主人公側に据えることで、どんな人たちも「まとも」に見えてくる現象
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私はゲームをやっている中で、主人公側の悪の要素に気付くシーンがたびたびありますが、個人的に最も顕著だと思える作品が「ファイナルファンタジーⅦ」です。
FF7では、主人公側のテロ組織「アバランチ」と神羅カンパニーとの戦いが繰り広げられており、主人公側の悪行が詳しく描かれている状況でしょう。
ただ、実際にこの作品をプレイしている中で、主人公側に悪い印象を抱く人はあまりいない気がします。
また、「東京喰種」という漫画、アニメ、映画作品もありますけど、これは端的に言えば殺人鬼を主人公側に据えています。
原則として(生きるために)人間を殺して食べるしかない、食料として機能するのがほぼ人間のみである喰種という種族をメインに描いている作品であり、作中の(敵側である)人間目線からすれば人殺しにしか見えない喰種が主役です。
喰種は見た目は人間とほぼ同じなため、(自身が喰種であることを隠しながら)人間と共存する姿勢を見せる喰種もいるわけですが、そんな喰種を殲滅させようとする国が運営する組織もあり、人間と喰種の争いは続いていきます。
こちらも喰種である主人公側(厳密に言えば主人公自身は喰種と人間のハーフのような存在)に悪い印象を抱く人はほぼ皆無でしょう。
この東京喰種という作品(続編の「東京喰種:re」も含めて)は個人的にはとても印象深い作品で、かなりのお気に入りでもあり、たくさんの人たちに読んでほしいという思いがあります。
ファイナルファンタジーⅦも東京喰種も客観的に見たら、主人公側の行為を是認しづらい箇所が存在するものの、そこを気にしながら作品を楽しんでいる人は多くないのではないでしょうか?
主人公側は詳しい描かれ方がするのが通常で、それは評価を一変させる要素になり得ますし、それによって主人公側がやっているどんな行為に対しても、許容の精神が生まれ、彼らを問題ない人物として認識し始めると思うのです。
以下の記事で似たような点に触れていますが、結局は主人公側というのは、彼らの事情を詳しく知ることができる点が特徴であって、そこに感情移入してしまう人が多いのかもしれません。
このような光景というのは、いわゆる「ストックホルム症候群」に近い心理状態ではないでしょうか?
親しくない人に親しみを覚えることで生じる共感の気持ち
犯罪者など、通常は自分にとって害となり得る人たちであっても、長く一緒にいることで、最終的に親しみの気持ちを抱くことがあります。
某ゲームでは「手間がかかるほど愛着がわく」というセリフもあった気がしますが、結局は犯罪者だろうが、血縁関係者だろうが、それ以外だろうが、長い時間を共に過ごす中で育まれる親しみは共通なのです。
そして、親しみを感じる相手に対しては同時に共感の気持ちも生まれやすいのではないか?と思います。
つまり、相手がどんな人たちであろうと、長く一緒に過ごすことで家族同然の気持ちになることもあり得るわけです。
それはフィクションであっても同様で、見方次第では悪人に見える人たちを描いた作品であっても、実際にプレイしている、読んでいる中では悪い印象は生まれようがないケースもあり得ます。
自分が善人であると考えてしまう気持ちも、結局は「自分が人生の主人公だから」という理由
世の中を見渡す中で、私はいろいろな不思議な部分を見出すわけですが、その1つがなぜ人間はみんな自分が正しいと思っているのだろうか?という点です。
何かの主張をするシーンにおいて、まず自分が正しい(感覚を持っている)人間であるという証明をしてからという人は私を含めてまずいません。
しかし、自分が正しい人間と言い切れないならば、そこから出る主張も正しいとは言えず、さらにその人が否定する対象が悪であるとか、間違っていると確定することはできないはずです。
でも、そのような状況が確認できないということは、無意識のうちに人間は自分を正しいはずだと思い込んでおり、思考停止の状態になっているのでしょう。
それは自分という人間は自分が最も理解しているはずで、自分が生きる人生における主人公が自分自身だからです。
誰もが自分を中心に人生を生きているはずで、自分は四六時中意識していますが、他人を意識できるシーンは限られます。
素性や事情が理解できない人間というのは、どうしても親しみもないですから、共感できる余地も小さくなります。
ということは、親しみを最も覚えやすい自分自身に共感するのが最も心地よく、自分が間違っているという判断は逆に言えば最も心地の悪い状況なのではないでしょうか?
クマと人間の昨今の問題を見ながら思ったこと
2026年現在の日本では、クマのニュースが世間を騒がせており、人間に危害を加えている事態もたびたび確認されているようです。
人間はクマを危険な存在と認識し、排除したいと考えているケースが多いかもしれません。
これ自体は自然な光景というか、当たり前と感じている人たちが多いと思われるものの、東京喰種という作品を読んだうえで言えば、何とも奇妙に感じる箇所が個人的にはあります。
東京喰種では、人を殺さないと生きることが難しい喰種側が「人間も動物を殺して生きているのに、喰種がなぜそれを(人間に対して)やってはいけないんだ!?」といったセリフがあったと記憶しています。
現実の人間も生きるために動物を殺していますが、そんな人間は動物から殺されるのを恐れているし、それ自体を防ぐために逆に動物を殺すことを容認している場合が多々あります。
殺されたくないのは人間も動物も同じであるため、それ自体に違和感を抱く人は少ないかもしれません。
ただ、客観的に見たら「非常に身勝手な言い分」に聞こえる面もあります。
例えば、人を殺したことがある死刑囚が「死刑は嫌だ!やめてくれ!」と懇願していたら、それこそ「身勝手」だと感じる人が大半ではないでしょうか?
では、動物を殺している(それを容認している)人間が動物に殺されるのを嫌がるのは身勝手ではないのでしょうか?
人間が動物を殺すのは「生きるため」という理由ではあるものの、その理由を特別視しないといけない理由はあるのでしょうか?
動物を殺して食べても永遠の命は手に入らず、人間の致死率100%に変化はありませんが、その状況でなぜ生きるためなら殺して構わないのでしょうか?
長生きするためでしょうか?だとしたら、お金がなくて死にそうな人がお金にかなり余裕のある人からお金を盗む(そのうえでできるだけ長く生きる)のはいいのでしょうか?
殺すのはOKで、盗むのはダメな理由(そのような法律が存在する正当性)を説明できるでしょうか?
それに人間は故意に動物を殺していると認められそうですが、クマの場合には故意とは言い切れないでしょう。
世間の常識では故意の方が過失よりも問題であると評価されるのでしょうし、この点から言えば人間の行動の方が問題と言える余地があります。
一般的に「身勝手」と称される行動は問題であり、避けるべきであるという常識があると思いますけど、その理屈に沿うならば、人間はクマに殺されても仕方ないという状況になります。
そんなことを言われても、感情的に、本能的に人間は自らの命を守りたいと考えるため、クマに襲われるのを容認できるはずはありません。
私も同様に考えていますが、私の場合は先ほどの死刑囚の気持ちも当然であると考えているので、もはや人間というか、生物はみんなが「身勝手である」と認めるのが筋だと思っています。
それこそクマだって人間を襲いながら、自らが殺されるのは避けようとするはずですし、身勝手はもはや悪いことではなく、食事や睡眠と同様に生物の本能であると認めて生きることが、いわゆる「正義」になるのではないか?と私は考えているのです。
