心のまんなかに、小さなボタンがある。
「がんばる」と書かれた、そのボタン。
押すと身体に力が入って、しゃんと背筋がのびる。
しなければならないことに立ち向かえる、頼もしいボタンだ。
彼はそのボタンを、いつからか押しっぱなしにしていた。
朝、目を覚ました瞬間から、ボタンはもう押されている。
仕事の日も、休みの日も。ごはんを食べているときも、お風呂に入っているときも。
ずっと、かすかに力が入っている。
オフにする方法を、いつのまにか忘れてしまっていた。
だから、横になっても頭のどこかが働き続ける。
明日のこと、やり残したこと、誰かに言われた言葉。
目を閉じているのに、ちっとも休んだ氣がしない。
それでも彼は思う。
もっとがんばらなきゃ。休んでいる場合じゃない、と。
眠りが浅くなり、肩はいつも重く、ため息が増えた。
それでもボタンから指を離せない。
離したら、自分がだめになってしまう氣がして、こわかったのだ。
ある夕方、彼はいつものように急いで歩いていた。
すると、道ばたのベンチで、おじいさんがゆっくりお茶を飲んでいるのが目に入った。
夕日を眺めながら、なんでもない時間を、ただ味わっている。
急ぐでもなく、何かを成し遂げるでもなく、ただ、そこにいる。
その姿を見た瞬間、彼の胸のあたりが、ふいにゆるんだ。
「……僕は、いつから、ただ座っていられなくなったんだろう」
家に帰って、彼はソファに腰をおろした。いつもならすぐに次のことを考えはじめるのに、その日はなぜか、手を止めてみたくなった。
心のまんなかのボタンに、そっと指をあてる。
ずっと押し続けてきた、その指をゆっくり、離してみる。
かちり、と小さな音がした。
すると、張りつめていた身体が、ふうっとほどけていった。
肩から力が抜けて、呼吸が深くなる。
何もしていないのに、ずっとしたかったことをやっとできた、という感じがした。
こわくなかった。
ボタンをオフにしても、彼は彼のままだった。
だめになんて、ならなかった。
がんばることは、悪いことじゃない。
ボタンはちゃんと必要だ。
でも、押しっぱなしにしなくていい。
使ったら、ちゃんと休ませてあげていい。
指を離す時間があるから、また押せるのだから。
その夜、彼は久しぶりに、深く眠った。
朝が来たら、また必要なぶんだけ、ボタンを押せばいい。
そして疲れたら、また指を離せばいい。
それを繰り返していけばいいのだと、彼はようやく思えた。
何もしない時間は、むだじゃない。
その時間が、今の自分を支えている。





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