著書『成り損ない』ドラフト|第四話「覚醒」
俺は、いつからか天体が好きだった。
今になって考えてみれば、天文学者になるという選択肢もあったのかもしれない。
中学に上がる直前の12歳の時、誕生日のプレゼントとして、母親に「天体望遠鏡が欲しい」とねだったことがある。
すると母は、「あんた神経質だから、それで色んなものを見て、もっと神経質になるでしょ! 他のものにしなさい。ギターはどう?」と俺に言った。
俺は「ん? 神経質?」と思ったが、深く追求はせず、母から提案されたギターについて考えた。
小学2年の時、妹がピアノを習い始めるタイミングで我が家にピアノが届いた。
母が「あんたもピアノ習うね?」と聞いてきた時は、俺は「ピアノげな女がやるもんたい」という偏見があり拒否した。
十数年後、後悔することになるとも知らずに。
そして、父に「お母さんからギターを勧められたけど、どう思う?」と質問すると、父は「ギターくらい弾けるようになってもいいんじゃないか。」と母に共感した。
俺は、全く興味がなかったわけではないので何となく同意し、個人経営と思われるギター教室の看板がある楽器屋さんに連れて行かれ、Ariaというメーカーのアコースティックギターを買ってもらった。
購入時、初心者ということで楽器屋さんからギター教室への入会を勧められたが、俺は何となく気が進まず、「とりあえず自分でやってみる」と言って断った。
ところが、教本を見ながら独学でギターを練習するも、当たり前だけど、すぐに指先が痛くなり、Fのコードを押さえる段階で挫折するという、なんともオーソドックスなフェードアウトだった。
しばらく経ってから判明したのだが、母が俺に「神経質だから」と言った理由は、マクロを見る天体望遠鏡のことをミクロを見る顕微鏡と勘違いしていたらしい。
顕微鏡で、色んなバイキンを見て神経質な性格がひどくなると母は考えたのだ。
まったく、アニメ『ちびまる子ちゃん』の顔に縦線が描けるような苦笑の着地だった。
いつしか俺はギターに触れることはなくなり、その誕生日プレゼントは部屋の片隅で埃を被っていた。
でも、音楽に興味がなくなったわけではなかった。
元々、小学生時代の俺は、テレビの前にカセットテープレコーダーを置いて、当時のいろんなTVアニメの主題歌を録音して、その歌を覚えていたくらい音楽は好きだった。
その後、中学のクラスメイトの影響で洋楽に興味を持ち、色んな音楽を聴き漁った。
毎週土曜日の午後、FMラジオから流れる『ダイヤトーンポップスベスト10』という洋楽番組が楽しみで、欠かさず聴いていた。
1970年代のハードロック代表格ディープ・パープルや、『ホテル・カリフォルニア』を代表曲とするイーグルス、そして、その発展系のヘヴィ・メタル、さらにはテクノ・ポップやニュー・ウェイブと呼ばれる音楽など、様々なジャンルで溢れた時代だった。
高校へ進学する頃になると、語弊があるかもしれないが、学校の試験のための勉強は楽勝だった。
クイズやゲームの感覚で、いかにイージーミスを減らすかでしかなかった。
小学校の卒業文集で「普通のサラリーマンになりたい」と皮肉を書いた俺は、この頃には「医者にでもなるかな」と考えていたくらいだ。
大人たちに舐められないことを目的とした俺のミッションは、進学校といわれる高校に入学したことで、ある程度はクリアした。
足場固めができた俺の人生は、順風満帆かのように思われた。
だが、高校受験というハードルを超えたことによって、俺が築いた足場は、このあと俺自身によって崩されることになるのであった。
進学校へ入学したことで、周りの大人たちの顔色は明らかに変わった。
社交辞令の笑顔を張り付けた大人たちが、決まり文句のように「どこの大学行くの? 九大? 将来はどんな仕事するの?」と何度も同じ言葉を投げてくる。
それに対して、俺は次第に不気味な違和感を覚えるようになった。
心の中で「またそれか」と呟く。
なりたい職業を純粋に伝えた時は頭ごなしに全否定され、
皮肉で「普通のサラリーマン」と言った時は叱られ、
今度は、行く大学を勝手に決めつけ、将来の職業を聞いてくる。
俺にとって、それは的外れでしかなかった。
「基準は何? 大切なのは学歴や世間体なのか? どうしろっての? 学歴や職業より、もっと大事な何かがあるだろう。」
