと恣意的に解釈することは、何ら新しい読み方でも最新の文学研究の方法でもなく、「ドラキュラ」という古典と「ドラキュラ伝説」という文化を踏みにじる牽強付会の悪しき行為でしかないと、私は反論したい。


<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、書評やエッセイなどをまとめたものです。>


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きーやん(木下裕治) しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。