光の届かないところにいる君へ
僕は音楽に救われた。
前に、そんな記事を書いた。
それが、僕が歌詞を書くようになったことにも繋がっている。
僕には昔からコンプレックスがある。
人に物事を説明するのが、「下手」ということ。
人に何かを教えるのもそう。
道を教えるのもそう。
「こんな面白いことがあったんだよ」って話をするのも、なぜかうまく伝わらない。
面と向かって話していると、途中から自分でも何を言いたかったのか、何を伝えたかったのか、よくわからなくなってくる。
その点、歌詞(詩)は「それ」で良い。
時間を掛けて考えられるし、何度でも書き直せる。
そして何より、伝えたいことが伝わらなくても、それはそれで成立するということ。
歌詞には正解がない。
正しく伝わらなくてもいい。
なんなら伝えるのが少し下手くらいの方が、考える余地が生まれると思う。
何より僕自身、誰かの歌を「正しく」受け取ったから救われた、というわけじゃないはず。
その歌を書いた人が込めたものが、100%そのまま僕に伝わるなんて有り得ないから。
歌は誰かに聴かれた瞬間、書いた人だけのものじゃなくなる。
どう受け取るかは、聴いた人に委ねられる。
例えば、好きな人を「月」に例える。
歌詞の中で、
「月に見惚れる」と歌う。
それを聴いた人は、
「あー、たしかにそういうときもあるか。月が綺麗なときってあるもんな」と思うかもしれない。
それでいい。
でも、僕だけは本当の意味を知っている。
「月に見惚れる」は、
「君に見惚れている」ということ。
こんなこと、歌詞じゃないと恥ずかしくてなかなか口にできない。
でも歌詞なら、それが味になる。
本当に好き放題書けてしまうということ。
「伝わらないこと」が、僕の中で正解になる歌詞もある。
伝わるか、伝わらないか。
そのギリギリのラインを狙うこともある。
この曲はストレートに伝わってもいいから、「月」なんて例えずに「君の横顔」くらいにしておこう、と考えるときもある。
もちろん、メロディとの噛み合いは考えなきゃいけない。
詩にしたって、読むテンポみたいなことは考える。
そんなことをあれこれ考えるのが、面白い。
でも、考えてみれば、これは歌詞に限った話でもないのかもしれないと思えてきた。
そもそも、人が人に何かを100%そのまま伝えることなんて、不可能なんじゃないだろうか。
僕の中にあるものを言葉にする。
その時点で、きっと少し形が変わる。
そして、その言葉が人から人へ渡った時点で、もう100%同じものではなくなる。
僕が思い浮かべる「月」と、あなたが思い浮かべる「月」は違って、僕が「寂しい」と書いたときに思い出している夜と、あなたが「寂しい」と読んで思い出す夜も、きっと違う。
それなら、伝わらないことをそんなに怖がらなくてもいいのかもしれない。むしろ、そのズレがあるから面白い。
僕が込めた意味とは違う意味で、誰かの大切な歌になることだってある。
そう考えるとnoteも、僕にとっては少し似ている。
全部が全部、僕の意図した通りに伝わらなくてもいい。
僕が書いたものを読んで、僕とは違うことを考える人がいてもいい。
僕が込めていなかった意味を見つける人がいてもいい。
人から人へ伝わった時点で、もう僕だけのものじゃない。
僕の言いたかったことと、あなたが受け取ったものが違っていてもいい。
書いた僕だけが、本当の意味を知っている。
そして、読んだあなたにも、あなたの正解がある。
たぶん、どちらも間違いじゃない。
僕が誰かの文章から受け取ったものと、その人が本当に伝えたかったことは、きっと100%同じじゃない。
それでも、僕には届いたものはある。
だったら僕のnoteも、それでいい。
僕が込めたものとは少し違う形になってもいい。
僕の知らない意味を持ってもいい。
思ったようにnoteを書くのが難しかったら、
例え話にしてみたらどうだろう?
それも難しかったら、詩にしてみたらどうだろう?
特に決まりのない、自分にしか意味がわからない詩だとしても、それを人が読んだときに、その人なりの意味が生まれるかもしれない。
この文章もいつか、光の届かないところにいる君まで届けばいい。