俺は、そう思っていた。
これにより、幼少期に芽生えた大人社会への反骨精神を核とした天邪鬼が発動することになるのである。
その時は、俺自身、理由はわからなかったが、本人の可能性を広げるための優しさが欲しかったのだと思う。
この経験は、数十年後に大きな意味を持つことになる。
大学のコンサルティングをする仕事の中で、俺が強く感じた「学生の可能性に対する選択肢を示すことの大切さ」は、まさにこの頃の実感が原点だった。
俺は、高校入学後、親友Yと新聞配達のアルバイトを始めた。
そこには、福岡大学に通う新聞奨学生が二人いた。
その二人は新聞販売所の寮である古い木造アパートに住んでいて、よく俺たちは遊びに行っては、朝刊の広告の折り込み作業を始める時間ギリギリまで徹夜で麻雀をしていた。
その部屋は、誰かの足の臭いがするコタツを中心に、煙草の吸い殻で山盛りになった灰皿、漫画雑誌やエロ本が散乱していた。
大学生は、エンジ色に三本線のジャージと襟がダルダルに伸びたTシャツを着ていて、勉強している姿を見たことがなかった。
それどころか、試験勉強に使う参考書やノートを大学生の部屋で見た記憶がなかった気がする。
俺の中での「大学生」のイメージは、それになってしまった。
それまでは、自分の興味を引くサークルに入って、キラキラした女子大生と過ごす、いわゆるキャンパス・ライフのイメージだったし、実際そういう場面や状況もあったのだと思う。
しかし、俺の目の前にあった大学生活は、コタツの中の足の臭いと煙草臭さが充満する部屋で、いつ洗濯したのかわからないジャージとTシャツで徹夜麻雀をする画でしかなかった。
いつしか大学へ行くことさえ懐疑的になっていた。
大学へ進学して過ごす4年間や6年間が、当時の俺には無駄な気がした。
高1の時、クラスメイトが翌年の学校の文化祭でバンドを組んで出演するという。
俺自身は、それには興味はなかったが、「バンドに、もう1人ギターが必要だから参加してくれ!」と俺を誘ってきた。
あまり乗り気ではなかったが、誘われること自体には悪い気持ちはせず、結果的にエレキギターを買いに行くことになった。
ほぼ初心者のままの俺の部屋で埃を被っていたアコースティックギターは、同じくAriaのレスポールに持ち替えられた。
本番は3ヶ月後。
もちろんオリジナル曲ではなく、コピー曲のみだが、今、考えたら「なんて無謀なことを」と思う。
最初の課題曲は、ボストンの『ドント・ルック・バック』。
まさか、45年後の今、自らの後ろを振り返ったnoteを書くとは、思いも寄らなかった。
本番当日、滞りなく終えたが、所詮、ほぼ初心者の俺がいる即席の高校生バンド。
大した満足感も手応えもなかった。
案の定、そのバンドは続かなかった。
その後、他校のメンバーを含む新たなバンドへの誘いが来るようになり、演奏する楽曲が、洋楽から邦楽に代わった。
というのも、福岡発のバンド、ザ・ルースターズ、ザ・モッズ、ザ・ロッカーズといった面々が立て続けにデビューする「めんたいロック」ブームと呼ばれる時代が到来したのである。
全国的に、大人から子供まで広く知られたかというと、全くそうでもないが、当時の俺ら世代、まして地元福岡の俺に、その台風は直撃した。
「めんたいロック」の先輩バンド、サンハウス、シーナ&ロケッツ、福岡発ではないが、同時期に人気を集めたRCサクセションなどもあり、俺を含めて、多くのバンドファンたちが髪の毛を立てて固めて、化粧とバンダナ、ド派手なTシャツ、そして黒のスリムジーンズにラバーソールの靴といった格好で、コンサートに出かけた。
そして俺自身、何かが変わり始めていた。
単なる音楽やファッションだけではなく、歌詞や時代背景から何かを感じていた。
その後リリースされる漫画『ビー・バップ・ハイスクール』に登場するような、不良高校生。
いわゆる「ツッパリ」へと変わっていった。
授業をサボることも珍しくなかった。
学校のすぐ近くには、俺たちがよく集まる溜まり場「ボイガル」があった。
そこは、本来はパンやジュースを売っていて、気さくなおばちゃんが売り物のインスタントラーメンを店のカウンターで作って100円で食べさせてくれる、今でいうコンビニエンス・ストアなのだが、奥のドアを1枚開けると、おばちゃんの自宅の中庭を改造してあり、テレビゲームが十数台置いてある秘密基地だった。
