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遠い闇、遠い香り|シロクマ文芸部 お題「波の音」


小牧幸助さんの──

#シロクマ文芸部 お題で書きはじめるnote企画|「波の音」

──に参加しています。


今回は「1,500文字で短編を書く」という自分なりの課題を設定し、会話劇として仕立てました。
夜の海を眺めながら語られる、遠い記憶の話です。






「波の音とか潮の香りとか、もっとするものかと思ってたんだけどな、これだけ海に囲まれてるんだから」

「駅のあたりは、それでも潮の匂いが届いていただろう」

「そうかなあ」

ホテルの最上階にあるバーだった。
窓の向こうには海の碧とも空の碧ともつかぬ宵闇が広がり、そこにいくつもの漁火が浮かんでいる。

「漁火っていうんですか? あんなに明るいものなんだ」

「あれでも昔ほどは明るくできないんだ。いろいろルールがあるから」

「詳しいんですね──あ、教授はこの辺の出身でしたっけ」

「昔のことだよ」

眼前の海に散りばめられた漁火に、手が届くようだった。

風景が、記憶が──闇に溶ける。


「柏木くんは、波の音しか聞こえない──そんな経験をしたことはあるかい?」

「ないですよ。僕、海なし県の出身ですから」

「このへんだと、夜に波打ち際に出ても、街の明かりが多すぎる。
砂浜と海、海と空の境目は、夜目にもわかる。夜空も明るすぎて、星の数も少ない」

「情報量が多い──ってことですか?」

「街灯のひとつもない海辺を歩くと、寄せては返す波が、砂を洗う音しか聞こえない。波が砕けた白い泡だけが、かろうじて道標になる」

「なんだか、ちょっと怖いな」

「──幽霊に会った、と言ったら信じるかい」

「やめてくださいよ、僕、そういうの弱いんだから」

「そんな暗闇に、白いワンピースがぼうっと浮かんだのさ。そして──『Bonsoir.』と」

「え? 幽霊が喋ったんですか?」

「いや、もちろん人間さ。向こうから話しかけてきたんだ」

「教授は、なんて返したんです?」

「わかるかい? 『Bonsoir. La lune est belle, ce soir.』」

「やだなあ、漱石ですか? 怪談話がずいぶん艶っぽくなってきた。
夜の海辺でフランス人とデート、か。どんな話したんです?」

「もう何年前のことなのか……わかるだろう? よく覚えてないよ。ただ彼女は最初、こう言ったんだ──『Pourtant, ce soir, la lune se montre à peine.』」

「なんだ、闇夜だったんですか?」

「月明かりはどこまでも薄かった。だから、波の音だけがあたりを覆っていてね」

「それ、どこなんです? 沖縄とかじゃないだろうし」

「さあ、どこだろうなあ。まあ、旧仏領のどこかさ。彼女に聞かれたよ──『Vous venez de Hong Kong ? De Singapour ?』」

「教授、そろそろ僕のフランス語だと怪しくなってきました……シンガポール?」

「『香港から来たの? シンガポール?』そう言うんだ。『日本だ』と答えるとね、驚かれたよ」

「どうしてです?」

「『Tiens, un Japonais qui parle français ?』──へえ、日本人でフランス語を話す人がいるの? というわけさ」

「それから、どうなりました?」

「どうだったかなあ」

ウィスキーに浸かった大ぶりな氷が傾き、グラスの底を打った。

「名前くらい聞いたんですよね?」

「いや。ただ、彼女の香水──闇夜にも濃かったあの香りだけは、不思議と覚えていた。いつだったか、パリの蚤の市で買い物をしていたとき、同じ香りとすれ違ったことがある」

「結局、フランス人だったんですか?」

「それもなあ──ワンピースから覗いた白い肩が、赤く日焼けしていたことしか覚えていないよ」

「月もないのに、そんなところまで見えたんですか?」

「闇に慣れた目にはね、暗くしたホテルの部屋でも十分明るかったのさ」

「──あ」

「本当にもう、それしか覚えていないよ。それしか──」

波の音が、遠い。(了)



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