若菜ふる──中途半端な男と女6(全14回)
日常へと戻れば元通りになるものと、若菜子は殊更にも考えていたわけではなかったし、そも──。
「では、また」と別れた折にせよ、次はいつ、どこでと、そう明確に決めていたわけでさえない。
決めぬまま、それでも──。
「また」が再び巡る事実を、二人とも、当たり前たるとて意識せず、これと言って──実に露ほども、疑ってはいなかったらしい。
仕事の用件が済み、そこへ私的な言葉を連ねるようになったのが、果たしていつ頃から、であったか。
それすら──。
久我若菜子は実のところ、よく憶えてはいない。
ともあれ気づくともなく、自然にも親密なる言葉が、堆く積もる明け暮れであったは間違いない。
これだけは、疑いようもなき確かな事実──。
「今、終わりました」
「遅かったですね」
「先生は?」
「まだ仕事です」
それだけで途切れる夜もあれば、帰宅をしたとか、食事はこうであったとか、まだ起きているとか……用件にもならぬ言葉達が、深い時間まで連綿と続くのも、決して珍しくはなくなっていた。
そんな秋も深まる深更──。
若菜子は帰宅しても、部屋の明かり全てを点けはしなかった。
鞄を部屋の片隅へと抛り、髪を解く。
上着を脱ぎ、楽な部屋着へと替えてから狭い台所に立ち、換気扇を回す。火に翳したアタリメの端が縮れ、香ばしい匂いが立ち上る。焦げる少し前に引き上げて裂き、小皿のマヨネーズに醤油を落とした。七味の量は、好みと気分に合わせて──。
紙パックから生貯蔵酒を注ぐ。
明日には残らぬ程度に、注ぐ。
大丈夫と思い直し、少し足す。
ワイヤレスヘッドフォンの振動が已み、音が途切れた。
若菜子は、酒杯を口へと運びながら音源表示へと眼を遣り、異なるアルバムを選ぶ。つい先ほどまで、身体を緩ませていた節回しとは、まるで違う声の重なりが、耳底を揺るがしていった。
膝に拡げた本を数頁戻す。赤瀬川原平であった。
「トマソン、トマソン……」
妙な節がついた。
自らが音程の怪しさにも気づかぬまま、アタリメを噛む。
刹那、スマートフォンが震えた。

「まだ起きていますか」
「起きています」
「今日は遅かったですね」
「少し荒んでいます」
「荒んで、いる?」
「ですので、音楽で気分を変えてます」
送ってから、若菜子は紙パックと小皿へ眼を移した。
穐山の返事は早かった。
「少し荒んで、いる?」
「明日には響かない程度です」
「それなら安心しました」
しばらくして、また震えた。
「何を聴いているんです」
「今はペロティヌスです」
「今は?」
「その前はボブ・マーリーでした」
次なる返事は、なぜかしらか遅れてやってきた。
「なるほど」
「何がですか」
「いえ」
若菜子は首を傾げ、七味のついたアタリメをもう一本摘んだ。
酒が進む。
「先生、トマソンってご存じですか」
さらに長く、レスポンスは返らない。
やがて──。
「知っていますけど」
「よかったです」
「どちらのでしょう」
「え?」
「いえ、何でもありません」
穐山の脳裡では、野球選手と都市遺構の二つが交差していたのであるが、若菜子の指すトマソンがどちらであるのか、皆目見当も着かなかった。ともあれ、話題の示す先をぼやかしつ返してすぐ、矢継ぎ早に彼女へと訊ねるやの言葉を繋げた。
「何がよかったんです」
「なんとなく」
そんな調子である。いずれ若菜子には、それで充分な返事ではあった。
このようにして「また」が、幾度か過ぎて去ってはその先へと訪れし夜、若菜子は珍しく早い時間に編集部を出た。
まだ浅い時間──。
駅へと向かう途すがら、スマートフォンを取り出すに──。
これといって決心さえ──要しはしない。決心を求められるとすれば、手袋を取り外して、画面をタップする指がそろそろ悴みやしないかと、精々のところ聊か逡巡をする折の、それほどに留まろうか──。
「先生、今日は家ですか」
「いますよ」
「今から伺ってもいいですか」
送ってしまってから、気づくともなく──。
少しだけ、踏み出し運ぶ歩調が速くなっていた。冷えるからというのではない、飽くまで──。
やがて穐山からの福音が、メッセージアプリにもたらされる。
「もちろん」
二〇時にはまだ間のある頃合いであろうか、若菜子は新宿で乗り換えはせず──予告のままに、穐山光保の仕事場兼自宅を訪れていた。
「本当に早かったですね」
「今日は追い出されました」
「そんな日もあるんですね」
「あります、偶にですけど」
穐山が笑った。
若菜子も笑って、鞄を下ろした。
何か温かいものでもと訊かれ、頭を振るう。
「あとでいいです」
「あと?」
「はい」