学校帰りはもちろん、授業を抜け出しては、何人かで煙草を吸いながらテレビゲームをしたり、くだらない話で笑い合ったりして時間を潰していた。
ある日の昼休み、いつものように溜まり場にいると、生活指導のS先生たちによるガサ入れがあった。
おばちゃんが、学校の方から走ってくる先生たちを見つけて叫んだ。
「Sが来たよ! みんな裏から逃げて!!」
俺たちは一斉に、おばちゃんの自宅を抜けて裏口から飛び出した。
必死で逃げたが、後ろから数名の先生が追いかけてくる。
逃げ道の先には浅い川があった。
俺は迷わずフェンスを乗り越え、川を走った。
水深は浅いが、靴や赤い靴下、制服のズボンの裾までもビショビショに濡らしながら全力で走った。
今考えれば、そこまでして授業をサボりたかったわけではないが、当時の俺にとっては、大人に捕まらないことの方が重要だった。
というか、「あっかんべー」をしながら、先生との鬼ごっこを楽しんでいたのかもしれない。
1981年8月17日、マイケル・シェンカー・グループの初来日コンサートを福岡サンパレスへ観に行った。
開演時間になり、フェードインしてくる音楽に重なるように、遠くからヘリコプターの音が徐々に近づいてくる。
オープニングSEは、映画『地獄の黙示録』でも印象的に使われた、クラシック音楽のワーグナー作曲『ワルキューレの騎行』だった。
音量がMAXになり、ヘリコプターの音とともに俺の鼓動もだんだん激しくなる。
そして曲が最高潮に達した瞬間、SEが止まった。
同時に、目潰しのような眩しい照明と、大音量のギターサウンド。
白玉一発の爆音と閃光。
「ドッカーン!」
その「塊」が俺の目ん玉と鼓膜を突然襲った。
巨大な岩が頭上から落ちてきたような衝撃だった。
そのまま1曲目『アームド・アンド・レディ』のイントロへ。
気づくと、俺の目からはボロボロと涙が溢れていた。
どう表現していいのかわからない。
ただ、期待と緊張を極限まで高めるドラマチックな演出に心を揺さぶられ、最後の脳天への一撃で、俺の感情は一気に決壊したのである。
初めての体験だった。
バンド、音響、照明、そしてそこに関わるスタッフ。
そのすべてが一塊となって、オーディエンスに向けて放たれた雷のような音と光。
その感動は、コンサートが終わってからも数時間、俺の脳と心臓を揺さぶり続けていた。
これは、俺の人生における一つの大きな「事件」だった。
別の日、高2の冬。
忘れもしない1981年12月12日土曜日、2限目の授業中、隣の席の悪友Gがメモ紙を渡してきた。
その紙には「次、行こう」と書いてあった。
3限目との間の休み時間に学校のプール裏へ煙草を吸いに行こうという意味である。
そこは人目につきにくく、格好の隠れ喫煙所だった。
俺はGに「しょんべんしてから行くけん、先に行っとって!」と伝え、遅れて向かった。
俺がプール裏に着くと、Gは既に煙草を1本吸い終わるところだった。
そしてGは「俺もしょんべんしたくなった」と言い、その場で後ろを向いて立ち小便をし始めた。
俺は、ポケットの煙草とライターを出し、煙草に火をつけた。
最初の一服の旨さを味わい、勢いよく煙を吐き出す。
「ふーっ!」
すると、その煙の向こうに、生活指導Sの顔があった。
「!!!」
逃げるどころか声が出なかった。
しかも、Gは用を足している真っ最中だった。
Sは言った。
「動くな! 手を上げろ!」
まるで刑事ドラマである。
俺は煙草を持ったまま両手を上げた。
Gは、ズボンの前を開けたまま振り向いたが、出している最中で動きようがなかった。
完全な現行犯だった。
当然、親は学校へ呼び出された。
そして俺たちは、無期停学の処分。
毎日、一般生徒より早く登校して、「生徒指導室」に閉じ込められ、反省文を書く日々。
そして、一般生徒の授業が終わる前に帰される。
他の生徒とは接触禁止の生活となった。
進学校に入り、そこそこ勉強もできている一方で、授業をサボり、煙草を吸い、教師から逃げ回り、ついには無期停学。
最終的に、冬休みに入る直前、約10日で停学は解けたが、我ながら、随分と面倒くさい高校生だったと思う。
ただ、誰かを傷つけたり、カツアゲをしたりはしなかった。
そこは、俺の中ではポリシーが違った。
喧嘩っ早いわけでもなかったし、弱い者を見つけて威張り散らすようなことにも興味はなかった。
俺が反抗したかったのは、決められたルールや「こうあるべき」という大人社会の空気だった。
そんな俺だったが、振り返ってみると、昔からなぜか人前に立つ側に回ることが多かった。
俺は小学校時代に放送部だった。
そして、中学校でも、なぜか、いつの間にか放送部の部長になっていた。
立候補したつもりはないが、放送部には1年や2年の後輩もいた。
俺が中学を卒業すると同時に、3学年違いの妹が、俺と同じ田隈中学に入れ違いで入学した。
俺は、運動部には所属していなかったし、特に目立った存在だったつもりはないが、ある日、中学校から帰った妹が俺に言った。
「もう、お兄ちゃん! 私が登校する時、2年生か3年生かわからんけど、校舎の窓から何人か顔を出して、『来た、来た、来た! ゆうたん先輩の妹!!』って指差されて、めっちゃ恥ずかしかった。そして私が教室におったら、F先生が来て『おい! このクラスにゆうたんの妹がおるって聞いたけど、誰や?』って言ってきたよ。びっくりした。お兄ちゃん、何ばしたと?」
俺は何も悪いことをしたつもりはなかったので、「へぇ、知らんばい。何もしとらん!」と答えた。
F先生は、3年の時の担任ではあったが、本当に心当たりはなかった。
後輩に注目されてた自覚もなかった。
そして高校では、毎年の体育祭に向けて、ブロック単位に分けられて、それぞれの応援団が結成されるのだが――ここでも立候補したつもりはないが、1年の時から応援団員になっていて、3年の時は応援団長になっていた。
体育祭の時の応援団長といえば、花形である。
くどいようだが、立候補はしていない。
俺は、すっかり忘れていたが、高3の時、田隈中学の誰かから依頼されて、城南高校の応援団長として田隈中学へ応援の指導に行ったりしたそうだ。
数十年経って、当時の後輩から聞かされて、俺は「ん? そんなことあったっけ?」と答えた。
応援団長としての俺の衣裳は、少林寺拳法の法衣と呼ばれる特別な行事や儀式で着る少林寺拳法の正装で、統制長クラス限定の装飾衣裳だった。
そのド派手な衣裳を着て、在校生徒が1学年10クラス450人、3学年合計で1350人、更にその家族や来客と他校生徒、推定合計4000人近くが見守る中、俺は「応援の舞い」を踊るのであった。
ヘアスタイルは当然リーゼント。
だが、学校から保護者へ「体育祭当日、もしパーマをかけてくるような校則違反があれば、校門から中には入れることはできないし、体育祭への参加も禁止とします。」という通達があったそうだ。
そうとは知らず、俺は体育祭前日の夜、理髪店でばっちりリーゼントを決め、体育祭本番で髪型が崩れないように、パーマでガチガチに固めた頭で帰宅した。
すると母は、そんな頭で帰宅した俺を見た瞬間、突然泣き出して言った。
「あんた、体育祭の本番に向けて、炎天下の中、毎日あんなに頑張って応援の練習をしてきたのに、そんな頭じゃ学校に入れてもらえんとよ。どうするんね?」
親に泣かれた俺はビックリして、反骨精神に背くようで悔しかったが、ここでは折れるしかなかった。
母の涙には勝てなかったのだ。
さっきパーマで固めたばかりの頭を、何度もシャンプーをつけてシャワーで洗い流した。
だが、翌朝はすました顔で髪を下ろして登校し、教室に着いてから、カバンに忍ばせたグリースと櫛で丁寧にリーゼントを再現した。
この頃には、小学生の頃に抱いていた劣等感は消え、自分のアイデンティティの方向性が見え始めていた。
そしてその矛先は、「大学には進学しない」という結論へと向かっていくのだった。
高校3年の2学期、学校のカリキュラムとして担任教師から最終的な進路指導を受けることになっていた。
その前に両親には、大学に進学しないことを伝えた。
母は数秒間絶句した後、「今まで頑張って勉強してきて、せっかく城南に入ったのに。それでどうするとね?」と言ったが、この時の母は泣かなかった。
父は数秒黙り、「好きにしろ。その代わり自分で責任を取れる覚悟を持て。」と言った。
俺は心の中で「第一関門クリア!」と叫んだ。
しかし、その後どうするのか?