穐山が訊き返すより先に──。
そのシャツを軽く摘む、若菜子であった。
口づけまでに、それ以上の言葉を、彼女は疾うに求めやしなかった。
旅先で幾度も重ねた身である。触れられる場所を知らぬでも、相手がどう触れるのかを待つでもない。ゆえに若菜子は、それを当たり前と感じるまでもなく、自ら穐山の背に腕を回し、唇が離れると襟許に貌を埋めた。
穐山の手が腰を抱いた。
その掌が生地越しに背を下りてくると、若菜子は小さく息を吐く。逃れる代りに身を寄せ、触れやすいよう、わずかに腰を捩る。
「久我さん」
「何ですか」
「今日は随分、急ぎますね」
「早く来れましたし」
「そういう話ですか」
「……多分」
笑った唇を塞がれた。先ほどよりも深かった。
寝室へ移る頃には、若菜子のブラウスは胸許まで開き、眼鏡は──最早、外すのさえ忘れていた。ベッドの縁で、癖のせいか穐山が眼鏡を探そうとする。
「掛けて、ます……」
若菜子はその肩を押し、自らも一緒に倒れ込んだ。
肌が一つとなる。
穐山の指が、脇腹から腰骨を辿る。若菜子は擽ったそうに身を捩るが、次に触れられたそこで、不意に動きを止めた。
「そこ……」
「ここ?」
「訊かなくても……判るで、しょ」
声が細くなる。
穐山は答えず、もう一度同じ箇所へと触れた。
若菜子の膝が、自然のままに開く。
初めの頃のように、身体に訊ねながら進む必要は、もうなかった。
憶えられてしまったのが恥ずかしく、そのくせ嬉しい。若菜子もまた、穐山の呼吸が変わる触れ方を、当たり前とばかり胸底へと刻んでいた。
互いの身を知った男女の手は、ときに言葉よりも早かった。
若菜子は穐山を受け容れながら、深く息を吸い、繋がった途端、しばらく動かなかった。苦しいわけではない、無論のこと。ただ、その重さと熱を身体の奥まで確かめたかった、それだけである。
やがて、自分から腰を動かす。
穐山が応える。
ゆっくりと繰り返される往還が二度、三度と重なるうち、若菜子の呼吸から規則性が失われていく。片手で穐山の肩を掴み、もう片方は──ぎゅっとシーツを、握っていた。
「光さん……」
呼んだだけで、その先が続かない。
穐山の掌に、白く豊かな臀を引き寄せられ、深く押し上げられると、若菜子は反射するように、背を反り返らせる。
声を抑えようとして、唇を噛む。
次には、それさえ──忘れた。
穐山の胸に覆い被さるやに、若菜子はその身を預ける。耳許で名を囁かれる。腰の動きと呼吸が連動し、熱が一点を目指して凝集しては、やがて融解していく。穐山の肩に額を押しつけたまま、彼女は移ろいを止められでもしたやに……動かなかった。浅く早い呼吸は措いて──。
身体の震えが静まっても、白き流れが溢れても、離れる気には、どうにもなれず仕舞い──穐山の胸に頬を載せたまま、指先でその肌に、何とはなしにも線を引く。
「光さん」
「はい?」
「順番、逆でしたね」
「何の話です?」
「若菜帖の……」
穐山は一拍ほど、ときの流離うに任せてから──。
「……目に近く、ですか」
「はい」
若菜子は、微かに笑った。
「そういえば、まだやってなかったなって」
「やるものなんですか」
「また一首……やってみました」
「なるほど」
若菜子は身じろぎもせず、しかし天井をぼんやりと眺めていたが、やがては、口の中で──おもむろにも調子を揃え始めた。
身に近く移れば変はる夜の中を
行く末知らでまた頼むかな
詠み終えると、彼女は埒を開けたか満足したのか、もう一度……穐山の胸に、熱き頬を寄せた。
「また頼む、なんですね」
「はい」
「ずいぶん都合のいい歌になりましたね」
「狂歌のような替え歌、戯れ歌ですから」
若菜子は笑っている。
なれば穐山も笑った。
ただ、別の何かが、その耳へと残った。
行く末知らで──。
なぜそこなのかが、自分でも判らない。
判らないままに、若菜子の髪を撫でた。
彼女が帰り支度をする頃には、夜も一層と深まっていた。
「送ります」
「大丈夫です」
「大丈夫なのは知っています」
穐山は上着を取った。
「少し歩きたいんです」
若菜子はそれなら──とも言わず、靴を履いた。
外気は思ったより冷えていた。

住宅の灯りが、途切れ途切れに続く。
閉じた雑貨店の硝子窓に街灯の滲みが映り込み、その先には古い戸建てと、さして丈の高くはない集合住宅が、不規則にも並んでいた。
二人で歩くうち、どこまで共連れすべきか──いつしか曖昧になった。
「もう、この辺で大丈夫です」
「先刻も、聴いた気がします」
「先刻よりも……大丈夫です」
「そう……それは、よかった」
若菜子がほんのり──笑う。
また一つ角を曲がった──『また』