まだぼんやりとしかイメージできていなかった。
そのイメージとは、「何かパーソナリティが活かせる仕事がしたい。」だった。
とは言え、当時は、パーソナリティという言葉さえ知らなかったが。
大学へ進学した場合の4年か6年の間に、実現できる何か。
では、その何かとは何か?
という自問自答が、進路指導が行われる日までの数日間続いた。
そして、まず考えたのは、「福岡にいたら友達と遊んでしまって、大学に行かなかった意味がなくなってしまう。東京へ行こう!」だった。
東京には、父の姉とその娘、伯母さんと従姉が住んでいた。
もし万が一、何かあれば助けてくれるかもしれない、という甘えもあった。
前述のように、俺は幼稚園の頃から絵画を習っていて、小学3年過ぎには油彩画を描くまでになっていた。
中学に上がると同時に習うことは辞めていたが、その名残りで、俺の家の玄関の扉を開けると、正面に、俺が描いた黄色い薔薇の油彩画が飾ってあった。
俺が飾ってくれと頼んだわけでもないし、その黄色い薔薇の絵を選んだのは母だ。
俺は知らなかったが、母が言うには、黄色い薔薇の花言葉は「幸福」「温かさ」「美」「友情」「献身」「思いやり」などがあるとか。
それを聞いた時、一瞬「俺、絵描きになるか?」と思ったが、俺の中では、あまりにも絵描きは金になりそうじゃないイメージだったので、あっさり却下。
そう、大学へ行かずに東京へ行く俺には、お金を稼げることが必須条件だった。
父の「好きにしろ。その代わり自分で責任を取れる覚悟を持て。」という言葉が、フラッシュバックした。
俺は、「音楽か?」とも考えた。
しかし、福岡発の「めんたいロック」がブームになったとはいえ、バンドでデビューする前提で上京するわけでもない。
もし俺一人で「音楽やります!」と言ったとしても、下手くそなギター小僧が金を稼げるとは思えなかった。
ある時、高校生バンドの仲間の一人が「東京の専門学校に行く。」と言ったが、俺は、その時は「そうなんだ。」くらいしか思わなかった。
そして後日、家族で晩御飯を食べた後の団欒の時間に、俺はバンド仲間が専門学校進学で東京に行くことを話した。
すると、母は「いいじゃない。あんたもそれ考えてみたら?」と意外な反応をしてきた。
俺が驚いていると、母は「東京の専門学校に行って勉強するなら、大学に行ったと思って、4年間は仕送りしてあげてもいいよ。」と言い、さらに母は父に「ねぇ、お父さん?」と。
父は快諾とまではいかなかったが、ゆっくりと「うん、いいよ。でも何の専門学校に行くんだ?」と言った。
俺は、正直あんまり考えていなかった。
咄嗟に「まだわからん。調べてみる。」とだけ答えた。
俺の中で「第二関門クリア!」という声が聞こえた。
「大学に行かない」と決めた俺と、「東京での生活費をどうする?」と悩む俺との間に、一本の光が差した。
4年間の執行猶予ができたのである。
そして俺は、1年前のあの「事件」を思い出した。
バンド、音響、照明、スタッフ。
そのすべてが一塊となって、人の心を震わせる。
あの世界に行きたい。
その感動を胸に、東京・渋谷にある音響技術専門学校の福岡説明会へ母と参加し、レコーディングエンジニアコースへの入学を決め、その学校の寮に入ることにした。
担任教師との進路指導でも、大学へは進学せずに東京で音響技術の専門学校へ行くという宣言をした。
これが、俺の「覚醒」の経緯である。
しかし、人生とは予想どおりには展開しないことが、よくあるらしい。
上京後の学生寮での出会いが、その後の俺の人生を築くきっかけを作ってくれるのであった。
予告
第五話「覚悟」へ続く――。
